愛しき伴侶 3
いつぞやの夜に、オーサント人の侍女を誤魔化した時のことを言っているのだろう。かっと頬に血が上る。
あの時のあれは状況的に必要なことだったし、それにお互いそれなりに酔ってもいた。だから今まで触れずにきたのに、ここに来て話題に出すなんて意地が悪いにもほどがある。
愕然とするしかないコーデリアを他所に、イライアスは思う存分歯を立ててから顔を上げた。指に出来た咬み痕を満足そうに見やり、ふっと柔らかな表情を浮かべる。
「拗ねて腹を立てるのは構わないが、先に俺の理性を断ち切るような真似をしたのはおまえだ、ということは理解しておいてくれ。あれが無ければ、もう少し穏便にことを進めただろう」
「あれは……だって、非常時だっただろ」
「ならば訊くが、おまえは非常時であれば誰にも口づけを許すのか?」
そんなことはない。
だがそう言葉にしてしまうと、あの夜のことに明確な答えを出さなくてはならなくなる。出来ればこのまま先延ばしにしておきたい。とは言えこの状況でこれ以上の逃げは、イライアスが許してはくれないだろう。
いつぞや咬まれたうなじの傷痕が、じりじりと疼くような気がする。
「……否定出来ないことを訊くのは卑怯だぞ」
「否定されないと分かって訊いているからな。だからいい加減諦めろ、コーデリア。これだけ狼の求愛を受け取っておいて、今更逃げるのは不可能だ」
母にされた指摘と同じことを言われて、思わず眉間に皺が寄る。
「この部屋の鍵のことか。だがあれだって、だまし討ちみたいなものじゃないか。本来の意味で渡されていたら、あんな簡単には受け取らなかった」
「それだけではない。狼の一族からの求愛は基本、衣食住に即したものになる。伴侶のために住み処を整え、食事を提供し、衣服を用意する。つまり今まで共にしてきた食事と、渡した合い鍵がそれに当たる。衣服に関しては残念ながら今まで都合がつかなかったが、その代わりにこれを」
そう言ってイライアスは、コーデリアの手を軽く叩いてから放した。
立ち上がって暖炉の方へ向かい、マントルピースに載せてあった白い箱を取り上げた。イライアスはそのまま戻って箱をテーブルに置き、コーデリアの方にそっと滑らせた。
両手のひらに乗る大きさの箱だった。水色のリボンが斜めに掛けられていて、箱の上面には金でローランシアと箔押しされている。装飾品に興味の薄いコーデリアでさえ知っている有名店だ。
驚いて目を瞠っていると、イライアスが苦笑含みに言った。
「本来であれば、年明けの休暇に渡しているはずだった。料理は腕によりをかけるつもりだったし、葡萄酒も取って置きを用意してあったんだ。だがオーサントとのことがあって、オドネルから許可が下りるまで時間がかかってしまった」
おかげでずいぶんと予定が狂った、と苦りきった声で呟いて、イライアスはコーデリアに視線を当てた。
略式礼を取るように右手を胸に当てて言う。
「――コーデリア・ディ・ロリンズ。俺の唯一、愛しき伴侶。今すぐ想いに応えて欲しい、などと言うつもりはない。だが少しでも俺のことを好いてくれているなら、どうかこれを受け取ってくれ」
これまで強気だったのが嘘のような、普段の彼らしい礼儀正しい態度だった。だがそれにほっとするよりも、なにか裏がありそうで警戒心が頭をもたげてくるのが分かる。
思わず探るように見ていると、イライアスが仕方がないというふうに肩を竦めた。
「これを黙っているのは公平ではないから、一応伝えておく。おまえとの婚約に関して、ロリンズどのとウィリアム卿から許可は取ったが、それはあくまで申し込む段階までの話だ」
母から聞いていたのとは少し印象が違うな、と思いながらコーデリアは首を傾ける。
「……つまり正式な許可ではない、ということか?」
