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9話  『ルサンチマン』

 月曜日の朝、オレはいつもより五分ほど早く職員室へ入った。


 もちろん殊勝な心がけではない。

 週の始まりに人間らしい生活をやってみようとか、教師として襟を正そうとか、そういう社会に迎合した発想では断じてない。単に、いつものコンビニでレジ前にいた客が全員まともだったのと、信号機どもが珍しくオレに友好的だったのと、あと土日のあいだに「少しだけ引っかき回してやる」と言ってしまった手前、あまりにも普段通りだと自分でも締まらない気がしただけである。人間の決意なんてものは、たいてい高潔さではなく体裁でできている。


「……神代先生」


 教頭が、朝から嫌な予感を察知した犬みたいな顔でこちらを見た。


「何だその顔」

「君が早いと不安になるのですよ」

「時間通り来ただけで不安視される職場、だいぶ末期だな」

「君に関しては“普段”という前科があるでしょう!!」


 朝から喉が元気すぎる。

 この人はそのうち、怒声だけで窓の結露を飛ばせるようになるかもしれない。


 横でファイルを揃えていた直人が、あからさまに嘆息した。


「教頭先生、諦めた方がいい。そういう日はだいたい何か起こる」

「おい、オレを災害予報みたいに言うのやめろ」

「否定できる材料があるなら出してみろ」

「ないな」

「ないのか」

「ないものは仕方ないだろ」


 向かいでは吉乃が、紙コップのコーヒーを両手で包んだまま、死んだ魚の目でこちらを見ていた。


「……月曜の朝から声でかい……」

「社会が始まる音だからな」

「始まらなくていいのにねぇ……」


 その意見には深く賛同したい。

 できることなら月曜という概念ごとこの世から抹消したいが、人類はなぜかそこまで知的進化を果たしていない。


 オレは机へ鞄を置き、出席簿を開いた。

 二年二組。見慣れた名前の列が、ただの紙切れのくせに妙に人間臭く見える。


 白金結愛。

 まだ折れていない。だが、真っ直ぐなものほど折れる時は派手ではなく、内側から鈍く割れる。


 月峯瑠海。

 弱さを知ったまま、それでも見ていられずに一歩だけ踏み出した子。


 早乙女美菜。

 空気に人格があるなら、たぶんああいう顔で笑う。


 相良勝吾。

 空気を、現実の圧へ変えるための部品。

 

 名簿というのは便利だ。

 人間の複雑さを、たった一列の文字へ押し込めたうえで、教師に「把握している気分」を与えてくれる。実際には何も把握していないのだが。


「湊」


 直人が低い声で呼んだ。


「今日は何をするつもりだ」


 質問の仕方が、もはや同期ではなく事情聴取である。

 オレは出席簿を閉じた。


「授業」

「信用できない返答だな」

「失礼な。オレだって年に何度かは教師らしいことをする」

「その“何度か”が今日に当たるのかを聞いている」


 教頭が「朝から不穏な含みを持たせないでください!」と割って入る。

 だが吉乃は、コーヒーをすすりながら眠そうに言った。


「でも、ちょっとだけ遅かった気もするけどねぇ」

「吉乃先生」

「だって壊れる寸前まで待ってる人の顔してたし、湊くん」


 言い方が雑に鋭い。

 この人は普段だるそうなくせに、たまに核心だけ平気で踏むから嫌だ。


 オレは肩をすくめた。


「壊れる寸前まで待ったんじゃない。壊れ方を見てただけだ」

「同じことじゃないか」

「違うな。前者は罪悪感がある。後者は趣味が悪いだけだ」

「胸を張るな」


 直人の眉間の皺が深くなる。

 だが、それ以上は何も言わなかった。木曜日の件を、あの男なりに飲み込んだのだろう。あるいは飲み込めていないからこそ、今は黙るしかないのかもしれない。


 まあどっちでもいい。

 今日やることに、直人の理解も教頭の胃痛も大した意味はない。


 チャイムの少し前に職員室を出て、二年二組の前へ来る。


 静かだった。


 もう驚きはしない。

 この教室の静けさは、勉強熱心さの産物でも、教師への遠慮でもない。あらかじめ何かが決まっていて、それをわざわざ言葉にしないことだけが全員の共通了解になっている時の静けさだ。沈黙はしばしば平穏に見えるが、実際には合意された恐怖の別名であることが多い。


 ドアを開ける。


 やはり、全員が一度だけこちらを見て、すぐに逸らした。

 見事なまでの反射運動。もはや訓練された魚群である。水槽の外から指を叩けば一斉に身を翻し、何もなかったみたいな顔で元の位置へ戻る。人間が高等生物だという説には、毎朝この瞬間ごとに疑義が深まる。


「おはよう。今日も世界は特にマシになってないが、各自そこそこ生きろ」


 数人が小さく笑う。

 その笑いの薄さが、かえってこの教室らしい。面白いから笑うのではなく、笑っても目立たないと判断した時だけ笑う。そういう慎重さが全身へ染みついている。


 白金結愛はもう席についていた。

 ノートを開き、教科書を揃え、姿勢はまっすぐだ。きちんとしている。きちんとしすぎている、と言ってもいい。先週までの彼女が「整っていた」のだとすれば、今の彼女は「整え続けている」。崩れそうなものを両手で押さえながら、外形だけは保とうとしている人間の几帳面さだった。


 月峯瑠海は、その隣でいつもより静かだった。

 いや、もともと静かな子なのだが、その静けさの質が違う。目立たないようにしている静けさではなく、何かが起こる前の空気を測っている静けさだ。弱い人間ほど、爆発より前兆に敏感になる。


