三、双影(中)
「おお、おお有王か、懐かしや」
御坊は、私の顔を見るなりおっしゃいました。不自由な離れ島にありながら、かつて都にあった頃の常と変わらぬご健勝な御様子。安堵致しました、と私はお答えしますと、御坊は哄笑なさいました。
「この通り、健やかに暮らしておる」
そして御坊が手を叩きますと、女が壷を掲げて参りました。髪は赤く短く、目もとも鼻筋も深く、色あさ黒く痩せこけた、なんとも評しがたき不器量な女ながら、なんとのう所作に品がござりました。さて、程なくして女が下がりますと、御坊は手ずから杯を取り、島の酒じゃと私にお授けになりまして、有り難く杯を取らせていただきました。
「あれがこの島での妻」
御坊はにやりと口もとを上げ、申されます。私は、あまりのことに杯を取り落としそうになりました。
御坊は四十に満たず。離れ島の磯窟に、侘しくひとり寝で過ごされるのは、あまりに無聊なこととは存じます。とは申せ、あのような者をと思わず口にいたしますと、
「心根はよいのでな。信じぬかも知れぬが、ひそかに思う者多く、流人に取られたと、さんざののしられたものであるよ」
そう誇らしげに仰しゃるものの、納得いかぬ顔を隠さずにおりますと、
「たしかに都様の美しさとは異なろう。されど都人のいう美醜とは、唐天竺の人のとはまた違うのではないか。もしかすると、本朝でも唐と行き来があった昔は、女の美しさも違うておったやもしれぬ。今の都だけがこの世のすべてではない。やがて拙僧もそなたも草木の露となり、長い時を過ぎれば、やせ細った赤い髪でも美しいとされるやも知れぬ」
外つ国のことなど私には考えも付かぬことなれど、言い訳にはあらず、ご本心で申されておることはよう分かりました。さりとて都だけがすべてではないとは、御坊にとって、奢る平家に辛酸尽くしがたき思いをなさったのは、遠い過去のできごとなのでしょうか。それとも……もしや、都へ還りたくないのですか、とお聞きしますと、御坊はためらいも見せず「此処は此処とて」とだけ、申されました。
あとは島の山より出ずるけむりのことや、島の産品、あるいは島にいたころの判官康頼さまや丹波少将成経さまのことなどを、伺いました。少将さまの千鳥なる女と、その男子にも会いました。そうです、あの千鳥でございます。厳島で身を投げたという噂もありましたが、御坊が申すには皆、嘘であると。船に乗せよと言うたのは御坊のみ、肝心の少将さまはいかにせんと、狼狽するばかりであったそうにござります。別れた頃は毎夜泣き腫らしたとのことですが、私が会うた頃は、肝の据わった母となっておりましたよ。かの千鳥女は、都にも稀なる美しさでございましたが、あの島では誰も美しいとは言わぬそうでございます。やはり、此処とかの島とは違うのでござりましょう。
私からも、おひいさまが息災であること、平小松殿が卒されたこと、その遺領をめぐり法皇様が鳥羽殿に押し込められ、関白さまはじめ四十余人の官職を停止せしめられたること、その関白さまがご出家されたことなど、知るかぎりの天下のことなどを、つらつらとお話し申し上げました。島に残りお側回りのお世話を差し上げたい、と幾度となく申し上げたのですが、御坊はお許しになりませんでした。
そうして幾月かを過ごし、次の硫黄を運ぶ便船が参りました。私のみが船に乗り帰ることとなりましたので、御坊がいざ見送らんと、湊にお出で下さったのですが、そのおり御坊がおっしゃったことには、
「俊寛は死んだ。独り孤をかこち寂しさを嘆き、世を恨んで果てた。そう伝えておくれ、有王。されど」
一度目を伏せ、御坊は静かに仰せになりました。
「むすめにだけは、ほんとうのことを知らせておくれ。俊寛は芭蕉扇を片手に、竹林賢者のごとく暮らしておるぞよ」
おことばとは裏腹に、御坊は苦々しい顔をお見せになりました。あのような顔をされたのは、最後の別れのときのみでございました。