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狼のたのみごと 1

 たっぷりの睡眠を取って目覚めると、昼を僅かに過ぎた刻限だった。

 分厚いカーテンのおかげで室内は薄暗く、窓を閉め切っていたせいで空気が温く淀んでいる。汗ばむほどではないにせよ、快適な目覚めとは言い難い。時間を鑑みれば充分すぎるくらいの睡眠を取った筈なのに、身体には奇妙な気だるさが纏わりついていた。

 コーデリアは脚に絡まるだけになっていた薄掛けを蹴り退けて、くあ、とあくびを漏らした。

 イライアスと約束した夜まで、まだ随分と時間がある。このまま二度寝を決め込んでも良かったのだが、一度目覚めてしまうとそうする気にはなれなかった。それで寝間着を脱ぎ捨てて、生成りのシャツに袖を通す。細身のトラウザーズとくるぶし丈のブーツを履いて、肩口で切り揃えている黒髪をぞんざいに括った。

 顔を洗って歯を磨けば、身支度はそれで終了だ。

 コーデリアも一応は貴族の端くれなので、必要があれば着飾るし、化粧も人並み程度にはこなすことが出来る。だが単なる同期と馴染みの居酒屋へ出かけるために、その類の手間をかける必要性は見いだせなかった。

 身繕いを済ませ遅めの昼食を摂っても、夕刻にはまだまだ届かなかった。出掛けてしまうには随分と早い刻限だが、さりとて部屋に引きこもっているのも退屈だ。それでコーデリアは護身用の短剣だけを佩いた軽装で、ふらりと街へ足を向けた。

 王城のお膝元なだけあって、街は多くの人が行き交い活気に満ちている。賑やかで明るい雰囲気がなんだか懐かしい。

 コーデリアはごく当たり前のように思って、そう思ってしまったことに微苦笑を漏らした。

 自覚していたことではあるが、街に出るのも随分と久し振りだ。無精をしている間に、看板が変わってしまった店もいくつかある。

 警邏に出る必要のない神殿付きとは言え、これではなにかあった時に、仲間の足を引っ張る羽目になりかねない。それはさすがに拙いだろう、とコーデリアは時間を潰しがてら、街を見て廻ることに決めた。

 何件かの店を冷やかしている内に、秋の陽はあっと言う間に傾いていく。帰路に就く人々の流れとは逆らうかたちで、コーデリアは待ち合わせ場所へと向かった。

 眠る黒猫亭の店構えは、以前とまるで変わっていなかった。丸くなって眠る黒猫の看板も、乱闘騒ぎで扉に付いた剣の傷も、磨り減って飴色になった取っ手も、コーデリアの記憶にあるままだ。

 扉を開けるとドアベルが鳴って、すぐに店の奥から小柄な姿が駆け寄ってきた。溌剌とした雰囲気の、笑顔の華やかな女性だ。身長はコーデリアの胸元ほどしかないが、出るところ出て、引っ込むところは引っ込んだ、減り張りのある身体付きをしている。