 後方では、早乙女の周辺だけがいつも通り明るかった。

 明るい、というより、そこだけ日常が先に許可されている感じだ。笑い声も、雑談も、ペンを放る仕草ひとつ取っても、あの一角だけは「ここにいていい側」の余裕でできている。


 相良が椅子を鳴らしながら、だるそうに足を投げ出した。

 質量がある。

 思想はなくても、こういう空間ではそれだけで十分役に立つ。群れが自分の正しさを信じたい時、たいてい最後に必要になるのは理屈ではなく腕力だ。


 一時間目、二時間目は何事もなく過ぎた。

 何事もなく、という表現は正確ではない。

 小さな視線はあった。

 誰かの発言に対する、半拍遅れの笑いもあった。

 白金がプリントを回す時、受け取る手が一瞬だけ遅れることもあった。

 だがそれらはどれも、小さすぎて事件にはならない。事件にならないという形のまま、じわじわ人を削っていく。それがこの教室のやり方だった。


 三時間目、倫理。


 オレが教室へ入った時には、もう空気の配置はだいたい決まっていた。


 白金が立っていた。


 教壇の前ではない。自分の席の横だ。

 だが立っているというだけで、この教室では十分に目立つ。全員が座っている中で一人だけ姿勢が縦へ伸びると、それだけで“何かを言う側”の輪郭が浮く。


「……だから、返して」


 声は強くなかった。

 それでも、はっきり聞こえた。


 相手は相良ではない。相良の前の席に座っていた男子だ。名前はどうでもいい。重要なのは、そいつが白金のプリントを指先でひらひらさせながら、返す素振りだけを何度か見せては引っ込めていることだった。


「返すって。そんな怒んなよ」

「怒ってない」

「いや顔こわ」

「白金さん、朝からピリピリしすぎじゃない?」

「もしかして先生の授業前だから真面目モード?」


 後方から早乙女の声が飛ぶ。

 笑っている。怒ってはいない。だからなおさら質が悪い。


 白金の指先が小さく震えていた。

 だが引かなかった。


「それ、今日使うから」

「使うって、まだ授業始まってないじゃん」

「始まる前に返してって言ってるの」


 正しい。

 見事なくらい正しい。

 そして、この教室では正しさはたいてい、そのままでは通貨にならない。両替が必要だ。空気という名の両替所を通して、「かわいげ」だの「言い方」だの「冗談を流す余裕」だのへ換金しない限り、正しさはすぐに硬貨のまま沈む。


「白金さん、そういう言い方だとまた怖いって」

「冗談通じない感じ、ちょっとしんどいかも」


 誰かが言う。

 誰かが笑う。

 その“誰か”でいられること自体が、この教室では安全圏の証明だった。


 月峯が、椅子の端を掴む。

 口を開きかけて、閉じた。

 今の彼女にはそれが精いっぱいだろう。そして、その精いっぱいが先週より半歩だけ前に出ていることを、オレは見ていた。


 白金がもう一度言う。


「返して」


 その時だった。


 相良が、あからさまに退屈そうな顔でプリントを横から奪い取り、ひらりと空中へ放った。


 紙が舞う。

 ひどく軽く、ひどく無責任に。


 白金が反射的に手を伸ばす。

 届かない。

 プリントは彼女の指先をすり抜けて、教壇のすぐ脇へ落ちた。


 小さな笑いが起こる。


 そこでようやく、オレは教卓へ歩いた。


 白金がしゃがみ込むより一瞬早く、足元へ落ちたプリントを拾い上げる。

 薄っぺらい一枚の紙だ。たかがプリント一枚。だが人間というのは、こういう“たかが”の積み重ねだけで、案外きれいに削れていく。


 オレは白金へそれを渡さなかった。


 代わりに、教卓の上へ置いた。


 教室の空気が、わずかに揺れる。

 全員がこちらを見る。

 今度は逸らさない。逸らせない。


 オレはチョークを一本取った。

 その白さが、妙に安っぽく見える。教師という商売の権威も、突き詰めればだいたいこの程度の棒切れでできている。


「席つけ」


 誰も動かなかった。


 だから、教卓を叩いた。


 乾いた大きな音が、教室を真っ二つに裂く。


 誰かが息を呑む。

 相良の目が細くなる。

 早乙女の笑顔が、ほんの一瞬だけ形を失う。


 その一瞬で十分だった。


 オレは黒板へ向き直り、白い粉を散らしながら、ひとつの単語を書いた。


 ルサンチマン


 教室の誰もが、その言葉を知らない顔で黙っていた。


 オレは振り返る。


「さて」


 チョークを置く。


「今日は、お前らみたいな連中にぴったりの話をしてやる」

 「ルサンチマン、だ」


 誰もメモを取らない。

 当然だ。倫理の用語としては聞いたことがあるやつもいるかもしれないが、今この教室の空気の中で、その単語が自分たちへ向けられていると即座に理解できるほど、こいつらはまだ素直じゃない。


 オレは教壇へ軽く腰を預けた。


「ニーチェって面倒くさい哲学者がいる。まあ、哲学者なんてだいたい全員面倒くさいが、その中でも特に嫌な笑い方をしそうな男だ。そいつが使った言葉でな――弱いやつが、自分の弱さを直視できないまま、強いやつや気に食わないやつに向けて、道徳とか常識とか正しさみたいな言葉をあとづけして恨みを正当化する、そのじめっとした精神のことを言う」


 数人の顔がわずかに曇る。

 完全には理解していない。だが、嫌な話が始まったことだけはわかる、という顔だ。


「簡単に言えばだ。自分で立てないやつほど、他人が転ぶ瞬間を見たがる」


 そこで教室を見渡す。


「笑うよな。安心するからだ。自分より下がいる、自分はまだマシだって思えるから。だから群れる。だから誰かが浮いた瞬間に、“ちょっとウザい”とか“空気悪い”とか、そういう便利な言葉でそいつを下へ押し戻す」


