始まりの夜
ここはどこだ。
悠木縁は考える。
つい今ほどまで、自分がいた場所とは明らかに違う場所。
俺は森の中にいたはずだ。
俺の心は壊れていた。
俺は今日まで、俺自身の存在理由の為に行動してきた。
自分の事が最も大事と思い、動いて生きた。
他人の為にと見せかけ、自分の為に働いた。
良かれと思って行動して、身を粉にして行動し、仲間達に手を差し伸べた。
全ては自分可愛さの為だった。
それはそれで、たぶん間違えではなかった。
間違っているはずがなかった。
しかし間違った。
でも間違った。
間違っていったのは、いつの頃からか。
いつの間にか俺の行動基準が、他人の為に働くという事に変わっていた。
自分命、自分大事のスタンスが、仲間命、仲間大事に変わっていた。
いつの間にか仲間達の存在が、俺の存在理由になっていた。
いつの間にか仲間達の存在に、俺が依存していたのだ。
この俺が、仲間達に甘えていたのだ。
ある日、そんな仲間らに三下り半を突き付けられた。
俺のピュアハートは砕け散った。
無慈悲な言葉に抵抗力がなかった。
鋭利な言葉に打ちひしがれた。
生き甲斐を否定された気分だった。
存在価値を拒否られた気分だった。
心が折れた。
たった一言だった。
俺は自分でも驚くほど簡単に、鬱に罹った。
時が経つにつれて精神の傷は拡大した。
完全に心を塞いでいた。
他人を信じる事が出来なかった。
家に籠った。
籠っても変わらなかった。
傷ついて、一人、ボッチだった。
籠っているだけで、救われなかった。
自分を直す術を知らなかった。
自分の症状がまずい方向へいっていると分かっていた。
何とかしたくて、森へ逃げた。
人に会うことが怖くなり、誰もいない古城跡に広がる深夜の森に入ったのだ。
人が大量にいる現実社会から逃げたしたくて、それでも引き籠りだけは避けたくて、真っ暗な闇に潜り込んだのだ。
無理をしてでも家から出なければと思っていた。
いや、そんな恰好のいいものじゃあない。
白状する。
俺は、人のいる現実社会から逃げたしたのだ。
引き籠りだけは避けたい自尊心で、真っ暗闇に潜り込んだのだ。
自分を見つめ直そうと、自分の人間性だけを信じたくて、深夜、町外れにある古城跡の森に入ったのだ。
人の灯りが怖かったから、人の出す明かりを避けるように逃げたのだ。
人の社会が怖かったから車のライトを避けて逃げるように森へ入ったのだ。
月の明かりさえ感じたくなかったから、森へ入ったのだ。
人のいない森の中、初めは良かった。
人の気配から離れるにつれ、どんどん静かになって、どんどん独りになっていった。
暗闇に逃げ込みたかった。
周りを覆い隠す暗さに、身を任せたかった。
明かりが怖いなら暗闇にいけばいいんだと、どんどん明かりの届かない場所へ踏み入れて、圧倒的な暗闇の中に潜り込んだ。
そして、見つけたと思った。
真っ暗闇のその闇の、さらに深い闇の中。
暗闇の最深部に着いたところで、筆舌に尽くしがたいほどの暗さの中に潜り込めたと思ったのだ。
だが、それは甘かった。
暗闇を舐めていた。
俺は体を震わせていた。
怖かったのだ。
全身全霊で闇を感じ闇を恐れたのだ。
あまりの闇の深さに体が震え、魂が震えたのだ。
鬱状態の俺に、あの闇はあまりに酷だった。
暗闇の中心、自分の周りは何も無かった。
気が付いたら手が、指が、見えなかった。
当然、自分の足元が見えない。
あわてて足を動かしたら、これまで歩いてきた方角が分からなくなった。
音まで感じない。
どこに行ったらいいのかさえ分からない。
どこに足を踏み出せばいいのか分からない。
恐怖で足が動かせない。
足裏から伝わる地面の存在が頼りない。
手を伸ばして、そこに何もない。
何も触れない。
上を見ても前を見ても後ろを見ても、真っ暗な闇のさらに深い闇の中。
