二章 1/3ぶりの出会い
何日ぶりに家を出たんだろうか。今はちょうど春休みになり大学も無かったため、ここ1ヵ月ほどは家を出ていなかった気がする。インターネットで全て済んでしまうのだから何の苦痛でもなかった。食事やら買い物やら、全てをパソコン一台で完結させる生活を送っていた。少し前に惰性で完成させた曲をなぜかYouTubeに投稿してから、どっかのちょっと偉い大人に曲を使って貰えるようになって今日まで金で困るようなことはなかった。
街はまだ暗い。スマホを家に置いてきてしまっていたので、明確な時間はわからない。だがおそらくさっき時計の音を微かに5回聞いたので5時以降なのであろう。歩いていても周りに人は誰もいない。それでいい。出きるだけ人とは会いたくないので、この状況が少し嬉しかった。いつも以上に時間がゆっくり進んで、静寂の色が多いような気がした。俺には死ぬ勇気がない。それは昔からそうだった。死にたいと思っても、声に出しても体はついていかない。それは多分、俺と同じ気持ちを持つみんなそうだ。死ぬなんていくらでもできる。だけど死ねない。怖い、痛い、苦しい。そんな思いがあるからだろう。おそらく、今を生きる世界中のおよそ半数以上の人が経験したことのあるネガティブな思考だと考える。あくまで推測だが。だから俺は普通の人間だ。思ってもなにも出来ない。
俺の親父は俺が8歳のときに交通事故で死んだ。赤信号を無視して歩道に突っ込んできたトラックに跳ねられたとのことだった。詳しいことは昔すぎてあまり覚えてない。板金工場で働いて、鉄と煙草の匂いの染み付いた顔でいつも俺を笑わせてくれた存在は親父くらいだった。そんな親父が物心ついてから死ぬなんて思ってもいなかった。事実を受け止められないショックで、人生で初めて最早涙も出ないほどの悲しみを覚えた。多分俺が死ねない要因は親父にもあるんじゃないかと考える。親父が俺を死なせてくれない。いつもニコニコしている親父だったが、俺が小学校1年生のとき、友達と喧嘩をした際に友達を殴って流血させてしまったことがあった。すぐに学校から母親に連絡がいった。しかし共働きだったので職場から学校まで近かった親父が、作業服姿で血相を変えて学校まで飛んできたのを昨日のことみたいに覚えている。いつも俺を笑わせてきた親父が相手の子の親に真剣な顔で頭を下げている光景には子供ながらに驚いた。それと同時にとても申し訳なくなって、俺も大泣きしながら相手の子と親に謝った。家に帰ってから親父は「ばっか野郎!」といって俺に拳骨を食らわせてきた。いつも笑っていた親父だったから、親父の怒ったところを見たのはそれが初めてだったかもしれない。親父は何があっても人に手を出して、ましてや怪我をさせるなんてしてはいけないと俺を叱った。子供ながらにそういうなら殴るなとおもった。おそらくその子の痛みを教えるためにも俺に拳骨をしたのであろう。親父のことは大好きだったが、その瞬間だけは未だに少し納得がいっていない。しかし俺がちゃんと相手の子と親に謝ったことだけは褒めてくれた。そのときに食らった拳骨の痛さは今でも覚えている。子供の頃に雲梯から落ちたり、ハサミで指を切ったりしてしまったことがあったが、それを差し引いても親父の拳骨は全ての中で一番痛かった。俺の他の人と違うのは、怖いなどの死ねない要因のなかに「親父の拳骨をまた食らいたくない」というふざけた理由があるところだと思う。
そんなことを無心で考えながら家から2、3キロメートルくらい歩いたところで、ふとコンビニを見つけた。と同時に身体中がどっと重くなった。今日まで家を出なかった分の重みが一気に背中におぶさってきた気がした。喉が渇いている。しかし、なにも持たずにただジャージを羽織った俺は財布を持っていなかった。近くに水呑場もないので俺は慌てた。あたふたしているとポケットのなかに丸くて薄いなにかに触れた。俺はすぐさまその希望を握りしめ、ポケットから取り出した。百円玉だった。俺は目で確認してすぐさまコンビニに駆け込み、飲料コーナーにあったちょうど税込100円の水のペットボトルを1つ持ってレジに走った。早くこの水が飲みたい。その一心だった。身体の重みがその一瞬だけ吹き飛んだ気がした。しかし、レジには誰もいなかった。無我夢中だったから気付かなかったのだが、客も俺一人だけだった。早朝だからそれもそうか。俺は近くで商品の前出しをしていた女性店員さんに弱々しく「すみません」と声をかけた。人と話すのが久しぶり過ぎて、「すみません」の一言を発するのに1分くらい要した気がする。するとその店員さんは「はい!少々お待ちくださいね」と明るく返してくれた。その瞬間俺のまだ眠っていた頭が一気に覚めた。かつてその声をどこかで聞いたことがあるような気がした。どこだったかは覚えていない。いや、おそらく覚えないようにしていたのだろう。俺はその女性店員の顔をなるべく見ないようにした。開き戸からレジに入り、「お待たせいたしました!」と言って台に置いたペットボトルを手に取り、スキャナーでバーコードを読み込んだ。俺はこの人が決して他人ではないという気がしていた。しかし、誰なのかを全く思い出せない。金銭を置くカルトンに百円玉を置いている間も脳をフル回転させて考えた。しばらくして「レシートのお返しです」といって白く綺麗な肌の手からレシートを受け取ろうとしたときに彼女の胸につけてある名札に目がいった。「春木」と書いてある。その瞬間に俺は全てを思い出した。7~8年前の俺の身に起きた思い出したくもない黒い日々、そしてそんなときに俺を照らしてくれていた細い一筋の光のような存在のことを。俺は一瞬だけ彼女の目を見た。間違いない。するとそのとき彼女と目があってしまった。俺は逃げるようにコンビニを出ようとした。そのとき僅かにだがその女性店員が俺の顔を見てハッと何かを感じたような音が聞こえた。俺はもうなにも考えずにただただここから立ち去りたかった。思い出してしまう。嫌だ。するとその女性店員が足早に去ろうとする俺に声をかけた。
「もしかして松川くん?」
今思うとこの21度目の誕生日に俺の全てが変わったような気がしている。