19・六花、囁きは願望、君との繋がりは鎖のように
数十年振りに真っ正面から見た彼は、明らかな怒気を滲ませていた。
「何故、お前が此処にいる」
※※※※※
「───やあ、初めまして」
「………初めまして」
彼の、"信頼のおける後任"は本当に速く、翌日に来た。
………いや、はっきり言おう、物凄く胡散臭い。
真っ黒のローブで全身をすっぽり覆い、見えるのは辛うじて口元だけ。足元はローブで見えず、手元は革のグローブを嵌めている。フードの下の顔は鼻から上を覆うシンプルな黒い仮面。
………ここまでくると何かの執念を感じる。
「氷水華と申します。お手数をお掛け致しますが、よろしくお願いいたします」
「これはこれはご丁寧に。私は"紅蓮"と申します」
ゆっくりと頭を下げる様子を観察すれば、まさにお手本のようなお辞儀である。
氷水華は平民の可能性を捨てた。
礼儀作法は、良くも悪くも所作に出てしまう。それは今までの生活環境であったり、仕事のせいかもしれないが、流石に平民と貴族の差は分かる。
「紅蓮さま、ですね」
「いえいえ、そのまま紅蓮、とお呼びください。一身上の都合によりこのような姿で参上したのですから。紅蓮というのも偽の名でございます故」
「では、何故このような仕事を受けられたのか、お聞きしてもよろしいですか?」
氷水華に、姿を見られては困る人物など思い当たらない。何せ社交界には重要行事以外とんと出ないのに。
自分にそこまでの価値があるとも思えない。
「一身上の都合、と答えさせて頂きましょう。氷水華様の選択次第とも言えますが」
「は?」
選択?一体何の話だ。
思いがけない方向に話が進んでいくのに、頭がついていかない。
そこで、紅蓮は衝撃的な言葉を紡いだ。
「下らぬ戯れ言と流して頂いても結構。これはわたしの都合でございます───健康な身体を、欲しくはありませんか?」
それは、まさに悪魔の囁き。
漆黒のローブが、僅かに揺れる。
「私が、氷水華様のお体を治しましょう。健康な身体を手に入れられた暁には、私に少々ご協力頂きたいのです」
それは、まさに悪魔の囁きだった。
※※※※※
「───何故、お前が此処にいる」
弦がピンと張ったような、凄まじい緊張感。
数十年振りに顔を合わせた彼は、明らかに怒っていた。
暗いなかにトロリと赤を流したような、もしくは赤みがかった琥珀の瞳はつり上がり、腰まで流れる真っ直ぐな黒髪は今にも蜃気楼のように揺らめきそうだ。
「───私が、新しい魔導部隊の隊長だからです」
事実である。
実際、氷月が王の謁見室にいる理由は部隊長の就任の任命と謁見のためだ。
室内には、氷月と王である≪石榴の君≫、さらに燃え立つような赤毛が印象的な、近衛隊の隊長の三人だけ。
ピリピリした緊張感の中で、近衛隊隊長である彼だけが薄く笑みを張り付けている。
それが、今はとても頼もしい。
「私は、氷月として此処にいるんです」
「───閑浬の家を出て、一体何が目的だ」
彼の言いたいことは良く分かる。
氷水華は、閑浬のあの別宅から出ては生きていけない温室の花だった。それは治療と調整をしていた殀芽が一番良くわかっている。
「死ぬつもりなら、今すぐに閑浬に引き渡させてもらう。それと、烟月」
烟月ーーー現近衛隊隊長。燃え立つような赤毛に、冬の海のような藍色の瞳を持つ、二十代前半の容姿の青年。程よく日に焼けた肌に、やや吊った眦が顔立ちの甘さを際立たせる。すらりとした長身は見事に鍛え上げられ、近衛隊の白い軍服がしっくりと似合う。
外見こそ妙な軽さを持つ男だが、頭の回転は速く弁も立つ。武術に関しても現王に引けを取らない腕前を持ち、妖魔討伐の際には王と二人して先陣を切る姿は頼もしいを通り越して神がかっているとまで言われている。………実際後ろの兵士は置いていかれないように必死だ。
