第九話 ベル・サンテ、建設開始
馬車が止まった。
「ここです」
ラファエルが降り、セレスティーヌも続いた。王都の北西、貧民街と貴族街の境目。川沿いに広がる空き地に、風が吹き抜けていく。
「川の水が近い。井戸を掘れば清水も出る。風通しもいい。貴族街へも貧民街へも徒歩二十分だ」
「立地、文句なしですわね」
「サン・ジュスト家の元領地の一部だ。今日付でベル・サンテに寄贈する」
「ラファエル様、これ、いくら相当ですの」
「お金の話は、なしにしよう」
「では、私とシャティヨン家から運営資金を出します」
「感謝する」
二人は空き地を歩いた。地面には、幾度も書き直した見取り図のとおり、建築家による地割の糸がすでに引かれている。
「最初は外来診察棟と薬局棟、それから看護師職業学校棟。半年で建てる」
「半年、ですか」
「サン・ジュスト家の職人を総動員する。足りる」
「現代の建築でも早いくらいですわ」
「治癒師としての伝手で、腕のいい左官、大工、石工を集めた。私を信頼してくれている者たちだ」
ラファエルが地割の糸に目を落とす。
「セレスティーヌ嬢」
「はい」
「あなたは、これが現実になると、本当に信じているか」
「信じています」
「私は夢のような心地がする。十二歳から独りで描き続けた図が、いま地面に糸として現れている」
「ラファエル様」
セレスティーヌは彼の隣に立った。
「十二歳のあなたが抱いた夢に、十三年目にして私が出会えました。もう、夢のままでは終わらせません」
ラファエルは彼女の横顔をしばらく見つめ、わずかに頷いた。
「承知した」
「半年後、ここに外来棟が立ちます。来年の春には、最初の患者を迎える」
「わかった」
セレスティーヌは地面の糸を見下ろした。四十歳の緒方真理子は、二十年前に配属された産婦人科病棟の匂いを思い出していた。
朝の消毒液の匂い。
ナースステーションのコーヒーの匂い。
誰かの、夜勤明けの汗の匂い。
そして――赤ん坊の、最初の泣き声。
あの匂いを、ここでもいつか嗅げるだろうか。嗅ぐわよ、絶対に。
*
その日、彼女はラファエルと職人たちとともに、夕方まで現場で過ごした。
絹の靴が、たちまち泥まみれになった。四十年、白衣とスニーカーで現場を歩き回った体には慣れたものだが、今日この体は、十七歳の令嬢のものだ。膝を折り、地面に顔を近づけるたび、コルセットが抗議した。
こんなものを着けたまま現場に出るなんて、正気の沙汰じゃない。コルセットも、いずれ改革の対象だわ。
セレスティーヌは自ら井戸の予定位置を確認した。
「ここでよろしい」
「お嬢様、ここの土は固いで、難しゅうございますが」
「では、隣に五歩ずらしましょう。粘土層の上に井戸を掘ると、水が濁ります」
「排水路をこう通せば、雨季でも――」
言いかけて、セレスティーヌは口を噤んだ。危ない。今、うっかり「ドレーン」と言いかけた。
「お嬢様?」
「いいえ、なんでもありませんの。続けて」
「お嬢様、よくご存知で」
「父の領地で勉強しましたの」
(公衆衛生学の必修だった、とは言えないわね)
「左様でございますか」
職人たちは、最初は令嬢の言葉を話半分に聞いていた。地質、衛生、構造。具体的な知識が次々に飛び出すたび、彼らの目つきが変わっていく。四十年分の知恵が、十七歳の唇からぽろぽろとこぼれる。傍から見れば、奇妙な見世物だった。
ラファエルは、傍らでそれを静かに眺めていた。夕方、馬車の中で彼はぽつりと言った。
「セレスティーヌ嬢、あなたの四十年は、私の五年の独学をはるかに超えている」
「ラファエル様」
「なんだ?」
「私の四十年は、ラファエル様の五年と合わさって、初めて意味を持ちます」
セレスティーヌは微笑んだ。
「あなたの五年がなければ、私の四十年はいまも、この国に根を下ろせていません」
「……」
「私一人では、貴族社会にも王宮にも扉がない。あなたの公爵家の礼があって、初めて開く」
「ふむ」
「ですから、ありがとうございますの」
セレスティーヌは深く頭を下げた。
ラファエルはしばらく彼女を見ていたが、やがて口元をわずかに緩めた。
「セレスティーヌ嬢」
「はい」
「あなたと組んで、よかった」
