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俊寛三題  作者: 鏑木恵梨
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三、双影(下)

「有王や、この衣をご覧。美しゅうございましょう」

 姫君はおのが袖を手繰った。

 有王が深く頷く。姫は悲しげにほほえみ、話し続けた。

「かつての頃のように着飾っているのは、父さまがいつお帰りになられてもよいように。帰りてわらわを見、落魄させたと嘆かるることのないように……伯母は迷惑千万、厄介者よと陰言を申されておりまする」

 姫の頬に涙が伝う。

「されど心を強うして、こんにちまで」

「おひい(姫)さま」

「……彼岸におわしゃるなら諦めもつこう。されど、されど……」

 姫は絶句し、両の手でおもてを覆う。ととさま、ととさま、と声を殺してすすり泣く。そのあわれな姿、見るに堪えぬと有王は顔を背けた。

 御坊よ、なにゆえ「ほんとうを告げよ」と申された。

 有王は姫と会いまみえる前まで、迷っていた。作りごとのいまわの言葉を考えていさえした。されど、華やかな単衣の裾を払う姫を前に、「もしや父上さまのことなど忘れしか」――その口惜しさが、有王に「ほんとう」を告げさせたのである。それもいやしき者の短慮であったと、有王は唇を噛み血の味を嘗め、心のうちでおのれを責めた。

 庭で郭公が鳴いた。ほーう、の声は長く続き、やがて消えた。

 傾きはじめた陽光が、御簾を通り、床に細やかな筋目を描いている。

「わらわは」

 有王は再び姫を見遣った。両手を膝に落とした姫は、険しい目を有王に向けていた。

「わらわは父さまのお弔いをいたします」

 はっと眼を開き、有王が鋭く言う。

「おひいさま、さては」

「剃髪致しまする」

「いけませぬ、お聞きくださいませ」有王はとどめるすべを懸命に考えた、「御坊は平家に羽虫のようにうち払われ、苦悶の果てに卒されたのではございませなんだ。都を未練に思う煩悩を捨て、極楽を見いだしたのでございます」

 有王は思うままをことばにしつつ、はたを目を見張った。さあるべし、これぞまさしく御坊の真意なりと――平家憎しと思うでない。いつまでも未練に迷うは負けたと同じ。たかが一平家ずれなどに。なればこそ、俊寛は僧都の名や衣鉢を投げやり、都の梅花も忘れたのだ。されどそれは、むすめをも見捨つることになる。これだけはどうしようもなく悔やまれる――なれば俊寛は、苦々しげに目を伏せたのだ。

 姫は虚空を見つめてつぶやく。

「まるで補陀落渡海されたよう」

「生きて仏となられたのやも。目出度きことでございます」

「なればわらわは、その尊き徳を偲び、仏に仕える身となりまする」

「なんと」

「もはや父さまは還りませぬ」

 ああ、と有王は嘆息し、ようやく悟った。

 姫は待ついわれを失った。後ろ盾のない姫君に行く末はない。寺に行くより他はない。いかに説いても姫の翻意はならぬであろう。

「では私も」有王は重々しく告げた、「私も山へと参りまする」

「なにを申される」姫が悲鳴を上げた、「かようなこと、わらわのみで充分じゃ。父さまは未練を残さず、彼岸へ参られた。それを伝えたは有王、そなたぞ」

「御坊のことにあらず」

「では、なにゆえに」

「おひいさまにかような辛き思いをさせたることこそ、憎らしい。ええ、平家が憎らしゅうてなりませぬ」

「おお……おお、有王」

 姫は袖で目許を覆った。

「ゆえに三井寺に入りまする。おひいさま、ご覧めされ。いつの日か有王は平家に一矢報いてみせましょう」

 有王もきっと翻意はすまい。姫もまた、分かっていた。

「有王や、わらわに約してくりゃれ」姫は弱々しく微笑んだ、「武運つたなき時も、いのちを粗略にせず、だれも恨まず、生きながらえてくりゃれ。父さまのように」

 傾いた日がふたりを包み、ふたつの影を長く長く、伸ばしていた。



 艶やかな単衣の姫が告げている気がした。

 ――平家は滅びた。そなたが誓うたとおり。

 二のあるじと定めた人は、壇ノ浦に平家を沈めた。かのいくさに付き従ったかれは、誓いの通り、平家に一矢報いたのである。

 しかしそのあるじは今、鎌倉より追討を受ける身となり果てた。一のあるじが海の果てなら、二のあるじは陸の果て――奥州行の主従より離れ、かれは「慮外者」と呼ばれる道を選んだ。それは幼き日、一のあるじの姫と約した、あのことばのためであった。

 ――この罪深き身、辛うござります、御坊……されど……

 法師は潤んだまなこをそのままに、口元をゆるめた。

 ――おひいさまが、ここにおわしますれば……

 そして再び、ただ漕いだ。

 頬に流れる幾筋の涙は海の風が乾かし、やがて跡だけを残して消えていった。

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