God Knows It.
先ほどまで望の中にあった憎悪は急速に縮んでいった。
頭部だけという親友の無残な姿を目にしているのに、すでに葵が生きていないことは明白であるのに。
どういうことだろう?
望には実感がなかったのだ。これが現実であるという。いや、より正確に言うならば望は無意識に目の前に突きつけられた現実から逃避し拒否したのだ。なぜならば、もし、葵であるとそう認めてしまえば、自分は壊れてしまうから。そういう種の無意識の処世術だった。
目の前の人物はぷらんぷらんとまるで振り子のように髪を掴み葵の頭部を小刻みに揺らしている。だが、恐ろしいのはその光景ではなく、それを躊躇なくしかもいつもの柔らかい笑顔を顔に張り付けているその人物の方だった。ぷらんぷらんと揺れる葵の頭部。望は冷静にそれを見ていた。と、ふとした拍子に葵の普段は見えることがない部分、切断面が望の目に飛び込んできた。
「うっ、おええええええ」
その瞬間、望は嘔吐した。それは望にとってはとてつもなくショックな光景だった。
口を抑えてしゃがみこむ望。すぐに嘔吐はぶり返してきた。
「ごほっ、ごほっ。うえええええっ」
「大丈夫、望さん」
いつもの口調。そして、一歩、一歩と近づいてくるのがわかった。だが、望は止められない。静止する余裕すらなかった。
その人物は望の背後に回るとやさしく手なれた感じでゆっくりと望の背を撫でる。あたりには異臭が立ち込め、その鼻をつく匂いがさらに望に嘔吐を引き起こそうとした。それを知っていたのだろう、その人物は望が再び嘔吐する前に移動させた。
「少し、きついものを見せてしまったわね。やっぱり、親友のあんな姿は見たくないわよね」
自分でやっておきながら何を言っているのだ。と望は言いたかったが、口を開けば嘔吐しそうだったので、言うことができなかった。こうして、背中をやさしくさすられていると今までのことを全て忘れて、また、普通にこの人物の名を呼んでしまいそうになる。
しばらくして落ち着いた頃、望は小さな声で無意識に自分の視線に合わせて座っている人物の名を呼んだ。そして、その声が自分の耳に届いた瞬間、激しく後悔した。
「南先生……。……っっ」
その名に反応することなく南は望の髪を思いっきり引っぱった。
「くっ、痛っ」
望の口から苦痛の声がもれる。
南は望の耳元に顔を寄せて、今までに聞いたことのないような残酷な声色で囁いた。
「どう? 絶望した? この世界は嫌になったかしら? ねえ、葵ちゃんともう一度お話したいでしょう? 笑い合いたいでしょう? だったら、この世界を改変するのよ。あなたの能力を使えば、葵ちゃんを生き返らせることなんて造作もないことよ」
「は、離して」
南は髪から手を離した。そして、立ち上がり望から離れて行く。なんとか嘔吐はおさまった。望はとりあえずそのことに安心していた。
ごろんごろん。
何かが転がる音がした。望は音がした辺りに目を向ける。
そこには葵の頭部が転がっていた。閉じられた目、口。寝ているような、今、目を開いてもおかしくないような印象さえ受ける。だが、葵は死んでいるのだ。
望に再び嘔吐が襲う。
「ごほっ、うっ、ごほっ」
先ほど腹の中にあったものは全て吐いてしまったのか、もう何も出てはこなかった。
「ただ、改変するだけじゃあ、ダメよ。どうすればいいか教えてあげる。あなたはね、この世界を止めるのよ。この世界を凍結するの。つまり、誰も死なない世界を創るのよ。みんな、永遠に生き続ける、でも、誰もそれには気づかない。そんな世界をあなたは創るべきなのよ。葵ちゃんとも有ちゃんともずっと一緒にいられるわ。だから……」
と南は違和感を覚えた。
どうして、世界は今だに改変されていないのだろうか。
どうして、自分はまだここにいるのだろうか。
どうして、葵は生き返っていないのだろうか。
もしかして、もしかして、
望はこの現実を受け入れているのだろか。
ならば、何故? こんなことを受け入れられるはずがないではないか。
そこで南の頭にある一つの仮説が浮かび上がった。それはこの世界が――望を取り巻く世界がすでに何度も改変されているのではないかということ。いや、もしかしたらもっと大規模に改変されているのかもしれない。そうでなければ、つじつまが合わない。望の性格から考えれば、すぐにでも世界を改変して、自分はこの世界から消える。やっと解放されるのだと南は考えていた。だが、自分は消滅しないどころか葵も生き返らない。世界はまったく改変されていないのだ。