 彼女は豊かな胸を反らすようにコーデリアを見上げ、見た目とは反した気っ風の良さを感じさせる声で言った。

「あらまあ、いらっしゃい。ロリンズさんったら、ずいぶんと久し振りねぇ。どこかに好い人でも作って、うちの煮込みから浮気してたのかと思ったわ」

 気安い口調でからかいを言う彼女は、眠る黒猫亭の女将だ。動きやすいよう短く刈った黒髪がつややかで、その髪色の通り店名にもなっている黒猫の獣人だ。

 巷で評判の美人な給仕は彼女、ではなく彼女の娘たちだ。女将自身は齢四十をゆうに超えているはずだが、佇まいと言動の若々しさでとてもそうは見えなかった。

 勝ち気そうな表情をする美人を見下ろして、コーデリアは苦笑混じりに言った。

「浮気するほどの甲斐性があれば良かったんだが、仕事を理由に怠けていただけなんだ。それにここの煮込みに敵う店は、王都中を探したってどこにもない」

「あらあら、嬉しいこと言ってくれるわねぇ。旦那が聞いたら喜ぶよ。さあさ、入って。席はどこでも空いてるけど、どうする? 今日もカウンター?」

 頻繁に通っていたころの指定席を言われて、浮かべる苦笑を深くする。

「実は後で連れがひとり来るんだ。座る席はどこでも良いけど、連れの分を確保しても構わないかな」

「おや、それはまた珍しい。だったらカウンターの奥が良さそうだね」

 女将に言われるまま店の奥にあるカウンター席に着くと、すぐさま目の前に麦酒と焼いた木の実が差し出された。視線を上げると巌のような大男が、カウンターを挟んだ向こう側に立っていた。

 歴戦の勇士もかくやといった風体が目を引くが、彼こそが眠る黒猫亭の店主であり全ての調理を担う料理長だ。厳しい顔つきで見た目通りの愛想の無さだが、彼の作る料理には外れが無い。

 礼を口にしたコーデリアがひとつふたつ注文すると、黒猫亭の店主はにこりともせずにただ頷いた。

 木の実をあてに麦酒を流し込んでいると、女将が運んできた料理をテーブルに並べてくれる。

 頼んだのはコーデリアの一押しであり、看板メニューである臓物の煮込みと、今日のオススメと書いてあった川魚のフライだ。フライには瓜の酢漬けと、揚げた芋が添えられている。

 湯気の立つ料理はどれもこれも美味そうで、コーデリアはせっかくのそれらが冷めてしまう前に、とせっせとフォークを口に運んだ。

 黙々と食べて空腹を満たし、追加で頼んだ葡萄酒を悠々と楽しんでいると、背後から近付いていた気配がすぐ隣に腰を下ろした。ちらと視線をやれば、そこにいたのは疲れ果てた顔をしたイライアスで、彼はコーデリアの方を見もせずに、深く長い溜め息を落とした。

「すまん、遅くなった」

 葡萄酒の入ったゴブレットを軽く掲げて、コーデリアはにやりと笑ってみせる。

「先にやってたから気にするな。それよりも今朝の件、処分は決まったのか?」

「ああ、五日間の謹慎と減棒だ。……その程度で済んで助かった、と言うべきだろうな」

 そう言って再び溜め息を吐くイライアスの前にも、麦酒と木の実が差し出された。

 店主に礼を言ってからひと息に煽り、あっと言う間に飲み干してしまう。麦酒の二杯目と料理とを頼んでから、彼は店に入って始めてコーデリアに視線を向けた。

「おまえが口添えしてくれたおかげだ。感謝している、ロリンズ」

「なんだ、もうコーディとは呼ばないのか?」

 そう揶揄って言うと、イライアスは苦い虫でも噛み潰したような顔になった。

「言うな。……許可も得ずに馴れ馴れしい態度を取ったことは、俺も悪いと思っている。だがあの場では、ああする以外なにも思いつかなかったんだ」

「そうまで言うなんて、よほどのことか。――それで? いったいあれはなんだったんだ?」

 からかうのを止めてさっそく本題に切り込むと、イライアスも表情を真面目なものに改めた。

 言葉を迷うふうに口を開け閉めしてから、どことなく疲れの滲む声で言った。

「……オーサントからの留学生について、おまえはどの程度のことを知っている」

「どの程度って……上が出したお達し以上のことは関知してないぞ。私たち神殿騎士には、その必要もなかったからな」

 実態は人質であるとは言え、留学生として迎えた彼女たちを国は賓客として扱っている。滞在に用意したのはシトラ宮で、小離宮だがそこはれっきとした王城の一部だ。

 つまり護衛の任に着けるのは近衛騎士のみで、神殿騎士に関わりがあろうはずもない。それはイライアスも承知しているからか、特に拘りも見せずに頷いた。

「確かに、そんな感じだったな。余計な話が出回っていなくてなによりだ、と言うべきか」

 後半は独り言のように呟いて、イライアスは思いのほか真剣な目を向けた。

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