第一話:怪しい隣人
優斗が新しいアパートに引っ越してきたのは、春の柔らかな日差しが差し込む午後だった。古いながらも静かな住宅地に建つそのアパートは、学生街の一角にあり、通学にも便利だった。新生活への期待を胸に秘めながら、彼は荷物を整理し、一息ついてこれからの生活を思い描いていた。しかし、引っ越し初日から彼の心にはある違和感が生まれていた。それは、隣の部屋から聞こえてくる奇妙な音や声だった。
日が暮れると、隣の部屋から低く抑揚のある声が壁越しに響いてきた。その声はまるで何かを唱えているようで、内容は聞き取れなかったが、その響きはどことなく耳慣れない言葉だった。
「エルドリア…トゥレム…?」
優斗は最初、隣人が趣味で小説でも執筆しているのだろうと思い込むことで自分を納得させようとしたが、その音が繰り返されるたびに薄ら寒いものを感じるのだった。
数日後、ゴミを出しに行った優斗は隣人と初めて顔を合わせた。
「おはようございます」
と気さくに話しかけてきたその青年の名前はリオ。リオは優斗より数歳年上に見える、親しみやすそうな笑顔を持つ青年だった。特に変わった様子はなく、優斗も少し安心して会話を交わした。しかし、その時リオが持っていたゴミ袋の中身が優斗の目に入った。それは、古びた瓶や奇妙な記号が描かれた紙の切れ端が詰まったものだった。その一瞬の光景が頭を離れず、優斗は隣人がただの普通の青年ではないのではないかという疑念を抱き始めた。
それからというもの、優斗は隣人の行動を気にせずにはいられなくなっていた。ベランダからふと見えるリオの部屋の中には、壁に貼られた地図や謎めいた図形が目に留まった。それらはどう見ても普通の生活で必要なものではない。また、リオが外出する時には、彼が大きなバッグを持ち歩き、その中から何かがカタカタと音を立てているのを優斗は何度か目撃していた。
そんな観察の日々が続く中、決定的な出来事が起きたのはある夜のことだった。その日は日付が変わる少し前、隣の部屋から突然大きな物音と怒声が響いてきた。
「モンスターが出た!」
「くそ、またか!」
という叫び声に、優斗は驚きで固まり、思わず壁に耳を押し当てた。壁越しに聞こえてくるのは、床がきしむ音や、何かが激しくぶつかる音。そして突然、すべての音が止まった。静寂の中で優斗は息を潜め、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。数分後、疲れたようなリオの声が壁越しに漏れ聞こえた。
「…大丈夫、これで終わりだ」
その翌日、優斗はリオに直接問いただすべきか迷ったが、結局勇気が出ず、何もできなかった。しかし、隣人がただの普通の住人ではないという疑念は、もはや優斗の中で確信に近いものへと変わり始めていた。隣の住人は、異世界転生者なのではないか?という突飛な考えが頭に浮かんでは消え、そのたびに自分の想像力の豊かさに苦笑するものの、どこか拭えない現実感がそこにはあった。それ以来、優斗は隣人を観察し続ける日々を送ることになる。引っ越し早々、平凡なはずの日常が非日常へと静かに変わっていくことに、彼はまだ気づいていなかった。