南は望を見た。
望は苦しそうな辛そうな表情をしている。ということは、望が自身を改変しているであろう可能性はありえない。苦しくとも受け入れようとしているような、すくなくとも自分を改変して今のこの苦しみから逃れているようには見えない。では一体、どういうことだろうか。しばらくの間、南は考え続けその間いくつもの仮説が現れては消えまた複数の仮説が組み合わされた。
その結果、南はある結論を導きだした。
南は望の下へと行く。
「望さん、あなた。一体、この世界を何度改変したの? もしかして、今いるこの世界は偽物なの? わたしは偽物? 答えなさい! この世界はあなたの頭の中の世界の一つ、あなたがわたしのような存在に体験させているであろう疑似記憶の一つなの!?」
南が出した結論はこうだった。簡単に言えば、この世界は偽物であるということ。それも南だけが体験している世界。といっても、その世界を創っているのは望自身であるから南の思い通りにはいくことはない。数ある可能性世界の内の一つを頭の中で再現されているのではないかと南は思ったのだ。それを考えるとまた新たな可能性が浮かび上がってきた。そもそも、わたしという存在は存在するのだろうかという疑問。だが、その疑問はすぐに捨てる。なぜならば、さらにありうる可能性を思いついたからだ。それは……すでに望はこの世界の神となっているのではないかという仮説だ。だからこそ、何度でもこの世界をやりなおせる。だからこそ、今いるこの世界はその何度目かではないのだろうかということ。そこからさらに南は考えた。もしかして、望は能力を使わないのではなく使えないのではないだろうか。
南はすぐに行動に移す。乱暴に望の制服を破り、胸を確認する。きちんと胸の中央には‘創’という文字があった。いくら創の能力者といえど能力を創ることはできない。ということは……望はやはり自らになんらかのプロテクトをかけている可能性がある。能力を使わないように。ありのままの現実がどれだけ悲惨なものだとしても受け入れるように……。ということは、やはり、この世界が――望を取り巻く世界が何度か改変されているのだという可能性が濃厚になってきた。おそらく、望は何度も何度も世界を改変して、何らかの事情からもう世界を改変することをやめたのだ。世界に抗うことをやめたのだ。では、どうして自分の存在は消えていないのか。それだけが、南にはわからなかった。だが、世界が何度も改変されているというのは、ほぼ間違いないだろう。ということは、自分はこの世界から脱出できないのだ。自分は解放されないのだ。やっと、ここまできたのに。
自業自得。因果応報。
その言葉が頭の中に浮かび上がる。最初、能力者の戦いに残ってしまって、南は願ってしまった。永遠の命が欲しいと。だが、次第に彼女は永遠に生きるということを苦痛としか思えなくなってしまった。それが、今から150年ほど前のころ。南は今までに二度ほど能力者となった。それは奇跡とも言える確率だ。再び奇跡を待つか。それは南にはひどく苦痛だった。だから、それ以外の方法で唯一、自分を殺せる方法を探したのだ。それが、創の能力による世界改変で、その能力者に自分が絶望を与え、新たな世界から自分を消し去ることだった。何故、自分のみを消させなかったのか。それは自分が消えたいと考えたのと同時にやはり自分が創った世界も消えるべきだと南は考えたのだ。
「は、はは。やっぱり、わたしは解放されないのね。ははっははははは! いいわ、いいわよ!! やってやる。何度だって死んでやるわ。何度だってーーーーー!!」
南は走って、そのままの勢いで屋上から飛び降りた。
望は母に起こされいつものようにベッドから起きた。なんだか頭がすっきりしている気がする。心なしか身体も軽い。そんな気分よく起きた朝のおかげで、望の気分はまたよくなっていた。
まるで、嫌なことなど何一つなかったかのように。
まるで、今日もいつもと変わらない日常の一つだというように。
まるで、世は全て事もなしというように。
登校中、望は葵とあった。いつものように、笑顔で面白い話をしてくれる。そんな葵のことが望は大好きだった。校門前では南先生とあった。先生はいつもやわらかい笑顔だ。教室では有ちゃんがいつものように寝ていた。今日も、今日とて何ら変わりない日常があって、ちょっとくらい嫌なことがあってでもちょっとくらいいいこともあるのだと望は思っていた。
だが、その期待はまた裏切られた。