「何かな?」
「ほう、弁明も無いか」
「一体何の話かな?」
飄々と惚けて見せる烟月に、殀芽の米神にはびしりと血管が浮き出た。
「───お前が、氷水華の身体を創り変えたんだな?ここまで言わないとわからないか」
押さえ込んでも滲む魔力の揺らめきに、殀芽の黒髪がゆらり、と揺れた。まるで陽炎のように。
しかし、国王の怒気を目の当たりにしても烟月は薄く浮かべた笑みを張り付けたまま。
見ている氷月のほうがひやひやしてしまう。
「───彼女が、‘これから’に必要だから。わかってるでしょ?俺を彼女の調整役にまわしたんだから」
「阿呆。お前以外に氷水華の調整役が務まるか」
「それだけじゃないクセに」
「何だって?」
薄く浮かべていた烟月の笑みが、そこはかとなく暗いモノに変化した。氷月の背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
「人知れず、彼女に手を伸ばせるように。その為に殀芽は、俺を遣ったんでしょ?後はまぁ、調度手が空いていたからってところかな」
「そこまで分かっていたなら、何故身体を創り変えた?」
「───俺の目的の為に」
暗い笑みが、底知れぬ凄みを帯びた。冬の海を思わせる藍色の双眸が、真っ向から焔を燻らせる石榴とぶつかる。
しかし、均衡は烟月自身によって崩された。
「でも、彼女が優秀なのはわかってるでしょ?一兵卒よりも軍師向き。だから推薦したんだよ」
丁度席が空いたからね。と続けた烟月に、殀芽は深々と溜め息をついた。
どさりと自分の椅子に腰掛ける。鬱陶しげに前髪を掻き上げ、烟月から視線を外した。
「───氷月」
「なんでしょうか?」
「正直に答えろ───俺の為に死ねるか?」
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「過去は過去だ。私は自分で選んで此処にいる」
「だとしてもですわ。わたくしは、皇淋も含めて、氷月に死んで欲しくなどありません」
強気に氷月の発言に言い返したのは、妙齢の異形の美女だった。
蒼白い肌に、斑に浮かび上がる青緑色の鱗。濡れたような艶の長い髪は緩やかに波打ち、その妖艶な身体にまとわりついている。本来ならば耳があるだろう場所には、魚のヒレのようなモノが髪の隙間から覗いていた。
顔立ちはやや勝ち気そうな印象の、二十代と思わしき妖艶な美女だ。
「氷月が、陛下に亡くなって欲しくないように、わたくしたちも氷月に亡くなって欲しくなどありません」
氷月の執務室であろう、沢山の本が本棚に納められた部屋。それでもスペースが足りなくてキャビネットや箱に山積みになっている。
その中の、ひときわ立派な執務机に、氷月は苦笑しながら腰掛けていた。
「ああ、海音、そう言ってくれることが、私は何よりも嬉しい。だが、私にもこれは譲れないんだ」
海音と呼ばれた異形の美女は、泣きそうな顔になりながらも氷月の言葉を待った。氷月は申し訳無さそうに、つり上がった眦を力なく下げながら。
「約束だからな。お前もだろう、海音。お前も、本来ならば私の命を優先してはいけない立場の筈だ」
「ええ、本来ならばですわ。ですが、あの方は今回の件で死ぬことは有り得ませんわ。なら、わたくしはわたくしが大切にしたい方を護りたいのです」
異形の美女───海音は、ぎり、と拳を握った。鋭い爪が手のひらに食い込むのも気にせず。目の前の恩人から視線を外さなかった。
ここで止めなければ、間違いなくこの人は自分を置いていくと分かっていたから。
「どうして───氷月が死ななくてはならないのですか」
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