「ああ、まだ打診しただけに過ぎないからな。そもそも婚約を受けるかどうか、すべての決定権はおまえにある。ロリンズどのは協力を約束してくださったが、それは他家への牽制や横槍を防ぐことに対してのみだ。おまえに対する強制は一切しない、とあらかじめ言われている」
イライアスの言が本当なら、彼はずいぶんと母に気に入られたらしい。
婚約について確かに強制はされなかったが、薦められたし背も押された。娘の行動に干渉しない母にしては珍しい態度だ。
無害そうな顔をしてくるくせに、この男は案外人たらしなのかもしれない。平然としている表情を探るように見ていると、イライアスが白い箱にそっと手を置いた。
「――開けてくれ。気に入ってもらえるかどうかだけでも知りたい」
絶妙に断りづらい頼み方だ。
コーデリアは深く溜め息を吐いてから、水色のリボンに手をかけた。するりと解いて、紙蓋を持ち上げる。
箱の中にあるのは黒色のジュエリーボックスだった。蓋を開けて目を瞬かせる。ベルベット生地の上に、揃いのネックレスとイヤリングが並んでいる。
深い緑色の貴石に、金細工の花が描く曲線が美しい。鎖は艶消しの金で、落ち着いた華やかさが素直に好ましいと思った。
「綺麗だ」
思ったままを呟くと、イライアスが肩の力を抜いたのが分かった。
「おまえの瞳には敵わないが、並べて遜色ないものを選んだつもりだ。普段遣いにしてくれると嬉しい」
「……そうやって上手いことを言って丸め込むつもりか」
「そのつもりはない、と言っても説得力はないだろうな。だが安心しろ。正式に婚約を申し込む時には、相応の品をきちんと用意するつもりでいる。だからこれはその予約のようなもの、とでも思ってくれ」
うさんくさい、と思ったが言葉には出さなかった。
溜め息を吐いて、ジュエリーボックスに視線を落とす。イライアスはてらいのないふうだったが、コーデリアのことを考えているのがよく分かる。実際好みのデザインであるし、贈り物としては非の打ちどころがない。
だからこそ余計に面白くないのだが、イライアスはそれすら見透かしたかのように言った。
「それでも気に食わないと言うのなら、これは突き返してくれて構わない。おまえに迷惑をかけるのは本意ではないからな。だが新年の贈り物を拒まれるほど、俺はおまえに嫌われてはいないだろう?」
自信たっぷりに言うのがまた腹立たしいが、その指摘は否定できない事実である。コーデリアは眉間に深く皺を刻むと、半ば自棄になって言い放った。
「ああ、そのとおりだ。おまえのことは嫌いじゃない。むしろ好ましいと思ってる。それは認める。でも私には婚約だとか結婚だとか、そういうことを考えられそうにないんだ」
「それも解って求婚しているから心配するな。受け入れる覚悟が決まるまでは、おまえのためにのんびり料理でもして待たせてもらうさ」
それに、と言ってから、イライアスはちらと苦笑を浮かべた。
「完全に予定外の事態ではあったが、うなじを咬んだことで俺にも余裕ができたからな。待つのはまったく苦にはならん」
「マーキングか。……自分のことだから聞いておきたいんだが、そんなに違うものなのか? 母は縄張りを荒らすようなものだ、と言っていたが」
そう聞きかじりを口にすると、イライアスが浮かべる苦笑を深くする。
「確かにこれは、他の種族には分かりづらい感覚だろうな」
コーデリアの首元に視線を当てて、イライアスはしみじみとした口調で言った。
「マーキングという言葉の通り、そうと意図して咬んだ痕には匂いが残る。つまりおまえの匂いには今、俺のものが混じっている状態だ。それは嗅覚から情報を得る者にとって、凄まじい違和感になる。そういうものだと解っていても混乱するから、近づきたいとは思えなくなるんだ」
「本能的な忌避感、ということか」
