序章
「さて、どうしようかしら?」
私の目の前には、白紙のノートが開かれている。夜が更けて密かに梟の鳴き声が聞こえるなか、私は鉛筆を手に取り、漠然と頭の中に浮かぶ物語をなんとか形にしようとしていた。
「ああ、眠い……」
眠気が書くのを邪魔する。そして、薄ら頭の中に浮かぶ物語とはまったく関係のない情景が、突然目の前に広がってくる。そしてそれは、とても退屈なものばかりだ。
毎日がとても退屈だ。女学校での勉強の日々。結局勉強したところで、自分が思い描く理想の道に進めるとは、とてもだが思えない。
女にも教育をと言うが、結局のところ、女はこうだ、こうあるべきだと、身をもってお勉強させられる。まさに詭弁だ。
女であることが疎ましい。男と女で一体何が違うというのだ。結局のところ、そんな大差変わらないというのに。むしろ、子を産むことができる女のほうが、敬われて然るべきはずなのだが、この世の中は男のほうが偉く、女はそれに従うべきという決まりなのである。
なぜ男の言うことに従わなければならないのだ。大抵の男なんて馬鹿ばかりであろうに。関心は戦ごとばかりで、気に入らないものは、力づくでねじ伏せようとする。あとは女、少しでも良い女がいれば、その尻を後ろから追いかける。まさに盛りがついた雄猫だ。女を取り合う姿なんて、本当にみっともない。明治から大正に変わって早一年。少しは時代が変わるのかと思えば、名前だけが変わるだけなのか。
「はあ〜……」
私はため息をつく。こんなこと、あれこれ物思いにふけったところで、どうしようもない。
……女学校もあと、半年もすれば卒業だ。一番の成績でいるものの、私はこの先の進路をまったく決めていなかった。他の女子たちが次々と自分の進むべき道を決めていくなか、私は自分がどうしたいのか、その進むべき道がまったく見えてこないのだ。
貧乏な身の上、女手ひとつで母は私をここまで育てた。私はどうやら他の子たちよりも物覚えや要領が良かったため、こうやって学校にも行かせてもらっている。男にいいように弄ばれ捨てられた母にとって、苦労のないようにと、娘に対する想いなのであろう。しかし、その母の想いとは裏腹に、私は自分の今後というものに、真剣に向き合っていなかった。
私が今後すべきことは、この半年の間に男を見つけてそこに嫁ぐか、大学校に進学するかどちらかだ。女学校で誰よりも学のある私にとって、大学校への進学は容易だと思うし、こんな無愛想な性格であっても、言い寄ってくる若い男はそれなりにいる。
しかし、私にはそれがどうもぴんとこないようだ。と言うか、なんとなく気乗りしない。私は女とか、男であればこうあるべきという、そういった類いのものに縛られたくないのだ。私は自由でいたい。できればこうやって小説など書くなどして、ずっと空想にふけっていたいのだが。
そうこうしているうちに、眠気がさらに強まり、気づくと顔を机に伏せてしま……。
目が覚めると、蝋燭の明かりが消えていて、月明かりが薄ら窓から入ってくる。どうやら、まだ真夜中のようだ。
私は椅子から立ち上がり、蝋燭に火をつけようとしたところ、何やら人影があることに気がついた。
私は振り返る。後ろにあるもう一つの椅子に、何者かが座っている。
「……誰⁉︎」
私は思わず声を出したものの、恐怖で身体が震えてしまう。
「うふふふっ……」
若い女の声だ。母の声ではないし、同じ女学校の女子のうちの誰かなのだろうか。でも、この声の人物にまったく心当たりがない。
次第に目が慣れてくると、徐々に謎の人物の姿が浮かび上がってきた。
私の目には、黒の着物を着た若い女の姿が映っていた。しっかりと化粧された顔で、目鼻立ちが整っている。だが、この顔どこかで……。
「初めまして、藤澤いすゞさん」
女が私の名前を言った。そして、妖しい微笑みをこちらに向けてくる。
「なんでわたしの名前を知ってるの? わたしはあんたのことなんか知らない。誰よ?」
こんな得体の知れない人物が、なんの断りもなしに、しかも自分の部屋に入ってきたとなれば、叫び声を上げて助けを求めてもいいものだが、なぜかその気がまったく起こらない。ただ、私はこの謎の女に何かされないだろうか、身体を小刻みに震わせることしかできない。
「あなたは知ってるはずよ」
女はまたも妖しく微笑む。このなんだか上から目線な感じと、どこか人を馬鹿にした雰囲気に、私は腹が立ってくる。でも、どこかでこの女を見た気が……この光景を見たような気がしていた。
「そんなの知らない……今、大声を出せば、人が来ますよ……」
私の言葉を聞いて、女は可笑しかったのか、声を出して笑った。
「だったら、もうすでにやってるのではないの? そう、あなたはできないはず。人を呼ぼうと思っても呼べないの」
女の瞳は何もかも見透かしてるかのようだ。この女の言う通り、私は大声で助けを呼べないどころか、女に殴りかかることさえできそうにない。金縛りではないのだけれど、何やら大きな力に支配されているような気がする。
「もう一度言うわ。あなたは私のことを知ってるはずよ。そう、ずっと前から……」
女はまたも妖しく微笑む。だがそれは、先ほどまでの微笑みとは違い、もっとどこか邪悪な、まるで本当の妖かのような危なく不可思議なものに思えた。
「これで最後。もう一度言うわ。あなたは私のことを知ってる……」
