岐路
アゥトブが去ってからのサイは、ふにゃふにゃしていた。
いつものように木の実摘みに出かけたりはするものの、手提げ籠ではなく川へと持っていく大きな洗濯籠を持ち出していたり。帰って母親に手渡したその籠の中には、人ではなく獣らが好んで食す少々妙な臭いを放つ実が小枝ごと折られて突っ込まれていたりだ。
心ここにあらずのサイを、そっとしておこうと考えたのか。仲間たちは慰めるでも責めるでもなく、それまでと変わりなく過ごした。
大抵のことは、時が解決してくれるものである。
最低限の決まり事を守りさえすればではあるが、根は能天気な人々なのだ。
そこは両親も同じようなものであった。
「おかしな奴でも、仲間と思うからこそ付き合いを許したんだ!」
「でも他の集落に嫁いだりしない! アゥトブじゃないと、嫌!」
「故郷を捨てて出て行くような、あんな男にくれてやるか!」
なんて悲壮な騒動が起こるでもなく。
ときに母親は呆れたように窘めるのだが、何をしていても上の空のサイは曖昧に返すだけ。
「大丈夫。平気だよ」
どこか遠くを見ながら答えるサイに、父親の方は肩を落とした。
どうやらアゥトブの父親も責任を感じているようで、出かける際に家の前などで顔を合わせる度に、消沈したサイへと気まずげに声をかけてくる。
二人の父親が、並んでしょんぼりと肩を落としている様を見て、思わずサイは力ない笑みを浮かべていた。
二人が悪いわけではないと、頭では理解していた。とはいえ、さすがに平然と振る舞うのは難しい。サイは顔を背けながら、声をかける。
「狩り、気を付けてね!」
そうしてサイも、森へと駆け出す。
今や消えた変人の代わりに森を徘徊するのは、サイの仕事となっていた。
(今日は、ちょっと遠出してみようかな)
アゥトブが拠点にしていた最も遠い場所を思い浮かべる。
まるで、アゥトブから受け継いだかのように、サイは各地の妙なものを見て回っていた。
これまでに、アゥトブが残したであろう様々な足跡を追うように。
それが未練から来る行動かと問われれば否定はできないが、それだけではないとも、確信を持って言える。
別の情熱が、サイの胸の内で形になりつつあった。
初めてといってよい、アゥトブと意思疎通が叶ったと感じられた、二人で過ごした時間。
その一時は、様々な感情をサイの中に残した。
アゥトブが去ってしまった後では、悔恨だけが残ると考えていた。実際にしばらくは塞ぎ込んでいた。それでも、あの時に感じた未知なる興奮と、手に残る感触は忘れがたいものだった。
アゥトブが気付かせてくれた、青い魔素を扱うということ。身近でありながら、気にも留めなかった存在だ。それは赤い魔素が生活に根差したもので、あまりに馴染み過ぎていたためでもあった。どちらも同じ、魔素は魔素だ。
それなのに、別の反応を示した。
たったそれだけのことが、やけに心を打った。
ほんの少し見方を変えれば、これほど興味深くなる。
サイは、普段見過ごすなんでもないことを、あまりにも当たり前だと思いすぎていたことに気付かされた。喪失感を埋めるには、目を向けざるを得なかったのかもしれない。
気が付けばサイは、その感覚をより確かなものにすべく森へと出かけていた。初めはアゥトブが立ち寄っていた地点を訪れては、同じことを繰り返した。そして、それらから導き出される別の対象へと目を向け始める。自分なりに見つけた法則性の正否を確認することに、心を弾ませる。
(私、楽しんでるの?)