「そこまで酷いものではないが、側にいて落ち着かない気分にはなるな。本人以外の気配を常に意識させられるから、口説こうという気が失せる」
なるほど、と納得しかけて、だがコーデリアは首を傾けた。
「さして嗅覚が良くない種族や、獣の特性を持たない者もいるだろう。そいつらには意味がないんじゃないのか?」
ふ、とイライアスが笑いを漏らした。
「なんのために咬み痕が残ると思っている。どれだけ愚かで鈍かろうと、あれの意味を理解しないものはいない。獣人に無知な外国人もいるが、そいつらには運命の番と言えば通ることも判ったからな」
「……鳥の一族じゃあるまいし、番なんて言って信じるのはオーサント人くらいのものだろ」
「いや、それがそうでもないようだ。オーサント人が持ち込んでいた奇妙な本があっただろう。どうやらあのでたらめが、他国でも翻訳され流通しているらしい。大人気だそうだぞ」
皮肉げな口調で言うイライアスに、コーデリアは胡乱な目を向ける。
「だからと言って実際に獣人を知ってる連中が、あれを信じるとは思えないんだが」
「どこの国でも自分の見たいと思う、都合の良いことだけを信じる者はいるものだ。ならばそれをこちらが利用してやっても構わないはずだ」
そういうものだろうか、と首を傾げるコーデリアに構わず、イライアスはジュエリーボックスから耳飾りの片方を取り上げた。
騎士らしい無骨な指の先で、繊細な金細工がゆらりと揺れる。それをなんとなく目で追っていたコーデリアは、伸ばされた手に気づいて面を上げた。
なにを、と問うより先に、イライアスの手がコーデリアの黒髪を掬う。半端な長さのそれを耳に掛けて、露わになったそこに冷たい金属が触れる。
イライアスの指が耳朶を撫でると、ちりりとか細い音が耳元で鳴った。息を詰めていたらしいイライアスが、ふと肩から力を抜いたのが分かった。
「……鳥の一族ほどではないにせよ、伴侶に対する狼の執着もなかなかのものだ。番と称するのは確かに違和感があるが、外から見て違いがないなら、勘違いをそのままにしても害はない。むしろ伴侶に余計な手出しが減る分、助かるかもしれないな」
利用できるものはすべて利用する、と悪びれなく言い放つイライアスに、コーデリアは呆れとからかいの混じった目を向けた。
「耳飾りをつけるのに、あれだけ緊張していた奴の言うことか?」
「それは仕方がない。これを受け入れて貰えるかどうか、俺にとっては大きな意味を持つからな。なにより伴侶に弱いのは狼の性分だ」
やはり堂々とした口振りで言って、イライアスはゆったりとした動作で身を乗り出した。
つけたばかりの耳飾りに触れ、その手をコーデリアの頬に添える。懇願する響きの声で言った。
「愛している、コーデリア。俺の伴侶、俺の唯一。俺の心を満たすも飢えさせるも、すべておまえ次第だ。待つのに苦はないと言ったことに偽りはないが、今だけはほんの少し触れることを許して欲しい」
言って首を屈ませて、鼻先を触れ合わせる。
口づけられるとばかり思っていたコーデリアは、驚きに目を瞬かせた。
鼻と鼻を触れ合わせるのは、豹であるコーデリアに合わせた親愛表現だ。触れたいと願ったくせに、ずいぶんといじらしい真似をする。
いつぞやの夜とは逆だ。そう思いながら、コーデリアは手を持ち上げた。見た目より柔らかな髪に指を差し入れて、頭のかたちを辿るように梳る。顎を反らして彼の唇をそっとついばむと、寄せた身体に動揺が伝わってくるのが分かる。思わず、というふうに息を詰めているのが可笑しい。コーデリアは寄りかかるようにしながら、イライアスの首に腕を投げかけた。
これでイライアスを少しは満たせただろか。そう内心で得意げに呟いて、コーデリアは小さく微笑いを零した。
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