 後方の空気がわずかに張った。

 早乙女はまだ笑っていたが、その笑顔はもう余裕のためのものじゃない。表情を崩さないための笑顔だ。


「お前らは別に強者じゃない」


 オレは黒板の文字を、指の背で軽く叩いた。


「偉くもない。自由でもない。まして支配者でもない。ただ、自分が下に落ちるのが怖くて、先に誰かを沈めてるだけだ。水に浮かぶために、隣の人間の頭を押してる連中を“泳ぎが上手い”とは言わんだろ。だいたい溺れてる」


 小さな笑いが起きかけて、すぐ消えた。

 自分も含まれていると気づいた笑いは、たいてい途中で死ぬ。


「何かを嫌うのは自由だ。気に食わないやつがいるのも、まあ仕方ない。だが、その嫌悪を自分で引き受けられないから、“みんなそう思ってる”“空気読め”“普通こうだろ”って、教室全体を後ろ盾に使う」


 視線を相良へ向ける。

 あからさまに眉が動いた。


「そのくせ、自分では何も決めてない。責任も取らない。誰かが笑ったから笑う。誰かが目を逸らしたから逸らす。流れができたら乗る。そういうのを一般に“雑魚”って言うんだが、聖叡学園ではもっと上品な言い方があるのか?」


「……さっきから、誰に向かって言ってんだよ」


 相良が低く言った。


 怒鳴りはしない。

 その代わり、声に体重がある。机を蹴るより前に、空気へ“殴るぞ”と伝えるための声だ。


 オレは頷いた。


「良い質問だ。教師としては百点だな。誰に向かってるか、もうわかってるから聞き返してるんだろ」


「は?」


「安心しろ。お前一人の話じゃない。お前がそんな特別だったら、オレももう少し期待してやる」


 教室の何人かが息を呑む。

 相良の肩が、目に見えて強張った。


 だがオレはそこには踏み込まない。

 今ここで相良を一人の悪役へ仕立てるのは簡単だ。簡単だが、それをやるとこの教室は逆に救われる。“あいつが悪かった”という形に話を丸められるからだ。そんな安い出口を用意してやるほど、今日は親切じゃない。


 だから視線をずらし、今度は前列へ落とす。


「で、白金」


 結愛の肩が小さく揺れた。

 まっすぐ前を向いていた顔が、ほんの少しだけこちらへ向く。


「お前も同類だ」


 教室の空気が、今度は別の意味で裂けた。


 瑠海が息を止める音がした気がした。

 早乙女の目が、初めてはっきり細くなる。


 白金はすぐには何も言えなかった。

 たぶん殴られたのだと思っただろう。実際、その認識でだいたい合っている。


「お前は群れない。笑う側にも回らない。だから自分はあいつらと違うと思ってるかもしれん。実際、違う部分もある。少なくとも、他人を沈めて浮く趣味はない」


 そこで一拍置く。


「だが、ルールの後ろに隠れてる」


 結愛の唇がわずかに引き結ばれた。


「正しいことを言えば傷つかずに済むと思ってる。正しさの側に立っていれば、自分の怖さや怒りを見なくて済むと思ってる。だから“私は間違ってない”で踏みとどまる」


「……私は」


 ようやく出た声は、乾いていた。


「間違ってないことを言ってるだけです」


「そうだな。たいてい間違ってない」


 オレはあっさり頷く。


「だから厄介なんだよ。間違ってないことほど、逃げ道に使いやすい」


 結愛が言葉を失う。

 その沈黙は、さっきまで教室を支配していた種類の沈黙とは違った。外から押しつけられたものではなく、内側で何かがひび割れた時の静けさだ。


「お前は“正しいから言う”んじゃない」


 教室中が聞いている。

 聞いてしまっている。


「本当は怖いから言うんだ。ちゃんとしていない世界が、自分の足元まで崩れてくるのが怖い。だからルールを並べて境界線を引く。こっちは正しい、あっちは間違ってるって。そうしてないと、自分までぐらつくからだ」


「……違う」


 小さい声だった。

 だが、その否定にはわずかに感情が混ざっていた。


「違う、か」


 オレは肩をすくめた。


「なら別にそれでいい。人間、自分の本音なんぞ一生認めずに死ぬやつの方が多い」


 白金は机の端を握った。

 指先が白くなる。


 ここで慰めるのは簡単だ。

 だが、それでは駄目だ。今必要なのは救済じゃない。均衡を壊すことだ。誰も同じ顔で、自分の立っていた場所へ戻れなくすることだ。


 オレは教室全体へ向き直る。


「要するにだ。お前らは仲が悪いわけじゃない。もっと質が悪い。互いを利用して、自分をごまかしてるだけだ。群れに媚びるか、正しさに媚びるかの違いしかない」


 沈黙。


 長かった。

 だが、悪くない沈黙だった。少なくとも、これまでのように“何も言わないことで保たれていた静けさ”ではない。今のそれは、誰もが一度だけ自分の足場を見下ろしてしまったあとの静けさだ。


