狼のたのみごと 2
「――ロリンズ。例えばおまえが敵国に送り込まれたとして、まず手始めになにをする?」
「随分と物騒な話だな」
穏和そうな見た目に反して、なかなか過激なことを言う。そう変に感心しかけて、コーデリアはすぐにそれを思い直した。
これは先ほどした問いの続きだ。それなら、と酒精で鈍りかけていた頭を働かせながら応えた。
「送り込まれた目的と状況にもよるだろうが、まずは身の安全の確保だな。武器、食料、退路、最低でもこの三つが無ければ始まらない」
「教本通りの答えだが、真理だな。では、武力を禁じられた状況ならどうする」
「それなら現地で協力者を調達するしかないだろう。脅すか、躾けるか、見返りを餌に懐柔するか。この手の小細工は得意じゃないんだが、他に手がなければ已むを得ないだろうな……」
そうぼやくように答えたコーデリアの頭に、ふと過ぎるものがあった。
「まさかとは思うが、今朝のあれがそうだって言うのか?」
イライアスが頷く。
「恐らくは。奇妙な言動はともかく、彼女たちがその手の命を帯びていることは間違いない。そもそも貴族の子女ばかり送り込んで来た時点で、あちらがなにを考えているかは明白だろう」
「まったく、なんとも胸の悪くなる話だ。手堅く楽な方法なのは認めるが、だからと言って子供にやらせることじゃない」
口汚く罵りそうになったのを、コーデリアは葡萄酒で流し込む。どれだけ気に食わないと思っても、他国の事情である以上は憤ることに意味はない。
「……今朝の彼女はアリシア・ハイド、と言ったか。ことを為せるかはともかく、目の付け所だけは褒めて然るべきだな」
言ってコーデリアはイライアスにちらと視線を向けた。
近衛騎士に任じられるだけあって、彼の血筋は建国記に名を連ねられるほどに古い。もちろんイライアス自身も有能だ。騎士である以前に戦うことを知る戦士で、そのくせ冷徹で物事を俯瞰するような広い視野を持っている。
用兵の課程では同期の誰も彼には敵わず、訓練教官さえ舌を巻くことがしばしばだった。感情的に振る舞うことはせず、そのくせ周囲を奮起させ、やる気にさせるのがやたらに上手い。今は小隊を預かるのみだが、いずれは団を率いるだろうと周囲からも目されていた。
外見も悪くない。華のある美形とは言えないまでも、顔立ちは嫌味なく整っていて、凛々しくも生真面目そうな印象を与える。黒斑の灰色の髪や瞳の金は、狼の一族にはごくありふれた色彩だろう。長身だが騎士にそれは珍しくなく、体格もずば抜けて逞しいとは言い難い。要素だけを挙げれば他に埋没してしまいそうなのに、彼は人を惹き付ける不思議な魅力の持ち主だった。
恋に恋するような少女が、目の色を変えてしまうのは無理からぬことだろう。
コーデリアから無遠慮な眼差しを向けられていたイライアスは、居心地悪そうに身じろいだ。
眉間に深い皺を刻んで言う。
「俺に色目を使っても、身の安全以外に得るものがあるとは思えんが。オーサントの留学生たちが求めるのは、政治中枢への伝手だろう。ディグラントは数ばかり多い一族だから、血筋を辿れば行き当たる者もいる。だが俺本人には影響力など欠片もないぞ」
「だからこそ狙い目なんだろう。見てくれだって悪くないしな」
「褒めているつもりなのか、それは」
信用ならないと言わんばかりの口調が可笑しい。コーデリアはくつくつと喉の奥で笑ってから、少しだけ表情を改めた。
「ところであの子が口にしていた、運命の番。あれの謎は解けたのか?」
イライアスが溜め息を吐く。
「それが分かれば苦労はしない。……ただの番なら、まだ分からなくはないんだがな」
「ああ、番に拘った鳥の一族を言ってるのか。でも、それだって歴史に習うような古い時代の話だろ? 今じゃすっかり廃れて、この国じゃ誰も口にしない」
かつてのベルサリウスは、獣としての本性により拘泥する者ばかりだったという。王は同種族以外との婚姻を認めず、二形を持つ者こそが正しき女神の信徒であると信じ込んでいた。
だがそうやって多様性を拒絶したことで種は行き詰まり、やがて古くから連なる血のいくつかを失った。それを悔いた後世の王は婚姻における種族の制約を撤廃し、ほとんどの種族は粛々と従った。ところが鳥の種族だけは、それを頑なに拒絶したのだ。
