嫌なことがあった日に読んで欲しい物語
嫌なことや辛いことがあった日も、元気を出すことができるような、自分の悩みをちっぽけに思えるような、今日に希望をもって明日から明るく生きていけるような、そんな物語をめざして書いたものです。
嫌なことがあった人でも、なかった人でも、この物語を読んで、少しでも元気を出してくれたなら、僕にとってそれ以上に嬉しいことはありません。
悩みなんてないほうがいいのですが、生きているだけで悩みが絶えることはありません。
誰もが悩みをもっているのです。
あなたにとっての今日が、少しでもいい日でありますように。
僕は、それだけを願っております。
それでは本編をお楽しみください。
冷たい雨が、降っていた。
行く宛もなく、私は歩いていた。
いや、行く宛はあった。
ただ、そこに行く勇気がないだけだった。
でも、今日こそは行こう。
私は、バーが降りていく踏切の中へ入り、立ち止まる。
電車が、一定のスピードで近づいて来る音がする。
大丈夫。
この踏切は、駅からも遠く、スピードも遅くはない。
ブレーキをかけたとしても、止まることができない。
このまま私が動かなければ、そのまま楽になれる。
「おねえさーんっ!」
小学生の男の子だろう。
私のことを呼んでいるのか?
そう思って振り返ると、ランドセルを背負った男の子が体当りしてきた。
私は、驚きに目を見開いた。
なぜなら、その子が私の代わりに、電車に弾かれていたからだ。
目の前で、血しぶきが上がる。
私は、踏切のバーに背中から思いっきり当たり、目の前を電車が通過していく。
その度に、ギギギギというブレーキ音とともに、飛び散っていく血しぶきが上がる。
なんで?
なんで私じゃなく、あの子が犠牲にならなきゃいけないの?
なんであの子は私をかばったの?
電車が通り過ぎると、そこには…………あの子が血だらけになって倒れていた。
手足がありえない方向に曲がっていて、臓物がむき出しになっていて、元の人型の原型をとどめていなかった。
ひどくなりゆく雨だけが、あの男の子の体に触れていた。
やがて、救急車が近づいて来る音がした。
今の一部始終を見ていた誰かが呼んだのだろう。
救急車が近くに止まると、中から担架を持った救急隊員たちが出てきて、男の子を救急車の中へと運び込んだ。
救急隊員たちのうちの一人が、私に話しかけてきた。
「ご無事ですか?」
「……はぃ」
「立てますか?」
そう言って右手を差し出されたから、ありがたくそれに私の右手を乗せさせてもらい、立ち上がる。
そしてそのまま、救急車に乗らされた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
救急車の中の椅子に、座らされていた。
カタコトという揺れが、怖いくらいに気持ちがいい。
私は、ぼーっと考えていた。
私は、なんでまだ生きているんだろう。
あの子は、なぜ私をかばったのだろう。
なぜあのベッドの上にいるのは、私ではないのだろう。
「おねえさんっ」
あの時と同じ、男の子の声がした。
でも、周りを見ても、なんど見回しても、誰もいない。
さっきから私の頭の中に響いてるこの声は、いったい誰が、どこで発している声なのだろうか。
「なんで踏切の中にいたの?死んじゃうよ?」
危機感も何もないきょとんとした声でそう聞かれたから、思わず驚く。
でも、この気持ちを告げずにはいられなかった。
「……死にたかったから」
「なんで?なんで死にたいの?」
「もう、生きていたくないから。こんな世界なら、死んだほうがマシだから。私が、死ぬべき人間だから」
「なんでそう、言い切れるの?」
私は、少しいうのをためらった。
声に出して、気持ちのよくなる話ではなかったからだ。
「僕はね、お姉さんに生きていて欲しいんだ」
「なんで、そう思うの?」
分からない。
あの男の子が私を助けた理由なんて、何も。
私が死なない理由なんて、何も。
「僕のお父さんが、僕をかばって死んだんだ。だから僕、もう、一人ぼっちなんだ」
返す言葉に、困る。
だって、そんなこと……。
「お、お母さん……は?」
「分からない。生まれた時から、いなかった。だから、僕のお母さんが誰なのか、どんな人なのか、なんにも、分からない」
「じ、じゃあ、なんで私をかばったの?」
「もう僕は、目の前で人が死ぬ光景を見たくないんだ」
そんな理由で……。
助ける価値もないこの私を、そんな理由で……。
「なんでそんな理由で……。私なんか、助ける価値もないような人間なのに……」
「価値なんか、関係ない。僕は、お姉さんを助けたかったから助けたんだ」
「だからって……」
「僕は、お姉さんにこの先の人生を、笑って過ごして欲しいんだ」
笑う……?