女の妖しく光るその眼光に、私は視線を逸らしてしまう。すると、女の後ろにある鏡が目に入る。そこには当然のことながら、私の顔が映っていた。
似ている。この女ほど洗練されていないが、見れば見るほど、この女と自分との顔がよく似ているように思えてくる。
「あんたは誰なの⁉︎」
「まだそれを言うの。本当はもう知ってるくせに」
女はどこか呆れたような、諦めたような、それでいてどこか意地悪な感じの笑みを浮かべた。妖しげな雰囲気をそのままにして。
「……わたしをどうする気?」
「どうする気って、別に取って食おうなんて思わないわ。いや、ある意味そうかもしれないけど」
私は女の言葉を聞いて、いきなり襲い掛かろうと思った。しかし、私の意思とは正反対に、おとなしくこの女の話を聞いている。このことに私は驚きとともに、動揺がさらにひどくなる。
「そうね。もう少し、私に対して素直になってもらいたいかなって、そう思ってるのよ」
「意味がわからないわ。何を素直って? こんな素性もわからず、いきなり人の家の中に入ってきて、素直になんてなれるわけないでしょ。それに何を素直になればいいのか、まったくわからないのにさあ……」
女はため息とも嬌声とも取れる声を出し、私に近づいてくる。
「もっと素直になりなさいって、これだけ言ってるでしょ……」
女は私の耳元でそう囁く。私は女の声とともに出る吐息が耳に当たり、なんだかむず痒く感じた。
「あら、敏感なのね。でもそれでは、男を手玉に取れなくってよ。ほら、こうやって、ちゃんと目と目を合わせて……」
女はそう言うと顔を近づけてきて、いきなり口づけをした。女の唾液が私の舌を通して流れ込む。舌と舌とが絡み合い、女の温もりを感じた。
「これで少しは素直になったかしら……」
ああ、思わずとろけてしまいそうだ。このときの私は、自分の意に反して、情けないほどふやけた顔をしていたに違いない。私は恥ずかしさのあまり、顔を背けた。
「素直になったと思ったら、これは思ったより強情なようね」
「好きじゃない男でも嫌なのに、まさか女にやられるなんて、ああ、もうお嫁にいけないわ」
私は涙目になりながらそう言った。
「お嫁に行きたいなんて、本当は思っていないくせに」
私は涙を拭いて顔を上げると、女は私の顔をまっすぐ見下ろしていた。
「女として生まれてきたのが嫌で、男にいいようにされたくないあなたが、お嫁に行きたいなんて思ってるわけないでしょ。私はあなたのことならなんでも知ってる。あなたは男でも女でもない、そんな枠の中に収まりたくない、ただただ、自由に行きたいだけ」
その通りだ。彼女の言う通り、私はただ、自分らしく自由な生き方がしたいだけなのだ。
「あんたに言われなくたって、そんなことわかってる」
女は私のところまで歩いてくると、私の頬を両手で触れた。
「じゃあ今度こそ、素直になって……」
そして、再び口づけをした。舌が絡み合い、なんだか徐々に気持ち良くなっていく。もう、くだらない意地なんて、正直どうでもいい。どうでもよくなれといった感じだ。
口づけが終わると、お互い見つめ合う。彼女の口から私の中に、何かが入っていく感じがした。
「今度こそ少しは素直になったかしら……」
彼女の妖しげな顔が微笑んでいる。私はその顔を見て、たまらなくとろけてしまいそうになっていた。ああ、もっとこうしていたいと……。
「じゃあ、そろそろ行くわ……」
彼女は踵を返すと、扉を開けて部屋から出ようとする。
「ねえ、あなたの名前を教えてもらえる?」
彼女は私の言葉に振り返ると、囁くようにこう言った。
「夜羽真紅。それが私の名前。そしてこれからは……」
彼女の言葉が途中で途切れ、私は気持ち良さのあまり、次第に意識が途切れて……。
目が覚めると、ここは私の部屋。蝋燭の明かりは消えていて、窓からは月明かりが入ってくる。そして部屋には、私の他、誰の姿も見当たらない。
私は蝋燭に火をつけると、白紙のノートにこれから描く物語を書き込んでいった。
翌朝、学校に行く時間、いつものように友人の朋枝がやってくる。
「いすゞ、早く学校に行こう。でないと、遅刻しちゃうよ。って、いすゞ?……」
私は玄関の前に立っている朋枝に近づくと、彼女の頬に両手を当て口づけをした。舌を絡ませながら、相手が気持ち良くなれるように、上手く転がしていく。
口づけを終えると、朋枝は驚きと恥ずかしさのあまり、後ろに思いっきり下がる。
「ちょ、ちょっと! 一体何⁉︎ どうしたの? いすゞ⁉︎」
私は恥ずかしそうにしながらも、とろけた顔をしている朋枝を見ながら、舌舐めずりをしてこう言った。
「さあ、これから朋枝のこと、どうしようかしらね。ふふふ、とても楽しみだわ」
困惑して、恥ずかしそうにも、怯えているようにも取れる学友の顔は、それはそれはとても可愛かった。こうやって遊ぶのは、とても楽しい。こうやって遊ぶことができるのは、この世でただ一人、私だけではないだろうか。
さあ、これからどうやって、朋枝のことを手玉に取ってやろうか。こうやって今後も、いろんな男や女を戯れ半分で手玉に取ることを考えると、これからの私の物語はどんどん面白くなっていくように感じられる。
さあ、これからどんな物語を書いていこうか。私は今、そのことを考えるのが楽しくてたまらなかった。