精霊とドラゴン
てくてくと順調に、なんの問題もなく俺は超巨大な洞窟内を歩いている。
小一時間近く歩いているのに疲れを感じない。
俺が歩いているこの地表面は自然が作った造形なのだろう、所どころに起伏の激しい場所がある。
はじめの内は転ぶ事を心配をして、慎重に歩幅を進めていたが、今はもうそんな心配はしていない。
快調に歩みを進めている。
洞窟内の石筍に手をやりながら考える。
この洞窟は普通じゃない。
水に濡れて滑らかになっている場所は、ともすれば足を滑らせてしまうかのように見えるのだが、そんな事もまったくない。
かすかに頬に感じる風の中に、なにかしら癒し効果のある成分でも入っているのか、相変わらず洞窟内に広がる清々しい空気は健在だ。
軽快に歩く自分の足元を注視しながら、この洞窟への不思議感が湧き上がってくるのを禁じえない。
「そもそもだ、電気もついていない洞窟内が明るくて、普通に歩けるってどういうことよ」
この洞窟内は人が歩くためのようなライトアップなんてされていない。
天井から日の光が差し込まない地中の中で、洞窟内部が見えていること自体あり得ないのだ。
あり得ない存在の特殊な洞窟。
壁の事もあるし、ここはそういうアレな場所なのかも知れない。
常識という感覚がマヒしてくる。
「この石筍もこの大きさになるまで数千年とかかかっているんだよな、っと」
と数十個目の石筍をまたいで、この洞窟の鍾乳石に失礼のないよう足を進ませる。
いったい、この先はどうなっているのだろう。
結構歩いていて来たがまだまだ先は見えてこない。
思いのほか疲れていないから、もうちょっと行ってみようと思いはするが、歩いているのも面倒臭くなってきた。
これまで一時間以上歩いたような気がするから、今から戻ってもまた一時間掛かってしまう。
もうちょっと行ってみて、先が見えなかったらあきらめて戻ろうかな。
そう思っていた時だ。
少し強めの風が吹いた。
「……………」
何か聞こえただろうか。
空耳か?
誰かが話しかけてきたように感じた。
ぐるりと辺りを見回しても誰もいない。
おかしい、誰かが話しかけてきたような気がしたのだが周りには人っこ一人見当たらない。
水がさらさらと足元を流れていく。
川の流れる音を人の声に聞き間違えたのか。
やっぱりちょっと疲れたか。
足を止め、もたげた頭はそのままに、深呼吸をして目を閉じる。
水の音に混ざって何か他の音は聞こえないだろうかと耳に手をやりすましてみる。
水の音に混じって、風の流れを強く感じるようになっていた。
風が頬を撫で、髪を揺らして過ぎて行く。
開口部に向かって流れる風だろう。
もしかしたら、随分と出口に近いのかもしれない。
「そうか、出口はそっちか」
「ふふっ……あっちだよ」
!?
心臓が止まるかと思った。
何もないはずの空間から声。
何気ない独り言の後、風の流れの方向へ進もうとしたら、急に顔の横から声がして飛び上がった。
だって誰もいなかっただろう。
驚きすぎて尻餅をついてしまった。
クッ。
これまで颯爽と歩いて来ていたのに、残念なお子様みたいな恰好だ。
膝から下と手の平以外は、ほぼどこも汚れていなかったのに、見事な具合で尻が濡れた。
声を大にして言うが、決してチビッた訳ではない。
誤解があってはいけない。
洞窟内の地表は濡れているのだ。
野郎の失禁なんて絵にならない……。
「えっと……あっちが外だよ」
尻餅をついて放心状態の俺の前から再び声がする。
よく見ると……何かが浮いて……いるように見える?
なんだ?声は目の前に浮いているこのナニカから聞こえたような気がするが……なんとなくモヤモヤしているところに顔を近づけながらじっと見つめる。
声の感じからは女の子っぽい感じがしたが、姿はない。
何が喋っているのか分からない。
モヤモヤは何と言ったらいいか、20㎝位の青黒いボンヤリとした光の集合体みたいなもので、やっぱりモヤモヤしていて形が定まっていない。
指で突こうとしたら明らかに避けられた。
あっけにとられていると、そのモヤモヤは「こっち、こっち」とか言いながら、俺を先導するようにフヨッて行く。
「あ、ちょっと待って」
フヨフヨと漂うモヤモヤした固まりは、見ようによっては人魂みたいだ。
――見たことないけど――
悪意は感じないから大丈夫だろうと思いたい。
もうちょっと行ってみて先が見えなかったら戻ろうかな、なんて思っていた事はすっかり飛んでしまった。
あわてて立ち上がり、見失わないようしっかり後を付いて行く。
大丈夫……何だよな?