「……センセーさ」


 早乙女が、ようやく口を開いた。


 声は柔らかい。

 いつもの、角のない笑顔のまま。


「それ、教師が言うことなんですか?」


 上手い返しだ。

 正面から反発しない。あくまで常識の形を借りて、こちらの立ち位置を揺らしに来る。


「教師って、もうちょっと寄り添う感じじゃないの?」

「そういうテンプレを期待してるなら、相談室でも行け」

「ひどーい」


 くすくすと笑いが起きる。

 だが、今の笑いは薄い。前みたいに教室全体へ染みていかない。誰もが少しずつ、自分の笑い方に自信をなくしている。


 早乙女はそれでも笑顔を崩さなかった。


「でもさ、白金さんがちょっと浮いてるのって、別にみんなが意地悪だからっていうより、本人にも原因あるよね? 正しいこと言ってても、言い方とか空気とかあるじゃん」


「あるな」


 オレは即答した。


「だから言ってる。こいつもまた、自分の正しさに酔って他人を見下してた部分がある。お前らと違う形でな」


 結愛の肩がびくりと揺れる。

 早乙女の笑みが、ほんの少しだけ止まった。


「ただし、それはお前らの免罪符にはならん」


 声を落とす。


「嫌なやつを排除していい理由にはならんし、空気の後ろに隠れて人を削っていい理由にもならない。そこを混同するな。お前らは“白金にも悪いところがある”って事実を、ずいぶん便利に使ってる」

 早乙女はそこで初めて次の言葉を探した。

 探して、見つからなかった。

 いつもなら誰かが拾う“もっともらしい言い分”が、今日は教室のどこにも落ちていない。

 

 今度こそ、教室のどこからも笑いは起きなかった。


 相良が舌打ちした。

 露骨に、聞こえるように。


「くだらねえ」


「そうだな」


 オレは頷く。


「くだらない。高校生の教室でやることなんて、だいたい全部くだらない。だからこそ、それで人が壊れるのは胸糞悪い」


 相良が立ち上がる。

 椅子の脚が床を擦る鈍い音。

 教室の何人かが硬直した。


 だがその瞬間、オレは教卓の上のプリント束を指で揃えながら言った。


「続けるか?」

「……何をだよ」

「暴力。わかりやすくて助かるぞ。空気だの同調圧力だの、そういう面倒な話を全部すっ飛ばして、“ああ、こいつはただの腕力バカでした”で処理できる」


 相良の動きが止まる。


「それはそれで楽だ。お前も教室も、ずいぶん話が簡単になる」


 相良の顔が、微かに引き攣った。

 ここで机を蹴り飛ばせば、自分は「空気を支配する側」から「ただ感情を抑えられない問題児」へと転落する。群れの力学を本能で嗅ぎ取る彼には、その理屈が痛いほどわかったのだろう。腕力は、空気という後ろ盾があって初めて“威圧”として機能する。空気の枠組みから外れてしまえば、ただの惨めな暴力だ。


「……チッ」


 相良は椅子へ座り直した。

 叩きつけるみたいな動きだったが、結局それだけだ。


 オレは黒板を振り返った。

 白い文字がそこにある。


 ルサンチマン。


「で、授業の結論だ」


 わざとらしく教師っぽい口調で言う。

 こういう時だけ職業倫理を思い出すあたり、我ながら性格が悪い。


「お前らは自由じゃない。正しさも、空気も、どっちも自分で選んだような顔をしてるだけで、実際には怯えてしがみついてるだけだ。もしそこから出たいなら、まず自分が何に怯えてるかを認めろ。他人のせいにするな。群れのせいにも、ルールのせいにもするな」


 チョークを置く。


「以上。ホームルームよりは多少マシな授業だったろ」


 チャイムは、ちょうどそこで鳴った。


 妙なタイミングだった。

 まるで学校という装置そのものが、これ以上は面倒だから切り上げろとでも言っているみたいだった。教育はいつだって、核心へ届く寸前でベルに救われる。


 誰も立ち上がらない。


 白金はうつむいたままだった。

 月峯はそんな結愛を見て、見てしまってから、どうすればいいのかわからない顔で固まっていた。

 早乙女は笑っていない。

 相良は机へ肘をつき、露骨に不機嫌な顔で前を睨んでいる。


 いい傾向だ。

 少なくとも、いつも通りではなくなった。


 オレは出席簿を閉じた。


「今日のところは解散だ」


 誰も動かないので、仕方なく付け足す。


「安心しろ。別に今すぐ生まれ変われなんて言わん。人間そう簡単にマシになれたら、哲学者はもっと失業してる」


 そこでようやく、乾いた空気が少しだけ揺れた。

 笑いにはならない。だが沈黙の質が、一瞬だけ変わる。


 オレは教室を出た。


 廊下へ出ると、春先のぬるい空気がやけに軽く感じられた。

 人間が何十人も詰まった教室の方が、外より息苦しいというのは、よく考えるとだいぶ終わっている。


 背後の教室はまだ静かだった。

 だが、前までの静けさとは違う。均衡が保たれている時の静寂ではない。誰が先に何を言うか、誰が何も言わないままでいるか、その全部が以前より意味を持ってしまったあとの静けさだ。


 つまり、少しだけ面倒になった。


 それでいい。


 もともと、綺麗に救う気なんてなかったのだから。

 