人が怖くて、夜を待ち、明かりが怖くて、闇に足を踏み入れたはずなのに、その闇が怖くて、歩くことすらままならない。
一歩進んで石につまずき、二歩進んで何かにつまずき、もう三歩目が出なかった。
何で、なんでこんなに情けないんだよと、しゃがみこんで、地面に這いつくばった。
怖くて悔しくて悲しくて、自分の弱さが弱すぎて涙が溢れた。
人は明るい場所で生きるべきものなのだ。
こんな暗い場所で生きるものなんかじゃないのだと、震える体の魂で感じていた。
どこにいても俺は俺。
どこに行っても逃げられない。
何も変わらない。
自分は弱かった。
地面に這いつくばり、めそめそ泣いているこのリアル。
自分の弱さをまざまざと感じてしまった。
壊れた自分も俺は俺。
弱い自分も俺は俺。
もういい。
分かった。
分かったよ。
もう、十分頑張った。
受け入れて生きていこう。
ただそれだけの事だったのだ。
白も、黒も俺は俺。
逃げて隠れる場所はない。
家に帰ろう。
暗闇から明るい世界へ戻ろう。
日常に戻って泥臭く生きよう。
暗い世界じゃ駄目なのだ。
明るい世界に戻るのだ。
情けないけど俺よ、お前はお前で生きていけ。
人は人。
人の社会で生きるべきものなんだ。
仕切り直しだ。
やり直そう。
きっと、やり直せる。
……きっとだ……。
這いつくばった深淵の闇の中、意を決して立ち上がろうと顔を上げた時、目の片隅に異質を感じた。
暗闇の中で暗闇でない場所があるように見えた。
深淵の暗闇の中で仄な色の違いを見たような気がした。
真っ暗闇の中、真っ暗ではない、ぼんやりとした場所を目の端に感じた気がした。
その異質が俺を呼んでいるようだった。
俺は安心を求めてたくて、這いつくばりながらその方向へ移動した。
暗闇に居続けるのが嫌で、その色の違いを頼りに移動した。
真っ黒だった暗闇は仄かな闇となり、指先に感じていた土は気付かない間に徐々にその素材を変えていった。
俺の気持ちはいつしか落ち着いていた。
暗闇から逃れようと、ただ、ただ、安心を求め、暗い小道をゆっくり這った。
しばらく経って、自分の膝小僧がいつの間にか柔らかい土ではなく、もっとずっと固いものに触れていると気が付いた。
地面は冷たく濡れた固い石に替わっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
ここは……どこだ?
手と足に濡れた地面を感じつつ、ふらりと立ち上がって周りを見渡したら、景色が変わっていた。
そこは相当でかい洞窟の内であるようだった。
夢でも見ているのだろうか?
そう思いながら、気だるく周りを見渡すと、目の前に鍾乳石の円柱状カーテンが広がった。
鍾乳石?
あまりの見事さに息をのんだ。
大きい。
濁りの少ない見事な色を湛えた鍾乳石。
いきなり何故こんな場所にこんな鍾乳石があるのかと、頭のどこかで感じつつ、この状況を整理しようとした。
だが、先ほどまで人生最悪の気持ちを奮い立たせたばかりの俺。
完全に立ち直ったとは言い難い。
引きずっているのは明らかな俺。
こんな状態で頭を回転させた所で、そう簡単には働かない。
だめだ。
無理。
整理がつかない。
いつの間にか目の前に存在した、圧倒的な空間と清冽な空気。
明らかに先ほどいた森林の中とは違う場所。
人の気配は全くしない。
それどころか、生きものがいるらしい気配もない。
振り返れば、今、這ってきた自分の跡が見えるはずなのに、そこあるのは圧倒的にそそり立つ洞窟の――壁――。
今、這って来たところが壁で塞がっている。
この壁、一体いつ現れた?
どこにあった?この壁。
どこから来た?この壁。
穴でもあるかと目線を下げるが見当たらない。
どうなっている。
通り抜けられるのか?この壁。
戻れるのか?
