薔薇の庭
覚悟はしていたけれど、屋敷を出ての生活は大変だった。まだ十七で、学もなければ特技もない身ですからね。朝から晩まで働いて、それでも何も食べられない日があったわ。同じ工場で働いている女性の中には体を売って生活費の足しにする人もいたのよ。
一晩で、一ヶ月分のお給金と同じ額がもらえた。
そんな話を聞いたとき、さすがに心がぐらついたわ。
「いけないよ」
でも、私が道を誤ろうとすると、おじいさまの言葉が脳裏に響いたの。
「イケないよ、そちらに行ってはイケないよ」
それが若様のときもあったわ。とにかく私は、その声に諌められ、ギリギリのところで耐え続けたの。
でも、一年で勤めていた工場がつぶれた時は、途方に暮れたわね。
次の仕事は見つからず、手元のお金も尽きて、もうだめだと思った。有島の家へ行き、泣いて許しを乞おうかと思ったけれど、追い出された時の奥様の剣幕を思うと怖くてできなかった。
お腹が減って、喉が渇いて、疲れているのに眠れる場所もなくて。
雨の中、真夜中に見知らぬお屋敷の玄関先で休んでいる時、もう新地へ行こう、と決めたわ。
新地っていうのは歓楽街のこと。そこへ行って体を売ればご飯が食べられる。命と引き換えにするほどの誇りなんて持っていなかった。ただ、お腹いっぱい食べて、暖かい場所でぐっすりと眠りたいという思いしかなかった。
死んだ両親、有島のおじいさま、若様、真琴さん、それに御当主様や奥様。お世話になった方達に、もう恥ずかしくてお会いできない、そう思って泣きながら眠ったわ。
◇ ◇ ◇
でも、新地へは行かずに済んだの。
そうね、あれはとても不思議な朝だった。本当におとぎ話みたいな出来事だった。
誰かに呼ばれた気がして、私は目を覚ましたの。
目を開けて、前を見て。
そう言われたような気がしたわ。私は、疲れで重い瞼をこすりながら、ゆっくりと顔をあげたの。
朝もやの中、ぽっかりと浮かび上がるように白い館が見えたわ。
館を囲む柵に沢山の蔓が巻きついていた。一目で薔薇だとわかった。柵越しに見える庭にも沢山の薔薇が植えられていた。まさに薔薇の館よ。
でも、おかしかった。
初夏なのに、薔薇がほとんど咲いていないの。どうしてだろうと近づいて、すぐに理由がわかったわ。
薔薇は、全然お手入れされてなかったの。アブラムシがびっしりついていて、あちこち枯れた葉があって、病気にかかっているのが一目瞭然。
どうして、て悲しくなったわ。
こんなに立派な庭をお手入れしないなんて、私には信じられなかった。有島の小さな花壇ですら、薔薇の花でいっぱいにするのにどれだけ苦労したことか。それを思うと、この立派な庭を作った労力と年月をドブに捨てているようで、怒りすら感じたわね。
でもね、そんな庭でも咲いている薔薇もあったのよ。
絡み合う蔓の間から必死で伸びて咲いていた。その花を見て、なんだか泣けてきてね。
「お前、がんばって咲いたんだね」
そう声をかけて、せめてその花の周りだけでも綺麗にしてやろうと手入れをしたわ。
そうしたら声をかけられたの。
「あなた、そこで何をしているの?」
ハッとして顔を上げると、ジョウロを手にした、品の良い中年の女性が立っていたの。
それが丈部薫様。私の養母よ。
◇ ◇ ◇
薫様は落ち着いて気品のある方だったけど、中身はまさに武家の娘、下手なことを言えば一刀両断される厳しいお方でもあったわ。
そんな方に、私は初対面で噛みついたのよ。
「どうしてお手入れしないんですか? こんなに綺麗に咲けるのに、かわいそうじゃないですか」
私は、怒ってるのか悲しいのかわからない状態で、思いつくことを次々とまくしたてた。何を言ったか覚えていないけど、どうやら薔薇の世話の方法を延々と語っていたみたい。
「そう一度に言われても、覚えきれないわね」
まくし立てていた私が喉の渇きに咳き込んだ時、薫様はそう言われたわ。
そして、どこの誰とも知れぬ私の、一方的で勝手な糾弾に気を悪くした様子もなく、「まあ、柵越しに話すのもなんですから入りなさい」と招き入れてくれたの。
ほんと、剛毅な人よね。