     *


 教室のドアが閉まったあとも、しばらく誰も動かなかった。


 まるで、何かひどくまずいものが床へこぼれて、迂闊に足を出すと靴底にまで染みてきそうだ、とでも思っているみたいだった。


 最初に椅子を鳴らしたのは相良だった。

 苛立ちを隠す気もない音だったが、そのわりに立ち上がりはしない。舌打ちを一つ落として、頬杖をついたまま前を睨んでいる。


 早乙女は笑っていなかった。

 笑っていないという事実が、この教室ではかえって異様だった。

 いつもなら、こういう空気の時ほど彼女は柔らかく笑う。何でもない顔で、「やだ、何それ」「先生変なの」と場を丸めて、誰が悪いわけでもない温度へ落とし込む。

 だが今は、それをしなかった。


 いや、できなかったのかもしれない。


 白金結愛は、自分の席へ座ったまま、手元を見ていた。

 視線の先にはプリントがある。さっき先生が拾い、教卓へ置いた、あの一枚だ。

 たかがプリント。

 そのはずなのに、なぜか自分のものではないみたいだった。


 間違っていないことを言えばいい。

 委員長として、必要なことを伝えて、正しい手順を守って、きちんとしていればいい。

 ずっとそう思ってきた。

 そうしていれば、少なくとも自分の立つ場所は失わずに済むと思っていた。


 ――正しさの後ろに隠れてる。


 耳の奥で、さっきの言葉がもう一度鳴る。


 違う、とすぐに思う。

 思うのに、その“違う”が喉の奥で妙に軽かった。


「……結愛ちゃん」


 隣から、瑠海が小さく呼んだ。


 結愛は顔を上げる。


「……大丈夫?」


 ひどく普通の言葉だった。

 普通すぎて、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 大丈夫なわけがない。

 たぶん瑠海だって、それはわかっている。

 それでもそう聞くしかないのだ。


 わかっているのに、結愛は少しだけ苛立った。

 瑠海にではない。

 大丈夫かどうかを答えなければならない自分に。


「……平気」


 出た声は、自分でも驚くほど硬かった。


 瑠海がぴくりと肩を揺らす。

 傷つけた、と思う。

 思ったが、すぐには言い直せなかった。

 平気じゃない、と認めた瞬間、何かが本当に崩れてしまいそうだったからだ。


「……平気じゃなくても、いいよ」


 瑠海は言ってから、自分でも少し驚いたみたいに口をつぐんだ。


 結愛は返せなかった。

 その一言が、慰めより先に、逃げ道を塞ぐものみたいに思えてしまったからだ。


 後方で、誰かがわざとらしく笑った。


「さすがに説教長すぎじゃない?」

「てかルサ……何だっけ」

「知らない。意識高そう」


 乾いた笑いが、ぱらぱらと散る。

 いつものような一体感はない。誰かの軽口に、教室全体が自然に乗る感じでもない。

 けれど、そのまとまりきらなさが余計に居心地悪かった。崩れたあとに残る空気は、壊れる前よりしばしば扱いにくい。


 早乙女が、そこでようやく口を開いた。


「ま、でもさ」


 声はいつも通り柔らかかった。

 柔らかいが、どこか一拍遅れている。


「先生も結構ひどいこと言うよね。白金さんにまであそこまで言うとか、さすがに可哀想かも」


 その一言に、何人かが曖昧に頷いた。

 結愛は反射的に顔を上げる。


 可哀想。


 その言葉は、さっき先生に言われたことより、妙に胸へ刺さった。


 可哀想なのか、自分は。

 正しいことをしてきたつもりだった。少なくとも、そうしていれば自分を保てると信じていた。

 それが今、教室の中では“ちょっと可哀想な子”みたいな位置へ置き換えられようとしている。


「……別に」


 気づけば、口が動いていた。


 教室の視線が、一斉にこちらへ向く。

 その速さに、自分でも少し遅れて気づく。


「別に、可哀想とかじゃないから」


 言ってから、しまったと思った。

 こんなふうに反応するのは、まるで図星だったと認めるみたいだ。


 早乙女は一瞬だけ目を見開き、すぐに笑みを戻した。


「そっか。ならいいんだけど」

「……」

「ただ、先生の言い方ってちょっと極端だったよねって話。結愛ちゃんは真面目なだけじゃん」


 真面目なだけ。

 それは褒め言葉の顔をして、本人の中身を見ないときに便利な言葉だった。


「……真面目で、片づけないで」


 気づけば、そう言っていた。

 自分でも驚くほど小さい声だった。


 早乙女の笑みが、一瞬だけ止まる。


「え?」


 聞き返されて、結愛はそこで初めて、自分が何を言ったのかをちゃんと自覚した。

 けれど、続きはもう出てこなかった。


「……別に」


 結局そう言って、視線を落とす。

 何を言っても、今の自分の言葉はうまく着地しない気がした。


 やがて休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 その音で、みんな少しだけ救われた顔をした。

 授業と授業のあいだのベルは便利だ。会話の続きを切ってくれるし、沈黙の意味も薄めてくれる。


 けれど結愛には、その音がむしろ残酷に思えた。

 何も終わっていないのに、時間だけが次へ進んでいく。


     *


 昼休み。


 結愛は弁当箱を開いたまま、箸をほとんど動かせずにいた。

 いつもなら、食べるという行為にはある程度の救いがある。決まった手順で、決まったものを口へ運んでいる間だけは、少なくとも「どう振る舞うべきか」を考えなくて済む。

 だが今日は、その単純な動作すら妙に難しかった。


 周囲の会話は、いつも通りに聞こえた。

 そのいつも通りが、今日は妙に遠かった。


 ――怖いから言うんだ。


 先生の言葉が、また浮かぶ。

 腹が立つのに、否定しきれない。

 そのことが、いちばん苦しかった。


 箸を持つ手が止まる。


「……結愛ちゃん」


 また瑠海だった。

 今度は、朝よりさらにおずおずとした声だった。


「パン……いる?」


 見ると、瑠海は購買の袋を両手で持っていた。

 前にも似たようなことがあった気がする。たぶんこの子は、困った時に何か食べ物を差し出したくなるのだろう。慰め方がわからないから、とりあえず具体物へ逃げる。その不器用さが少しだけ瑠海らしい。