曰く鳥は番うものであり、それを理解出来ない種族は受け入れられない。国の定めで押し付けられるならば、と多くの鳥たちはベルサリウスを捨てて、新天地へと旅立って行った。
今は国内に僅かな種族が残るのみである。
「獣人と関わりを持たなかったオーサントの人間が、番なんてことを言い出したのもおかしな話だな。実は大昔に鳥の一族が移住した先だった、なんてことは有り得ないだろうし……」
「もしそうなら、オーサントはもっとまともな連中を寄越しているだろう」
なるほど奇妙な言動を取る留学生は、今朝の彼女だけではないらしい。辟易しきった様子で言ったイライアスは、だがすぐに表情を改めた。
「それ絡みで、おまえに頼みがある」
「頼み?」
首を傾げるコーデリアが考えを巡らすより前に、イライアスは畳み掛けるように言った。
「無関係のおまえを巻き込んでしまったことは、悪いと思っている。その上で頼みごとをする厚かましさも理解している。余計な迷惑をかけることも承知の上だ。だが今の俺には、これより良い手が思いつかない。だから――」
言い訳めいたことを滔々と語っていたイライアスは、ふと言葉を途切れさせた。
迷うような間があって、それからイライアスは気まずさを多分に含んだ声音で言った。
「成り行きでおまえを番と言ったが、あれをしばらく続けてはもらえないだろうか」
「おまえにしては、ずいぶんと短絡的な手を選んだな」
そう呆れ声で呟いてから、コーデリアは葡萄酒の入ったゴブレットをカウンターに追いやった。
「他にやりようはありそうだが、とは言え拙速は尊ぶものだからな。この手のことは男の方が圧倒的に不利だし、国の思惑も絡んでいる以上は、対処は早いに越したことはない。そう悪い手ではないだろう」
だが、と言ってコーデリアはおもしろがる口調で訊ねた。
「それに協力してやるとして、おまえが私に差し出せる利はあるのか?」
「それは……」
「まさかなにも考えていなかった、なんて言うんじゃないだろうな。まったく、おまえらしくもない」
からかう目で見遣ると、イライアスはあからさまに狼狽えた表情になった。
「いや、そういう訳では、ないんだが……。ただ、こういうのは、どう言えば良いのかが分からん。もちろん俺に出来ることならば、なんでもするつもりではいる。一族の名をかけてもいい。だがそれがおまえの利になるか、と言われると……正直言って自信がない」
心から困り果てている、と言わんばかりの様子に、コーデリアは思わず吹き出して笑った。
「意外と言うべきか、面白いと言うべきか。こうして話していると、おまえが狼の一族だってことを忘れそうになるな」
イライアスはあからさまにむっとする。
「……狼に遊び人が多いのは認めるが、だからと言って誰もが色事に長けているという訳ではない。中には誠実な付き合いを好む者もいる。……一族の中で少数派ではあるが」
その少数派であるらしいイライアスは、苦り切った顔で溜め息を吐いた。
「差し出せるのは俺の身ひとつだ。おまえが負う負担に、それではとても足りないだろうが、どうか助けてほしい。――頼む」
深々と頭を下げるイライアスの姿というのは、なかなかに価値のあるものではないだろうか。
士官学校時代の訓練で、何度も手痛い目にあっていた身としては、胸のすくような、自尊心を擽られるような不思議な高揚感がある。
コーデリアは黒斑混じりの灰色を興味深く眺めてから、あっさりと頷いた。
「いいだろう、助けてやる。それで、具体的には私になにをして欲しいんだ?」
快諾されるとは思ってもいなかったのだろう。顔を上げたイライアスは、どこか気の抜けた様子で言った。
「なにを、と言われてもな……。俺としては、口裏を合わせてくれるだけで充分なんだが」
「なるほど。それなら最低限、情報の共有は必要だろう」
言って、コーデリアは店内をぐるりと見回した。
「突っ込んだ話をするには、ここは耳が多すぎて向かないな。河岸を変えるか」
イライアスがそれになにかを言うのを待たずに、女将に声を掛ける。支払いを済ますコーデリアの横で、イライアスはなぜか深く溜め息を吐いた。