六話
足跡と血痕を辿りながら、雪から顔をだしたキングラスを採取していく。オルクスの戦士の姿は見えない。
それでも、警戒は怠らない。
オルクスの戦士が持つ鼻は犬より優れている、一度補足されてしまえば、谷合の村まで着いて来てしまうだろう。
部隊から逸れた戦士ならまだいい、ジロウが仕留めてしまえば問題ない。
だが、魔人軍の残党で放たれた斥候だったら、想像に難くない。小規模だが、人魔大戦の再現になるだろう。
(キングラスは集まったが、奥に来過ぎた。これは帰るのは骨だぞ)
今居る病人が治っても、病原菌には潜伏期間と言うものがある。
だからなるだけ、村人全員分の薬は用意したいのだ。
雪から顔を出したキングラスの茎を、採取しながら山を登り、大分高い所まで来てしまったなと、ジロウはふと思った。
「バンパイアの効果が切れてきた」
そして運の悪い事に、視界は元の暗闇を映し出そうとしている。
頭上では、先程までいなかった翼竜が集まってきているのか、羽音と鳴き声が引っ切り無しに聞こえている。
今は森の中に隠れているが……ここから出たら見つかってしまうだろう。松明を使うのも無しだ。
それに、今戦闘するのは不可能だ。脆いガラス瓶を多く持っている為、戦いをすると割れてしまう。
だから、飲むしかない。
(……もう一本飲むの!? あれを!?)
薬箱から、バンパイアの薬瓶を引っ張り出す。
(飲むしかないのか? 二本目は流石に避けたいな)
健康面からも、同じ種類の霊薬を飲み続けるのは止した方がいい。効果が高い分、副作用も強いのが霊薬だ。
バンパイアは飲み過ぎると強い貧血を引き起こす。常人なら立っていられない程の貧血だ。
(……ええい、ままよ!)
ジロウは意を決して薬瓶のコルクを取って、薬を無理矢理流し込む。
最悪の後味を感じ、強い眩暈を覚える。バンパイアの成分はヘモグロビンにくっつきやすく、離れにくい。
酸素が脳まで運ばれなくなって、貧血を引き起こすのだ。
「もう一本……!」
次に出した薬瓶は別の物だ。
自立神経に作用して、新陳代謝と脈拍を上げる薬だ。心臓病の薬を数倍の濃度にしたものだ。
無論、体に悪い。
「ふー……」
二本の水薬を飲み干したジロウは、一息入れる。
心臓の音が耳障りになる位には五月蠅くなっているし、それに、吐きそうだったのだ。
銀狼印の薬は全てが即効性のあるものだ、胃に入れば即座に吸収されて、体を回り始める魔法の薬。
効果は即座に出るのだが、何分、胃から吸収できる量はそう多くない、吐き戻すと効果が消えてしまうのである。
《ジロォー、大丈夫ー?》
頭の中にジーナの声が響く。
「大丈夫、大丈夫だから、少し静かにしていてくれ。吐きそう」
えづく喉を無理矢理抑えて、ジロウは歩き出す。
足取りは頼りなく、頭は左右に振れている。
その姿があまりにも心配だったのか、ジーナが封印式から出てきてしまう。ジーナの旅装は薬箱の一番下にしまってある為、彼女の姿は薄い布一枚だ。
「か、肩貸すねー」
素足を雪に突っ込みながら、ジロウに肩を貸すジーナ。
「いや、いい。寒いだろ、中に入ってろよ」
神霊と言えど、人の姿である時は人と変わらない。ただ死なないだけで、血も流すし、寒い物は寒い。
「ジーナさんは、平気だよ。帰るだけでしょ?」
そう言って、柔らかそうな笑みを浮かべるジーナを見て、ジロウは仮面の奥で眉尻を下げた。
「………………すまん」
日本人としての血、頑固で融通が利かない癖に、つい謝ってしまう癖にジーナは思わず笑ってしまう。
「ジロォー、こういう時はすまんじゃなくて。ありがとう。だよー」
足を霜焼けで真っ赤にしながら、笑うジーナ。
「……そうだったな。ありがとう」
礼をいい、諦めたように、ジロウは提案する。
「せめて、薬箱の中にある旅装だけは着て欲しい。じゃなきゃ封印する」
「ツンデレだねー」
優し気だったジロウが一変し、唐突に左腕を出す。
「ハーフ・イル・リア・ジーナ……」
「待った待った! 分かった着る着るー!」
封印の呪文を唱え始めたところで、ジーナは服を着替え始めた。ジーナは、時間がかかるのを嫌がり、ジロウはジーナが傷つくのを嫌がった。
ただそれだけの話である。
ジーナが着替え終わった所で、下山を開始する。
足首まで埋まる雪が積もった道を、ジーナに指図しながら歩くが、視界の開けた最短ルートは避け、森の中を移動して翼竜たちの目をごまかす。
「ジロォー、中毒症状が出るまでの服用は失敗だったねー」
そしてジーナがちくりと針を刺してくる。
「そうだな。歩くには問題ないが、村に帰っても調合出来なかっただろうな」
ジーナの諫言に、ジロウは思わず顔を背ける。
「どーせ君の事だから、また違う薬服用してでも調合しようとしたんだろうねー」
長い付き合いだからか、ジーナはこちらの行動を手に取るように見ている。それに対して、ジロウはつまらなそうな顔をした。
「助けられる命が目の前にあるなら、助けたいんだよ。悪かったな、偽善者で」
不貞腐れたような発言に、ジーナはくすりと笑う。
「誰かを助ける事は悪い事じゃないよ、どんなやり方でもねー。誰かが君の事を偽善者って呼ぶなら、それは嫉妬からだよー。偽善すら成せぬ者が口を開けるなんて、いい時代になったものだよー」
ジーナは、物言いこそあれだが、言っている事は間違っていない。
そんなこんな話している内に、雪解け水が流れる川が見えてきた。川の周りは樹木が生い茂っている。
「慰めはいらないよ。人間は自分で勝手に助かるもんだ。俺はそれに勝手に首を突っ込んでるだけの馬鹿野郎だ……ああ、ここの川沿いを南に下っていこう」
「んー」
久しぶりのちょっとした冒険は二人の間に積もったわだかまりを、少しだけ解消してくれた。
静かな行軍で、やっと村が見えてきた頃、ジロウがぽつりとつぶやいた。
「ジーナ」
その響きは、ジーナに取って懐かしい響きだ。
一人ぼっちの湿地帯のあばら家に、唐突に落ちてきた少年が紡いだ響き。
「娼館に貸す、なんて言ってごめん」
表面は変わっても、中身までは変わらない人の性。
「んーん、怒ってないよー」
ジーナは、何でもない様を繕っていても、声色は少しだけ嬉しそうだった。
「お前は娼館より、賭場の方が稼げるもんな。いじわるを言って悪かった」
中身はいつまでも変わらない、ジロウはこの上なく鈍感で、意地悪で、合理的だった。
そんなジロウの物言いに、ジーナはガックリと項垂れた。