 結愛は、ほんの一瞬だけ笑いそうになった。

 笑いそうになって、でも結局うまく笑えなかった。


「……いらない。ごめん」

「あ、ううん。そっか」


 瑠海は慌てて袋を引っ込めた。

 その動きが、必要以上に小さかった。


 また、うまくできなかった。

 謝ろうとしても、言葉は喉の奥で止まった。


 正しい言葉はたくさん知っている。

 でも、こういう時に人を傷つけない言葉は、どうしてこんなに出てこないのだろう。


 後方から笑い声が聞こえた。

 早乙女たちの一角だ。

 内容は聞き取れない。ただ、その声の明るさだけが妙に遠い。


 結愛は弁当箱を閉じた。


「……ちょっと、外行ってくる」


「え、結愛ちゃん」


 瑠海の声を背中で聞きながら、立ち上がる。

 逃げた、と思った。

 けれど今は、それ以外の言い方が見つからなかった。


     *


 廊下は静かだった。

 昼休みの喧騒は階段の向こうから薄く聞こえてくるのに、このフロアだけ取り残されたみたいに温度が低い。


 窓際まで歩き、結愛は立ち止まった。

 校庭では、何人かが楽しそうにボールを蹴っている。遠くから見れば、平和な学校の昼休みだ。


 ガラスにうっすら映る自分の顔を見る。

 ひどく無表情だった。


 真面目。

 正しい。

 委員長らしい。

 怖い。


 いくつかの言葉が頭の中で並ぶ。

 どれも完全には違わない気がして、だからこそ息苦しかった。


「……何してんだ、お前」


 不意に後ろから声がして、結愛は肩を揺らした。


 振り返ると、神代先生がいた。

 紙パックのコーヒー牛乳を片手に、相変わらずやる気のない顔で立っている。


 どうしてここにいるのか、一瞬わからなかった。

 教師なのだから校内にいて当然だ。そんな当たり前のことすら、今の結愛にはうまく処理できなかった。


「……別に」

「便利な言葉だな、それ」

「……先生こそ、何ですか」

「昼休みに糖分を補給してる。人間、脳を使うと腹が減るからな。特に朝から柄にもなく説教すると消耗がひどい」


 その言い方に、結愛は少しだけ眉をひそめた。


「説教、ですか」

「授業と言ってもいいが、教育的配慮に欠けるのでどのみち職員会議では怒られそうだ」


 怒られそうだと言いながら、まったく困っていない声だった。

 結愛はその顔を見て、胸の奥がざらつくのを感じる。


「……どうして、あんなこと言ったんですか」


 問い詰めるつもりだった。

 責めたかったのかもしれない。

 なのに出てきた声は、思ったより弱かった。


 先生は紙パックへストローを差したまま、少しだけ首を傾ける。


「どれのことだ」

「……私が、ルールの後ろに隠れてるって」

「事実だからだ」

「っ……」


 即答だった。

 言いよどみも、気遣いもない。

 その雑さが腹立たしいのに、同時に、変にごまかされるよりずっと残酷だった。


「私は、ちゃんとしようとしてただけです」

「だろうな」

「それの、何が悪いんですか」

「悪いとは言ってない」

「でも先生は――」

「“それだけじゃない”とは言った」


 先生は窓の外を一瞥した。

 まるで結愛そのものより、校庭の向こうにいるサッカー部の方がまだ見応えがある、とでも言いたげな視線だった。

 その無関心さに、かえって結愛は苛立つ。


「ちゃんとしようとする人間は、大抵それなりの理由がある。怖いとか、不安だとか、乱れるのが嫌だとか。別に珍しい話じゃない」

「……」

「お前だけが特別に卑怯だとも思ってない。人間なんてだいたいそんなもんだ」


 さらりと言われて、結愛は言葉を失った。


 責められているのかと思った。

 暴かれているのかと思った。

 でも今の言い方は、それとも少し違う。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 気づけば、そう聞いていた。


 先生がこちらを見る。

 その目は少しだけ面倒そうで、少しだけ呆れていた。


「知らん」

「……は?」

「自分で考えろ。オレは答えを配る自販機じゃない」

「無責任です」

「教師に期待しすぎだ。失望がデカくなるぞ」


 結愛は唇を噛んだ。

 怒りたいのに、怒りきれない。

 この人は本当に無責任で、冷たくて、感じが悪い。なのに、綺麗な励ましをくれない代わりに、安い慰めもくれない。


「ただ」


 先生が言った。


「一つだけ言うなら、“正しいから立つ”って形は、もう一回壊れた」

「……」

「今日、あの教室でな」


 結愛の指先が小さく震える。


「だから次に立つ時は、前と同じ理由じゃ無理だ」

「……何ですか、それ」

「お前が一番聞きたくない話だろ」


 先生はそう言って、紙パックを軽く振った。

 中身がもう少ないらしく、鈍い音がした。


「じゃ、昼休み終わるぞ。委員長サマが廊下でサボってると、またクラスの風紀が乱れる」


 最後まで感じが悪い。

 それだけ言って、先生はさっさと歩き去る。


 結愛はその背中を見送った。

 追いかける気にはなれない。

 何を言えばいいのかもわからない。


 ただ、胸の奥に残ったものだけが、消えなかった。


 前と同じ理由じゃ無理だ。


 その言葉は、ひどく乱暴なのに、妙に正確だった。


 結愛は窓へ映る自分をもう一度見る。

 そこにいるのは、正しい委員長らしい顔をした誰かではなく、何を拠り所に立っていたのか、自分でも少しわからなくなり始めているただの女子生徒だった。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


 結愛はしばらくその場に立ち尽くしてから、ようやく教室へ戻るために足を動かした。

 教室へ戻るまでの廊下が、ひどく長く感じられた。


 昼休みが終われば、午後の授業が始まる。

 始まってしまえば、少なくとも“何をしていればいいか”は決まる。席について、教科書を開いて、ノートを取る。そういう決められた動作の中へ身を押し込んでいるあいだだけは、自分の中のぐらつきを誤魔化せるかもしれない。


 ――かもしれない、だけど。


 ドアを開けた瞬間、結愛はその期待が甘かったことを知った。


 誰かが露骨にこちらを見たわけじゃない。

 むしろその逆だった。

 教室にいた何人かは、結愛が入ってきたことに気づいても、妙に自然な顔で、自然すぎる手つきで視線を外した。見ていないふりがうまい。うまいからこそ、見られていたことがわかる。