「お姉さんは、踏切の中にいる時、笑っていなかった」
まあ、そりゃ……笑えないでしょ。
「お父さんは、僕が信号を無視して飛び出したばかりに死んじゃったんだ。僕が……僕が、お父さんを殺したんだ。僕は、ごめんなさいって気持ちでいっぱいだった。なのに、お父さんはその時、死ぬとき、「お前を守って死ねて、よかった」って言って、笑ったんだ。だから……だから僕も、お父さんみたいに誰かを守って、笑って死にたいんだ。それに、個人的に、笑った死んだほうが、幸せな気持ちで死んだほうが、いいと思うから」
いいな。
そんな、お父さん。
「だからさ、おねえさん。……笑ってよ。僕は、「なんで」より「ありがとう」って言葉のほうが嬉しい」
「私は、死にたかったの。助けて欲しくなかった」
「え……でも……」
なんて言えば納得してくれるだろうか。
「私……私ね、裏切られたの。全てに。両親が「お金に困ってるから、お金を貸してほしい。絶対に利子をつけて返す」って言ったから貸したのに、返してくれる前に死んじゃった。友達なんか一人もいなかったし、夫は一人だけいたけど、子供だけ作らせて、作った子供を連れて逃げちゃった。会社も、ちゃんと産休・育休くれるって言ったのに、もらったとたんに会社を辞めさせられた。」
いつの間にか、目からはポロポロと生温かい涙が流れていた。
「みんな、信じてたのに、裏切られた。こうなるなら、信じなきゃよかった。どうせ、私はみんなに裏切られるような存在なんだ。こんな世界なら、私、生きていたくない。死んじゃったほうが、マシだ」
「ぼ、僕は……」
「まあ、こんな気持ち、小学生にはわからないよね。ごめんね。変な話しちゃって」
「変な話なんかじゃないっ!」
いきなりの大声が、頭の中に響いた。
驚いて、私は少したじろいでしまった。
「僕には……僕にはおねえさんの気持ちは分からない。でも、お姉さんのその話が変な話じゃないことくらいは分かる」
「……そんな」
「だっておねえさんは、その時、全力だったんでしょ。一生懸命だったんでしょ。頑張ったんでしょ。だったらそれだけでいいじゃん。十分だと思う。そんな努力を変な話とか言っちゃいけないよ。少なくとも僕は、そう思う」
初めて、そんなことを言われた……。
「おねえさんがやったことは、間違ってなんかいない。おねえさんは、何も悪くない。おねえさんは、生きる価値がなくない。おねえさんは、この世界に生きていていい。それは、このぼくがほしょーするっ」
私はまだ、生きていてもいいの……?
「だからさ、生きてよ。笑ってよ。じゃないと、僕がおねえさんをかばって死んだ意味、なくなっちゃうじゃんか。それにさ、やっぱり僕、おねえさんに生きていてほしい。笑ってほしい」
誰かに、似てる気がする、この子……。
「あの、あなたのお父さんの名前は?」
彼が言ったその名前は、私の、夫の名前だった。
ということは、この子は……
「あ……あなた、は……私、の……!」
「え、おねえさん、僕のお父さんの名前、知ってるのっ?」
「知ってるもなにも、私の、元夫の名前」
「え、てことは……おねえさんは、僕のお母さん?」
「そう、なんだね……」
私はもう、ここが救急車の中だということを忘れていた。
「はじめましてっ、お母さんっ。最後にお母さんと会えてよかったよ。お父さんには守られちゃったけど、お母さんは守ることができてよかった。だから、ありがとう、お母さん」
「ううん。こちらこそ、守ってくれてありがとう」
私はその瞬間、その子を、私の息子を抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
その子が実体化していないことを悔やんだ。
「あ……僕、もう行かなきゃいけない」
「え……」
「ごめんねお母さん。本当はもっと、ううん、これからもずっと、一緒にいたかった。一緒に生活してみたかった」
「じゃあ、なんであなたは死んじゃったの?」
「僕は、お母さんを守って死んだことに後悔はしてないよ。僕は、一番好きな方法で死ねたんだから。それに、いつかは死ぬんだし。それがさっきだったってことだけ。だから僕は、死ねてよかったよ」
「……うそ」
「嘘なんかじゃないよ。僕の命を無駄にしないでなんて言わない。ただ僕は、僕のしたいことをしただけ。そこに後悔なんて文字はない」
私は、いつだって後悔してばっかだった。
でもそれは、私がやりたいことをしただけ。
やりたかったことなんだから、そこに後悔という文字はないんだ。
じゃあ、私は、今までなんでこんなにも悩んでいたのだろう。
なんで私は後悔していたのだろう。
今、私はそう思う。
ううん。
だからこそ、私はそう思う。
「ありがとう。最後にあなたに会えてよかった。あなたの顔を見ることができてよかった。あなたと話すことができてよかった。本当に、ありがとう。私を助けてくれて、ありがとう。私、これから生きるよ。笑って、生きるよ」
私はそう言って、笑ってみせた。
今までで一番だと思える笑顔で。
「ありがとう、お母さん。最後にお母さんの笑顔を見れて良かった。さようなら」
「うん。さようなら」
私はなぜか、すがすがしい気分になれた。
そして…………
生きたい
と思った。
ありがとう。
あなたのおかげ。