「私もです、ラファエル様」
午後の傾いた光が、馬車の中の二人の間に降っていた。ビジネスパートナーとしての絆は、確実に深まっている。
ただ、ラファエルの金の瞳の奥には、それとは別の熱が、ほんの少し残っていた。セレスティーヌは、気づかないふりをした。
彼の中には、常に二つの声がせめぎ合っている。サン・ジュスト家の跡取りとして、政略と家門の存続を第一に置くべきだという声と、治癒師として、目の前の命を救うことこそが自分の存在理由だという声。これまでその二つは、ほとんど矛盾せずに済んできた——治癒師としての実績は、公爵家の名にも箔をつけたからだ。だが、セレスティーヌという存在は、その均衡を静かに崩し始めている。彼女を失えば、自分には跡取りとしての義務だけが残った、空っぽの容れ物になる。そんな予感が、彼の胸の底に居座って離れなかった。
*
同じ頃、王都の中央。
ヴィクトール・ド・モンテーニュは、書斎で家令ジルの報告を聞いていた。
「お嬢様のベル・サンテ構想、本日より、敷地の地割りが始まりました」
「……もう、地割りか」
「サン・ジュスト公爵令息の領地の一部を、ベル・サンテに寄贈なさったとか。建設はサン・ジュスト家の職人を総動員し、半年で第一期棟を完成させる予定とのことです」
「半年」
「はい」
「速いな」
「公爵家、本気でございますね」
ヴィクトールは机の上で両手を組んだ。
私の出る幕は、もうないのか。いや、まだ間に合う。人材なら、モンテーニュ家にも出せるものがあるはずだ。
「ジル」
「はい」
「領地内の、有能な薬師、産婆、医療従事者をすべてリストアップしろ」
「畏まりました」
「お屋敷の薬師、ベルナルドゥス様も含めるのでございますか」
「含めろ。王都でも有数の薬師だ。セレスティーヌ嬢の事業に貢献する価値がある」
「ヴィクトール様、ベルナルドゥス様はお屋敷の命脈と呼ばれる薬師でいらっしゃいます。ご家族の皆さま、何かご病気の節は彼にお頼りされる――」
「分かっている。それでも出す。あれがベル・サンテに行けば、王都全体の薬学水準が上がる」
「……かしこまりました」
ジルが礼をして退出する。
ヴィクトールは引き出しから便箋を取り出し、ペンを握った。
人材を提供したい。ベル・サンテに協力したい。そう書くつもりだった。
……いや、待て。「協力したい」は、押し付けがましくないか。「お申し付けいただければ、人材をご紹介可能でございます」、このくらいが無難か。いや、これでは他人行儀すぎる。もっと。
破った便箋が、屑籠に積み上がっていく。侯爵家の跡取りが、たかが一通の紹介状にこうも手こずるとは、ジルに見られていたらさぞ滑稽な図だっただろう。
ようやく一通、書き上がった。
> セレスティーヌ・ド・シャティヨン嬢
>
> 失礼をお許し願いたい。
>
> 貴方様のベル・サンテ構想を、社交界の噂で承知している。
>
> 当家モンテーニュ侯爵家に、王都でも有数の薬師ベルナルドゥスを抱えている。
>
> もし彼が貴方様のお役に立つようなら、当家からベル・サンテに出向させる用意がある。
>
> ご検討いただければ幸いだ。
>
> ヴィクトール・ド・モンテーニュ
「……これで、よいか」
何度も読み返し、封をして、ジルに託した。
*
二日後、返信が届いた。ヴィクトールは震える指で封を切った。
> モンテーニュ侯爵令息様
>
> ご厚意、心より感謝申し上げます。
>
> ですが、人材の配置はすでにサン・ジュスト公爵家にて整っております。
>
> ご厚情、お気持ちのみ有り難く頂戴いたしますわ。
>
> ご繁栄をお祈り申し上げます。
>
> セレスティーヌ・ド・シャティヨン
手が止まった。
「……整っている?」
間に合わなかった。いつ整えた。いつサン・ジュスト家が人材を揃えたんだ。向こうの速さは、尋常じゃない。彼女とラファエル様は、すでに必要なすべてを組み上げてしまっている。私の出る幕は、もうないのか。
ヴィクトールは手紙を握りしめた。便箋が皺になる。
窓の外には青い空が広がっていた。その青さは、彼には見えなかった。
*
その夜、蝋燭を消しても、握り潰した便箋の皺だけが、瞼の裏に残っていた。