 席へ着く。

 隣の瑠海が、何か言いたそうに一度だけこちらを見て、それから小さく視線を落とした。


 たぶん、気を遣っているのだろう。

 結愛はそのことに感謝しなければいけないと思った。

 思ったのに、どう返せばいいのかわからなかった。


 午後の授業は、やけに静かに進んだ。


 もともと二組は静かな教室だった。

 けれど今日の静けさは違っていた。今までは、誰が何を言っていいかが曖昧なまま固定されている静けさだった。今日は、いったん崩れたものをどう並べ直せばいいのか、誰にもわからないまま訪れている静けさだった。


 早乙女は明るく振る舞っていた。

 少なくとも外から見ればそう見えた。

 友達と雑談し、笑い、ペンをくるくる回し、時々さも退屈そうに窓の外を眺める。そのひとつひとつはいつも通りだ。

 けれど“いつも通りに見せようとしている”気配が、今日はわずかに滲んでいた。


 相良はあからさまに不機嫌だった。

 机へ頬杖をつき、何度か舌打ちし、教師が黒板へ向くたびに足を鳴らす。

 だが、それ以上は何もしない。


 その何もしなさが、かえって教室を息苦しくしていた。


 結愛は、授業の内容をほとんど頭へ入れられなかった。

 黒板の文字を写す。

 先生の説明を聞く。

 ノートの余白を埋める。

 手は動いているのに、思考がずっと別の場所に引っかかっている。


 ――正しさの後ろに隠れてる。


 何度も否定した。

 何度も腹を立てた。

 けれど、そのたびに、否定しきれない何かが胸の奥へ沈んでいく。


 自分は、ずっと正しいことをしてきたはずだ。

 クラスのために。

 ちゃんとするために。

 みんなが困らないように。


 でも、それだけじゃなかったのだとしたら。


 ちゃんとしていないものを見ていると、自分の足元まで揺らぐような気がして、だから止めずにはいられなかっただけだとしたら。


 そんなものは、正しさなんだろうか。


 五時間目の終わり、連絡事項のプリントが前から配られた。

 結愛はいつもの癖で、席順どおりに後ろへ回そうとする。

 その瞬間、自分の手がほんの少しだけ止まった。


 いつもなら、「後ろ回して」と言えば済む。

 それだけのことだ。

 だが、今日に限っては、その何でもない一言がやけに遠かった。


「……白金さん?」


 前の席の女子が、小さく振り返る。

 気づけばプリントを持ったまま止まっていたらしい。


「あ……ごめん」


 慌てて後ろへ渡す。

 それだけの動作なのに、背中がじっとり汗ばんでいた。


 後方から、誰かのひそかな笑い声がした。


 気のせいかもしれない。

 気のせいではないかもしれない。

 どちらかを確かめる勇気は、なかった。


     *


 放課後のホームルーム。


 いつもなら、結愛が日直の確認をし、提出物の締め切りを念押しし、委員会の連絡を伝える。

 そのくらいは、もう身体に染みついた役割だった。


 けれど今日は、立ち上がるまでに少し時間がかかった。


 たった数秒のことだ。

 それでも、この教室では十分に長い。


 椅子を引く音がやけに大きく響く。

 結愛は自分の喉が乾いているのを感じながら、プリントを見た。


「……えっと、面談の希望日程の提出があります。まだ出していない人は――」


 そこで、一拍だけ詰まった。


 以前なら気にならなかったはずの沈黙が、今日はそのまま教室の視線へ変わる気がした。


 ――ちゃんとしていない世界が怖いから。


 頭の中で勝手に先生の声がする。

 腹が立つ。今この瞬間にまで出てくるな、と心の中で悪態をつく。


「……今週中までに出してください」


 言い切った声は、自分で思ったより弱かった。


「はいはーい、了解でーす」


 早乙女が、後ろから軽い調子で手を挙げる。

 その声は明るい。からかいの色は薄い。少なくとも表向きには。


「委員長、今日はちょっと元気ないね」

「……別に」

「そっか。ならいいんだけど」


 またその言い方だ。

 踏み込んでいるようでいて、実際には何も触らない。

 優しそうに見せかけたまま、相手がどんな顔をするかだけを見ている。


 結愛は、それ以上何も言わなかった。

 言えば負ける気がしたし、言わなくてもすでに何かを失っている気がした。


 ホームルームが終わる。

 椅子の音、鞄のファスナー、友達同士の「帰ろ」の声。

 教室はいつも通りの放課後へ向かって動き出す。


 なのに、その“いつも通り”はどこか不自然で、まるで舞台装置みたいだった。


 結愛はゆっくりと荷物をまとめた。

 今日は誰よりも早く帰りたかったし、同時に誰よりも最後までここにいたくもあった。帰ってしまえば、この日のことを一人で抱えなければいけなくなるからだ。


「……結愛ちゃん」


 瑠海が、また小さく声をかけてくる。


「いっ、一緒に帰る?」


 言ってから、自分で驚いたみたいに目を見開いていた。

 たぶん相当勇気を出したのだろう。


 結愛はその顔を見て、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

 救われるような気持ちと、苦しくなるような気持ちが、同時に来る。


「……ごめん」


 少しだけ間を置いてから言う。


「今日は、一人で帰りたい」


 瑠海の表情が曇る。

 でも、すぐに小さく頷いた。


「う、うん。そっか……ごめん」

「謝らないで」

「あ、うん……」


 会話がそれで終わる。

 終わってしまう。


 本当は、もっと別の言い方がしたかった。

 ありがとうとか、気を遣わせてごめんとか、そういう、人間としてたぶん正しい返事を。