彼が去るまで、サイはアゥトブと二人でようやく一つの人生であるかのように考えていた。その延長線上にありはするが、ただ勝手に任された気になっているのではない。
サイにも、抗いがたい好奇心が湧いていたのだ。
(今、私は、楽しいと思ってる)
アゥトブから提示されたものには違いないが、これまでも彼が好きなものなら何でも好きだったわけではなかった。理解できないのだから水を差さないようにと距離を置いていた。なにより、その方がアゥトブには喜んでもらえているようだったためでもある。
しかし、今なら少しだけ、その時のアゥトブの気持ちが理解できるような気がした。
これは誰かと分け合う楽しさではない。
誰かに認められる、理解してもらえる、それは嬉しいことだ。けれど、自分の心が受け止める素直な気持ちは、誰になんと言われようが変わりはしない。
どんなに仲が良くても違う人間であり、ある一つの事象に面したとき、それぞれが必ずしも同じ感覚を得るはずはない。
逆に言えば、違うから楽しい。そのどちらも大切な感情だろう。
(今になって、ね……)
サイは溜息と共に目を閉じると、アゥトブと過ごせた、ほんの短い時間を瞼の裏に映す。繰り返し、繰り返し。川の流れに任せて跳ねるように煌く木漏れ日のように、移ろう記憶を。
ようやく互いの人生が交差したように、楽しく幸せな記憶だ。
だからこそ、その思い出の輝きは、より哀切に塗りこめられていく。
♧
それからほどなくしたある日、岩腕族の国から旅人が訪れた。しかし、いつもの行商を兼ねた少数の気楽な雰囲気は無く、物々しい集団だ。
遠い昔とはいえ武器を交えた相手だ。一時、大人達の間に不穏な空気が流れたものの、彼らの目的を聞いて今度は別の動揺が走る。
それは、数十年おきに起こると言われている地揺れに関することだった。
(その度に、人の世は危機を迎えているんだっけ)
アゥトブの博識ぶりを思い出したサイは、今回は遠慮なく近付いて話を聞いていた。
驚きはしたが、現実感はない。直接的な被害に遭ったという話を聞いたことはないためだ。
ちらと周囲に並ぶ森葉族側の大人達を見れば、多くの者は動揺のために騒いでいるのだが、長老とその周囲の者達は考え込むようにして黙り込んでいた。
その差に違和感が募るも、岩腕族を率いる男が騒ぎを鎮めて続きを話し始める。
「再び、山の主が目覚める予兆だ――」
大森林の途切れる南の果てに、大きな黒い山がある。そこが原因の地らしいのだが、その実態を聞いてサイは戸惑うことになった。
邪竜――人ならぬ異形。
その一体が、引き起こしていることだというのだ。
そんな化け物がいることを前提にして話は続き、そして、長老たちは驚きを見せない。
先ほどの長老らが見せた態度への違和感は、既知であるためなのだと分かった。
彼らは首都オレストに交渉へ向かう途中だという。
特に秘されてはいないようで、彼らは長老らへと概要を伝えた。この集落内へも、前もって話を付けておきたかったようでもある。なんせ首都へ向かうなら、補給に立ち寄りたい位置に在る集落だ。なるべく味方は欲しいだろう。
彼らは言う。
「今度はもっと厳しい戦いになる。人類、全ての協力が必要だ」
それは大森林内なら、森葉族だけでなく、首羽族などの手も欲しいということだった。
彼ら自身が旅を続けるには時間がかかる。森葉族なら森に慣れているし、オレストからならば各集落への伝達も同時に行える体制になっていた。逆に、各集落の長老らに集ってもらうことも、そう大変なことではない。交渉は、それを当てにしてのようだった。
ここで初めてサイは、世の危機とやらの詳細を知った。
何百年と生きる動物が存在するなど聞いたこともない。本当に生物なのかも疑わしいが、人々は力を合わせて戦い退けて来たようだった。
そして今回もまた、多くの戦士を求めているようだが、問題は数だけではなかった。
話が進む度に、サイの目は見開かれていく。
邪竜とやらは、邪質の魔素を支配する存在だという。
だからこそ。
――聖質の魔素を持つ者を探している。
話し終えた岩腕族の使者達は、滞在することなく旅立つという。
長老も無視は出来ないと考えたのだろう、森の先導のために特に夜目の利く者を指名し同行させた。
去っていく彼らの後ろ姿を、サイは呆然として眺め、立ち尽くしたまま見送った。
周囲の大人達も興奮が冷めないようで、帰る者なく語らい始めた。
サイの知らない重要な事柄も口々に上っていたのだが、まとめて雑音として遠のいていく。
深く深呼吸をして、顔を上げる。
サイの目には、強い覚悟の色があった。




