毒蛾と水獄
津波のように迫りくる脅威に体が強張る。
剥き出しになる牙と滴るよだれが一層恐怖を増大させる。
知性の欠片もない咆哮とともに襲い掛かってくる狼たちに、俺は薄皮一枚のぎりぎりでかわすことしかできない。
当然それは紫水や青薔薇、山吹も同様で何とか生き延びているといった感じだ。
唯一、赤星だけがその律を行使して脅威を燃やし尽くしている。
体感温度が上昇していく一方で、その火力は未だ弱火のままだ。
それは、俺達のことを気遣っているからであり、無尽蔵に被害を考えず爆炎を放てば俺達も巻き込まれることは必須。
故に、赤星は習得したてのはずの業火の律を制御しているのだ。
いや、正確には彼の比重は青薔薇、山吹が大半を占め、時点で紫水、そして俺にはほとんどおかれていない。
率先して女性陣に噛みつこうとする狼を排除し、紫水が危険に陥りそうな時はサポートをする。
しかし、俺の周りの死神たちの数は以前変化はない。
視覚内外から鋭く尖った爪と牙が散弾銃のように命を絡めとろうとする。
運動神経は良い方ではないはずだが、こうも生命の崖の端っこに立っていると限界という天井は取り払われる。
紙一重の回避を連続できる。
しかし、これがいつまで続くかは分からない。
「なんだこいつらどこから湧いてきやがる!」
問題はそれだけではない。
狼どもの強襲が一向に止まないのである。
撃破速度は遅くとも、赤星は着実に脅威の数を減らしている。それでも終わりが見えてくる気配はない。
このままではいずれ......
「きゃあああ!!!」
その予感は的中する。
青薔薇は寸前のところで攻撃をかわす。というよりは足を絡ませて転び、偶然攻撃をかわせたといった方が正しい表現だ。
不意の事故。だからといって本能で動く奴らが止まるわけがない。
どういう了見かは知らないが、命のやりとりに公平性はないのだ。
赤星のフォローも間に合う気配はない。
「聖良!!!!!」
彼の怒号だけが青薔薇に届く。
「来ないで!」
青薔薇は目を閉じ、醜悪な獣を視界から無理やり排除する。
せめてもの抵抗として腕を振り払うようにして、狼どもをいなそうとする。
それが無駄なことであるとわかっていても。
ところが、結末は予想外の方向へと向かう。
たちまちにして狼の動きが鈍くなり、その場に伏せたのだ。
何が起きたのか。
誰もが目を丸くし、当事者でさえ現状を理解していない。なんなら本能の塊の獣ですらその足を止めている。
倒れた狼をよく見ると、体には緑かかった粘性のありそうな液体に浸食されていた。
体は痙攣しており、口から泡を吹いている。
なるほど、これは毒か。
「私の律......毒蛾の律.....」
青薔薇も自身の律を強制的に理解させられたようで、ぽつりと『毒蛾の律』とこぼす。
一瞬、同様の色を見せた青薔薇だったが、すぐにその力に適応する。
立ち上がり、鋭い眼光を獣に浴びせる。
「覚悟しなさいよ、お前ら」
青薔薇は土で汚れた服を手で払い落す。
刹那、青薔薇は野球ボールを投げるようなモーションを取り、代わりに生成したであろう毒の塊を投げつける。
しかし、制球力はなく当たらない。
「しゃらくさい!」
が、そんなことはお構いなしに毒を投げ続ける。
数打てば当たるを有言実行するように、水風船のように何度も何度も毒を投げ続ける。
そのうちのいくつかは当たり、次々と狼たちの体の機能を奪っていく。
質の悪いところはこれだけではない。
外れた毒の塊は地面にそのまま残り、天然のトラップと化していたのだ。
逃げ回る狼たちはその設置型の罠にまんまと嵌る。
毒に触れた生物は悉く体を蝕まれ、命の音が小さくなっていく。
調子の戻った青薔薇だったが、彼女は気づかない。
背後に迫る脅威に。
赤星はそれに気づいて再び声を荒げる。
「聖良!後ろ!」
ハッと気づいて青薔薇は首を回転させる。
しかし、もう遅かった。
毒の生成に注力した青薔薇だったが、間に合うことはなく食われる寸前だった。
刹那のことである。
命を刈り取ろうとした狼の動きが、体を包み込む液体の塊によって捕らえられた。
しばらく暴れまわったが、ついに狼は意識を失った。
「よかった間に合って」
声の方向を見ると、そこにはスマートに髪をかき上げる紫水の姿があった。