この壁に一歩踏み込めば帰れるのか?
それは綺麗な『壁』だった。
振り返った場所に立ちふさがる壁は50mほどの高さがあるだろうか。
壁には違いなのだろうが、うっすらと透き通っているようにも見える。
電気や照明がこの洞窟に来ているようには見えない。
なにより、ここは人が足を踏み入れて観光用に整備されているような場所ではないだろう。
地面を這って、町に戻ろうとして、どうしてこんなところに迷い込んだのか。
ここはどう見ても森の中じゃない。
森を抜けて道に出るならわかる。
木々を抜けて広い場所に出たのならそれもわかる。
でもここは洞窟の中だ。
たぶん人が住める場所じゃない。
人の社会に戻るはずが、真逆の場所に来てしまった。
気が付けばそこは途方もない空間を持つ、神聖な雰囲気抜群の洞窟の中。
相当でかい壁の前。
怖いか?いや怖くない。
変か?いや変じゃない。
俺、おかしいか?いやおかしくない。
本当か?
俺、本当におかしくないのか?
―――おかしくなったらどうにかなるのか?―――
どうにもならないな。
ふと、感じるところがあって手を伸ばして壁に触れると、壁はザワリと波打ちながら手を飲み込んでいく。
おおぅ。
これは……間違いない。
この向こうにはさっきまでの森がある。
多分……。
そう思ったら手首から先に入っていかない。途中で手が止まった。
手首から先に何かある。
壁の向こうにもう一段壁があるような感じ。
その壁に、やんわりと拒絶されているような気がする。
暫く奥の壁を押してみても何も変化は起こらない。
いや、強く押せば指は入っていくが、無理に押してくれるな感を壁から感じる。
この壁、何だ?
どうするか。
ぼんやりとした頭で改めて周りを見て気が付いた。
「……ここは洞窟の最深部……なのか」
最深部でないにしても、戻れば森に行けるはずの壁がここにそそり立つのだから、ここが行き止まりの一部であることは間違いないだろう。
見上げる頭上から、石灰を含んだ水滴がポタポタと落ちている。
照明がないのに洞窟内が暗くない。暗くない証拠に周りがよく見える。
さっきまでの森の中では暗闇が恐ろしかったが、ここの暗闇は闇ではない。
暗いはずなのに何故か周りが普通に見える。
別段恐怖を感じない。
この空間の綺麗さは何だろう。
さっきまで地面を這いつくばって鬱っていた俺。
そんな事を忘れさせてくれるくらい神聖な光景。
清冽で神秘的な気配にも満ちている。
閉鎖的な空間の中だろうというのに、この空気の清々しさは何だ。
じめじめとした湿気も感じない。
埃も舞っていない。
足元には常に水が流れている。
きっとこの水を汚す存在がいないのだろう。
溜まっている場所の水は、飲めるのではないかというくらい透き通っている。
横には川がある。
小川だ。
良く見ると至る所で小さな川が出来ている。
至る所で水滴が落ちてきているからだろう。水滴が集まり筋となり、さらさらと音を立てて流れている。
今の俺にはこの音さえも心地いい。
美しい音だと思った。
この空間と水の流れに、染み入る癒しを感じる。
不思議な所。
水の流れの向こうには何があるのだろう。
外に通じているのだろうか。
好奇心が芽生えてくる。
俺の来た道を塞いだ壁は、たぶんこのままここにあるのだろう。
いつの間にか無くなっているという事を期待したいが、今はこの壁が消えて無くならない時の事を想定すべきだろう。
この先に何があるのか見ておきたい。
見ておかなければならない。
状況をもう少し詳しく知るべきだ。
壁はひとまず置いておく。
なにかが分かればここに戻ってくればいい。
状況が変わるかもしれない。
逆にまったく変わらないかも知れない。
俺には全く分からない場所なのだ。
どっちに転んでも構わない。
鬼がでるか蛇が出るか。
決断は早かった。
気分を変えよう。
そう思い、水の流れに沿って外に出ようと、俺はこの世界での第一歩を踏み出した。
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