 でも今日の結愛には、それを口にするだけの余裕がなかった。


 鞄を持って立ち上がる。

 教室を出る直前、結愛は足を止めた。


「……でも」


 瑠海が顔を上げる。


「誘ってくれて、ありがとう」


 それだけ言って、今度こそ教室を出る。

 背後で、瑠海が少し驚いたように息を呑み、それから小さく「うん」と返した。


     *


 職員室へ戻ると、直人が露骨に嫌な顔をした。


「帰ってくるなりその顔か。人の心でも解剖してきたのか」

「教師が言う比喩じゃないな」

「お前にだけは言われたくない」


 開口一番それである。

 ずいぶん歓迎の気持ちがこもっていて結構なことだ。


 オレは適当に椅子へ腰を下ろし、机の上の出席簿を放った。

 向かいでは吉乃が、ペットボトルの無糖紅茶を片手に、半分死んだみたいな顔でこちらを見ている。


「……やったねぇ」

「何を」

「壊した」

「もともと壊れてた」

「壊れてるものを、見える形にしたって言い換えてもいいけど」


 言い方だけ整えても、中身はだいたい同じである。

 オレは欠伸を噛み殺した。


「で、説教なら今のうちに聞くぞ。残業代が出ない範囲でなら付き合ってやる」

「冗談じゃない」


 直人が吐き捨てるみたいに言った。


「説教で済む話なら、まだマシだ。お前、白金にまであそこまで言う必要があったのか」

「必要はあった」

「……っ」

「慰めて正義の被害者にして終わるなら、誰でもできる」


 直人の眉間が深く寄る。

 正しい怒りだと思う。たぶんこいつは、白金があの場でどれだけ傷ついたかを見て、それを教師として看過できないのだろう。

 まっとうな感性だ。

 まっとうすぎて、あの教室にはたぶん向いていない。


「結局、お前は白金まで傷つけただけじゃないか」

「そうだな」

「否定しないのか」

「事実だからな」


 オレは机へ肘をつき、指先でこめかみを軽く押した。


「だが、あいつが“自分は正しいからやられてるだけ”って場所へ居座ったままじゃ、あの教室ではずっと食い物にされる。早乙女の連中も、相良も、そして白金本人も、全員がその配置に甘えてた」


「だから壊した?」

「だから壊した」


 直人は何か言い返しかけて、結局黙った。

 納得したわけではない。ただ、簡単な善悪の話へ戻せないとわかっただけだろう。


 吉乃が、ふうと息を吐く。


「……でも、今日ので終わりじゃないよねぇ」

「むしろここからだろ」

「やっぱりそうなるよねぇ」

「他人事みたいに言うな。お前も同じ職場だぞ」

「嫌だなぁ……明日休みにならないかなぁ……」


 この人はこの人で一貫している。

 危機感がないわけではないのだろう。たぶん危機感を感じ続けるだけの燃料がもう残っていないのだ。


 そこへ、教頭が書類の束を抱えて戻ってきた。

 オレの顔を見るなり露骨に眉をしかめる。


「神代先生。今日は二年二組で何をしたのですか」

「授業」

「その一言で済むと思わないでください!! 廊下ですれ違った生徒が全員、妙に顔色を悪くしていたのですが!」

「教育の成果かもしれない」

「絶対に違います!!」


 さすがに耳が元気すぎる。

 この人の声量だけで校内の不穏が一時的に吹き飛びそうだが、残念ながら本質的な解決にはならない。大人の怒声は、思春期の空気より案外弱い。


「教頭」


 直人が低く口を挟んだ。


「今は騒いでも仕方ありません」

「しかし……!」

「仕方ありません」


 教頭はぐっと言葉を飲み込んだ。

 正確には、飲み込まされた。

 その顔には「ぜんぜん納得していない」が綺麗に書いてあったが、まあ職場なんてだいたいその程度の不満で回っている。


 オレは椅子の背に寄りかかった。

 天井の白さがやけに平坦に見える。


 終わったわけじゃない。

 もちろん、始まったとも言いがたい。

 ただ一つ確かなのは、今日の授業で二組の均衡は目に見えないところから一度崩れたということだ。


 早乙女たちは、もう前みたいには笑えない。

 相良は、自分が空気の外から見られたことを知った。

 白金は、自分の正しさだけでは立てないと突きつけられた。

 月峯は、壊れたあとの教室を見てしまった。


 誰も救われていない。

 綺麗な結論もない。

 ただ、全員が少しずつ前より居心地悪くなった。


 それで十分だった。


     *


 窓の外は、もう夕方の色に沈み始めていた。


 渡り廊下を歩きながら、オレはなんとなく二年二組の教室を横目に見た。

 中にはもう誰もいない。

 机と椅子だけが整然と並んで、昼間のざらつきが嘘みたいに静かだった。


 だが、その静けさは空っぽじゃない。

 人がいなくなったあとにも、教室にはその日の空気が少しだけ残る。笑い方。黙り方。誰がどの瞬間に目を逸らしたか。そういう取るに足らない痕跡が、薄く澱んで居座る。


 明日になれば、あいつらはまたここへ来る。

 いつも通りの顔をして座るだろう。

 何もなかったふりをするかもしれないし、逆にぎこちない優しさで誤魔化そうとするかもしれない。


 だが、もう前と同じには戻れない。


 白金結愛は、あの教室の中で一度、自分の拠って立つものにひびが入る音を聞いた。

 それはたぶん、早乙女に笑われることよりずっと深く残る。


 オレは教室の前で足を止めることもなく、そのまま通り過ぎた。


 救うつもりは、まだない。


 ただ――壊れたものが、どういう形で次に立ち上がるのか。

 少しだけ、その続きを見たくなっていた。

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