体が軽い。
古武術の基礎練習は毎日してはいたが、日々の生活でこんなに体を軽く感じたことはない。
面白いように体が動く。
俺のペースに大丈夫と判断したのだろうか、
フヨフヨしてモヤモヤしたものは結構なスピードで前を行く。
遅れまいとついていけるこの身体。
次々と現れる洞窟内の障害を軽々と越えられる。
流れるように体が動く。
背中に羽が生えたようだ。
大洞窟内の景観がスピードを伴って変わっていく。
体が疲れず、やたらと調子がいい。
俺の体どうなっているんだ。
自分の体のポテンシャルに疑問を感じつつも、結構な速度で先導するモヤモヤの後を追いかけて行くうちに、だんだんと外の気配を感じるようになって来た。
水の流れが太くなり、流れる音に力強さが感じられる。
洞窟内の不思議な明るさとは明らかに異なる、本来の陽の光の明るさが見えて来る。
あそこが、外か。
目の前に洞窟の巨大な出口が見えつつあった。
「ふふっ、もうちょっと、あと少しだよ」
聞こえてくる声も何だか嬉しそうだ。
俺もなんだか嬉しくなって、外を目指す体にも力が入った。
風が背中を押していく。
空気が頬を撫でていく。
良い気持ちだ。
地表を蹴る毎に身や心が軽くなる。
もっとだ。
俺の体よ、もっと動け。
洞窟の向こうにはどんな景色が広がっているのか。
根拠のない嬉しさと共に、わくわく感が広がってくる。
感慨深い。
出口だ。
俺の歩みは止まらない。
ん?
出口の全貌が見えて来たであろうそんな時、太陽光とは異なる別の光が影を射した。
出口の辺りがキラキラと光っている。
巨大な影を伴った白光だ。
その白光は影を伴い、滑らかな動きをして見せた。
フヨッた奴が躊躇なく、白光に向かって飛んでいく。
洞窟の入り口がそいつの存在で塞がれた。
何だ?
巨大な……生き物?
そう思うや否や、巨大な存在がぬうっと入ってきた。
巨大な頭を持つ黒い瞳が俺を捉える。
大気と地表を揺るがせて、そいつは俺の目の前にやって来た。
洞窟内を覆い尽くさんとする圧倒的な存在。
ゆっくりと、だが確実に俺の視界を塞いでいく巨大な生物。
眩いばかりに白く輝く、白銀の巨大龍がそこにいた。
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あっけにとられ立ちすくむ俺。
洞窟の出口でこんな生物に遭遇するとは思ってもみなかった。
不意打ちも甚だしい。
龍だ。
龍。
決定的だ。
この場所は俺の住んでいる世界じゃない。
こんなデカい生き物ありえないだろう。
羽を広げたらこの広い洞窟内の空間は、完全に埋まるのではないだろうか。
白銀色に光る龍。
鱗の輝きが尋常じゃない。
一枚一枚が白銀色にキラキラと輝き、命を持っているかのように煌めいている。
後光を纏ったどこかの神様のようにも見える。
厚く盛り上がったその鱗は、一枚一枚が重厚に重なり合い、鎧というか装甲版が体全体を包んでいるかのようだ。
俺の常識では考えられないほどの強度もあるだろう。
そこはかと神秘的な気配をも併せ持っている。
直視するには恐れ多いくらいだが、俺は目を背けることが出来ない。
目を背けたくとも背けられる状況じゃない。
狙いを定めたように俺へ近づく巨大龍。
地表が揺れる。
大気が震える。
俺も震える。
巨大さ故の威圧感、存在感が半端ない。
巨大な頭は小さな車ほどもある。
地表から頭の先までの高さは、三階建ての家ほどもあるだろうか。
尾を含めたらどのくらいの大きさになるのだろう。
大木のような二本の足に見える鋭利な爪は、がっしりと大地に食い込んでおり、存在感を否応なく際立たせている。
一瞬で確信する。
こいつはドラゴンって奴だ。
奴の鼻息が、俺に届く距離にまで近づいた。
嗅ぎなれない生き物の臭い。
ドラゴン臭を感じる。
ピリピリとした感覚。
目と目が絡まり合う。
蛇に睨まれた蛙ならぬドラゴンに睨まれた俺。
やべ、チビる。
時が止まったように感じられた。
ゴクリ、と唾を呑み込む俺の喉の音が、やたらと大きく聞こえる。
ドラゴンの頭が揺れて見える。
俺、自身が揺れているのか。
何も考える事が出来ない。
ドラゴンは俺に顔を近づかせ、臭いを嗅いだ。
俺は動けない。
――喰われる――
ガブリとくる。
その瞬間を覚悟した。
瞬きもせず、その瞬間を待った。
すると意に反して、ドラゴンの顔が離れていった。
離れていく距離を感じた。
それでも近い。
目と鼻の先にいるドラゴン。
何を思う。
白い龍。
俺を見下ろし、何かを探るように観察していたドラゴン。
その気配が、ふっと緩んだのを感じた。
「待っていたぞ。精霊王よ」
俺の耳に響く声で、ドラゴンは語りかけてきた。
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