着ぐるみ先生とその弟子
着ぐるみの中の達也は、迫ってくる出番にごくりとつばを呑んだ。
「大丈夫だ、落ち着け。この日のために、君は毎日稽古に励んできたじゃないか」
「あ、ああ。ありがとう、先生」
彼は着ぐるみから聞こえる声に礼を言い、白猫の上半身をかぶって、背中のファスナーを苦労して上げた。
入院生活の長い子供達への慰問公演。それが、劇団に入って一年ほどの彼の初舞台だった。緊張で固くなりがちのところを、着ぐるみが動きを助けてくれる。
そのお陰で、劇は拍手喝さいのうちにカーテンコールを迎える事ができた。
「公演の成功を祝して、乾杯!」
「……私は飲めないんだがね」
「まぁ、そう言うなよ。空のコップでもいいからさ。感謝したいんだ」
慰問公演の後片付けも終わり、人気の無い大道具室で達也はビールを開けて、白猫の着ぐるみと紙コップをくっつけあう。
「先生、今日は本当にどうもありがとう。あの日先生に出会ってなかったら、今日の俺はなかったぜ」
「殊勝な心がけだな。最初は私を疑っていたのに」
白猫はニヤリと笑みを浮かべたが、開いた背中のファスナーの中身は何もない。空っぽなのだ。
「だってさ、可愛い猫の顔で『私は生きた着ぐるみだ』とか言われても説得力がなぁ。しかもモノが着ぐるみだし。フツーは中の人の仕業か、と思うだろ?」
「あの時は誰も入ってないと分かる状況だったじゃないか。何人もの劇団員が、私を修繕して大事に使ってくれたのだぞ? もっと敬いたまえ」
ふいっとそっぽを向く白猫を見ながら苦笑い。達也は、ひと月前のことを思い出した。
いつものように稽古を終えて、後片付けをしていたある日。大道具室の隅で、ダンボール箱に詰められた白猫の着ぐるみを見つけたことが、全ての始まりだった。
『団長、ウチに白い猫の着ぐるみなんてあったんですね』
『あぁ、それ? 昔、劇団をたたむ友人が譲ってくれたものでね……懐かしいなぁ、まだあったんだ』
事務所で帳簿をつけていた団長の話では、その友人も、また別の劇団から譲られたのだとか。
『なるほど。じゃあ、いろんな劇団を渡り歩いてきたベテランってわけですね』
『まぁ、そうなるかな。友人はこの着ぐるみだと、キレのある演技が出来るって言ってたけど。俺はこの足だから、どうだかね』
達也が劇団に入る前は、団長も舞台に立っていたそうだが、事故で足を痛めてからはもっぱら指導と事務方になっている。
『団長、この着ぐるみ、洗ってもいいですか? ずっと箱詰めのままじゃかわいそうだし』
『もちろんいいとも。……そうだ、君が着てみたらどうだ? 一月後に病院の慰問公演あるだろ。達也君もそろそろ舞台に出てもいい頃だ』
この着ぐるみを着てからぐんぐん成長していった団員がいた、なんて昔話を聞き、すっかり気をよくした達也は、天気のいい日を見計らって、おしゃれ着用洗剤でていねいに手洗いを実行。
物干し台に干そうとしたその時に『ふぅ、生き返った』と喋った着ぐるみに腰を抜かしたのも、今ではいい思い出だ。
当初は混乱するばかりだった達也も、次第に事の重大さが分かってきた。なにせ、何人もの俳優の演技を吸収してきた着ぐるみだ。中の人間に演技指導をすることもできれば、固くなった達也をフォローすることも朝飯前なのだ。
きれいにしてくれた礼だ、という白猫を達也は『着ぐるみ先生』と呼んで師事することにした。
「俺、これからもっと稽古して着ぐるみを極めるよ。子供が喜ぶ顔っていいよな」
「ふふ、師匠冥利につきるとはこの事だな。君の大成を楽しみにしているよ」
◆
慰問公演を終えてからというもの、達也はめきめきと実力をつけていった。師が良いのと元々努力家だったのがあいまって、飛ぶ鳥を落とすかのような勢いだ。イベント関連の仕事はもとより、テーマパークに呼ばれることも多くなった。収入も増えて、住まいはアパートからマンションに変わった。
「新居引越しを祝して、乾杯!」
「あぁ、乾杯」
引っ越したばかりのマンションで、達也は缶ビールをあけ、着ぐるみ先生とグラスをくっつけあう。
「聞いてくれよ先生! ついに、今度の四月からテレビの仕事をもらえることになったんだ! 歴史の長い、有名な子供むけ教育番組なんだぞ」
「そうかそうか、それはめでたい。これで君も、ついに出来上がったというわけだな」
「出来上がった? まだ飲み始めたばかりじゃないか。全然酔ってなんかいないよ」
グラスに半分残ったビールを飲み干し、達也はごろりと横になる。
「テレビの仕事ということは、これからは私を着る機会はなくなるのかね? どうだろう、最後に一度着てみてはくれまいか」
「最後だなんて、さみしいこと言うなぁ。先生のことはこれからも大切にさせて頂きますよぉ」
達也はニヤリと笑って体をおこし、これまで幾度となくそうしてきたように、着ぐるみのファスナーを開けた。サテンのような内張りが、するりと達也を迎え入れる。あまりにもすべらかで実に心地よく、達也は思わず、体を預けて眠ってしまいそうになった。
今までに一度だって、仕事中に眠気をもよおしたことなどなかったのに。
「私は人間の食べ物は受け付けないのだが、人間そのものは好きなのだよ。なぜかわかるかい?」
頭はぼんやりしているが、先生の声だけはやけにクリアに聞こえた。
背中のファスナーが閉まる、じー、という音も。
「君のような人がいてくれると、うれしくてたまらなくなるよ……理想に燃える若者のたましいほど、美味なものはないからな」
ファスナーを開けようにも、指先一つ、動かすことができない。
「せん、せ……?」
息を吸おうと開いた口から、漏れた声に先生は応えた。
「さらばだ、我が弟子よ」
◆◇◆
「先輩、倉庫に備品リストにない着ぐるみがあるんですけど。白い猫の」
「え、そう? おかしいなぁ、こんな着ぐるみあったかな」
とある劇団の倉庫。
首をかしげる女性二人の前に、白い猫の着ぐるみがくたりと横たわっている。
「まぁ、あって困るもんでもないし。洗濯して使えるようにしときますか。クリーニング屋さん手配しとくから、リストに追加ヨロシク」
「はーい!」
先輩と呼ばれた女性は、着ぐるみのほこりを払い、ていねいにハンガーにかけてラックに吊るした。
二人が外に出る際、開けたドアから光がさしこみ、着ぐるみの顔を照らす。
白い猫の黒い目が、きらりと光った。