薄汚れた私を見て、薫様は風呂に入れと命じ、着替と食事まで出してくれたわ。落ち着いたところで私のことを尋ねられ、私は正直に全てを話したわ。
「有島……そう、あなたあそこにいたの」
「ご存知なんですか?」
「ええ、当主の奥方がムカつく女でね、大嫌いよ」
旧家であることを鼻にかけて、新興の実業家を端から見下している。篤志家であった先代当主の血を継いでいるなんて信じられない、ただの小心者。
有島の奥様を一刀両断にして、薫様は優雅にお茶を飲んだわ。私はあっけにとられるだけよ。
「あなたもそう思わない?」
「え、いえ……それは……」
そういうところはあったかも知れないけれど、私としては恩のある方。屋敷を追い出されたことを恨む気持ちは多少はあれど、どうしても憎みきれなくて、素直にはうなずけなかった。
そんな私を見て、薫様は「ふふっ」と笑ったの。
「どうやら、分別はあるようね」
「え?」
「いいでしょう、あなたを庭師として雇います。荒れた庭を綺麗になさい」
「はい!?」
「この私に言いっぱなしで帰れるとお思い? 口先だけではないことをお見せなさい」
怒っているにしては薫様の言葉に鋭さはなく、口元には笑みを浮かべていたわ。これが本物の余裕というものか、と思ったものです。
「部屋は空いているからここにお住みなさい。食事とお給金も出しましょう。不服ですか?」
「い、いいえ、めっそうもございません!」
何が何だかわからなかったけど、断る理由はないし。
私は新しい住処と働き口を得て、館の庭をきれいにすべく奮闘を始めたのよ。
◇ ◇ ◇
館の庭は薫様の旦那様がお手入れをしていたけど、二年前にお亡くなりになっていた。お子様はおらず、広いお館に一人となった薫様。何をする気も起こらず、荒れていく庭をただ眺めるしかできなかったそうよ。
いつまでもメソメソとしていては、あの人も浮かばれまい。
やっとそう思えるようになり、荒れた庭を綺麗にしようと思ったけど、園芸に疎い薫様は何をどうしていいかわからなかった。これは業者に頼むしかないか、と考えていた矢先に、私がやってきて噛みついたというわけ。
「亡き夫が、私をしゃんとさせるために寄越した子かもしれない」
薫様はそんな風に感じたと言っていたわ。
庭のお手入れは、大変だったけどとても楽しかった。
お客様をお迎えする玄関周りから始めたわ。居間に面した庭、沢山の蔓が絡まった柵、あまり日当たりの良くない裏庭。とにかく広いし、薔薇の種類も多いし。でも私は真琴さんが教えてくれたことを思い出しながら、焦らず、丁寧に、精魂込めて、一つ一つ薔薇の庭を蘇らせていったわ。
そうして庭が蘇る度に、薫様はお客様を招き、庭を披露なさった。それが私の仕事に対する試験でもあったのよ。
「すばらしいわ」
「以前よりも若々しくて、ウキウキするお庭ね」
蘇った庭をお客様が口々に褒めるのを聞いて、私は嬉しくて涙をこぼしたわ。
私にもできることがあるんだと、生まれて初めて自信を覚えた。
何もできない、何も持っていないと思っていたけど、お館の庭を蘇らせるお役に立てた。理不尽に家族を奪われ何もかも失くしたと思っていたけど、代わりのものをちゃんと手に入れていた。
「学びなさい。働きなさい。それを決して忘れてはいけない」
私にいつもそう言ってくださっていた有島のおじいさま。これが、おじいさまが私に与えようとしてくださっていた誇りなのだとわかり、感謝の気持ちでいっぱいになったわ。
そして、若様がなぜあんなに怒ったのかもわかった。こんな大切なものを奪うなんて、どんな人であれ許してはいけないわね。
お館の庭が元通りになるのに三年かかったわ。
その間に、薫様のご厚意で知人の庭師に師事させていただくこともできた。私が庭師として独立できたのは薫様のご支援があったから。薫様との出会いに、私は心から感謝しているわ。
いつか、きっと若様と真琴さんに会いに行こう。
庭の手入れに目処がつき始めた時、私はそう思ったわ。二人に会って「私にも美しい庭が作れました、どうか見に来てください」と自慢したかったの。
きっと若様も真琴さんも喜んでくれるはず。心からそう信じていたわ。
私はいつか二人に会える日を楽しみに、毎日夢中でお庭の手入れを続けたわ。