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8話  『震える勇気』

 金曜日の朝、月峯瑠海は目覚ましが鳴るより少しだけ早く目を開けた。


 起きなければ、と思う。

 けれど、布団の中へ沈んだ身体はすぐには動かなかった。天井の染みを見て、カーテンの隙間から差し込む薄い光を見て、それからようやく、今日も学校があるのだという当たり前の事実を、少し遅れて飲み込む。


 学校に行きたくない、というほどではない。

 そう思っているつもりだった。

 授業が嫌いなわけじゃない。先生が怖いわけでもない。クラス全員が自分を嫌っているとも思っていない。

 ただ、二年二組の教室へ入る直前だけ、どうしても喉の奥に小さな石みたいなものが詰まる。

 それが何なのかを、瑠海はうまく言葉にできなかった。


 洗面所で顔を洗う。

 鏡に映る自分は、いつも通り頼りなかった。目元が少しだけ重い。寝不足というほどではないが、昨日の夕方、白金結愛と別れたあとの沈黙が、寝る直前まで頭のどこかに残っていたせいかもしれない。


 やめなよ。


 昨日、自分はたしかにそう言った。

 言ってしまった、という方が正しいのかもしれない。

 あの時は、ただ見ていられなかったのだ。結愛が笑われて、それでも真っ直ぐ立っていて、その横で自分だけが黙っていることが、急にたまらなく嫌になった。


 けれど、結果はあの通りだった。

 止めるどころか、自分まで笑いの方へ引きずり出されかけた。

 しかも結局、結愛にまで「もういい」と言わせてしまった。


 情けない、と思う。

 情けないのに、それでも昨日の自分を全部間違いだとは言い切れない。その曖昧さが、瑠海にはいちばん苦しかった。


     *

 

 家を出る。

 駅までの道は、朝の通勤通学の流れに埋もれている。制服姿の生徒たち、疲れた顔の会社員、信号待ちの自転車。誰も自分のことなんて見ていないのに、人の流れへ紛れているあいだだけは少し安心できた。

 一人じゃないから、というより、誰の輪郭も濃くないからだろう。


 校門をくぐる頃には、もう胸の中の石は少し大きくなっていた。


 教室の前まで来て、瑠海は一瞬だけ足を止めた。

 中から聞こえるのは、いつもの朝の声だ。机を引く音。誰かが笑う声。窓の開閉。どれも普通で、どれもありふれている。

 なのに、それを聞いているだけで、今日の空気がどういう温度なのかを考えてしまう自分がいた。


 昨日のことは、もう終わったことになっているだろうか。

 それとも、まだ続いているのだろうか。


 たぶん、両方なのだろう。

 この教室では、何かが起きても翌日にはもう“日常”へ織り込まれている。終わったことの顔をしながら、ちゃんと残り続ける。そういうやり方で空気は人へ染み込んでいく。


 瑠海は小さく息を吸ってから、教室の扉を開けた。


 視線が一瞬だけこちらへ向いて、すぐに散る。

 それだけで少しだけ肩がこわばる。

 自意識過剰だと、自分でも思う。

 だが、目立たないように生きようとする人間ほど、こういう一瞬に敏感になる。


 結愛はもう来ていた。

 席について、ノートを開いている。机の上は整っている。背筋もまっすぐだ。見た目だけなら昨日までと何も変わらない。

 けれど瑠海には、その“いつも通り”に少しだけ力が入っているのがわかった。

 崩れないようにしている。そう見えてしまった。


「……おはよう」


 できるだけ自然に聞こえるよう、瑠海は声をかけた。


 結愛が顔を上げる。


「おはよう」


 返ってきた声は、昨日よりは落ち着いているようにも聞こえた。

 聞こえたが、それだけだった。本当に平気なのかどうかは、相変わらずよくわからない。結愛は大丈夫じゃない時ほど、ちゃんとした声で「大丈夫」と言いそうな子だからだ。


 瑠海は席に着き、鞄から教科書を出した。

 何か話した方がいい気がする。けれど、何を話せばいいのかはわからない。

 昨日のことに触れれば、また結愛を困らせるかもしれない。触れなければ触れないで、自分だけが逃げているみたいで嫌だった。


「……今日、数学あるね」


 結局、口から出たのはそんな言葉だった。


 自分でも、なんてどうでもいい話だろうと思う。


 結愛は一瞬だけきょとんとしてから、小さく頷いた。


「あるね」

「先生、昨日、テスト範囲やるって言ってたから……」

「うん。たぶん小テストも近いし」

「……そっか」


 会話はそこで切れた。

 それでも、完全な失敗というほどではなかった。結愛の声が、少しだけ普段の調子へ近づいた気がしたからだ。

 瑠海はそれだけで、少しだけほっとする。

 そして、そういう自分の小ささにもまたうんざりする。

 たった一言、普通に返してもらえただけで安心してしまう。自分は本当に、あまりに弱い。


 後方で、早乙女の笑い声がした。


 別に大きいわけではない。

 明るく、軽く、ただ楽しそうなだけの声だ。教室のどこにでもありそうな女子の笑い声。

 それでも瑠海は、反射みたいにそちらを見そうになって、途中でやめた。


 見たくない。

 見れば、自分が何を怖がっているのかを自分で認めることになる。

 だから視線は教科書へ落としたままにする。

 それでも耳だけは、どうしても後ろを気にしてしまう。


 チャイムが鳴り、神代湊が教室へ入ってきた。

 いつも通り、教師にしては覇気がなく、学生にしては少しだけ疲れた顔で。


「おはよう。今日も世界は特に改善されてないが、まあ各自なんとかしろ」


 数人が小さく笑う。

 瑠海も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 こういう時だけ、先生のどうでもよさはありがたかった。何かをよくしようと張り切られるより、ずっと息がしやすい。


     *

 

 一時間目、二時間目。黒板の字を写し、教師の声を追い、ノートを取る。身体はちゃんと動く。だが、意識のどこかはずっと結愛の方に引っ張られていた。

 結愛は普段通りに見えた。授業を受け、ノートも取っている。

 昨日のことなんて最初からなかったみたいに見えるくらいには。


 けれど、それがかえって苦しかった。

 無理をしているのかもしれない、と思う。

 でもその無理を、どうやって支えればいいのかはわからない。


 三時間目の終わり、休み時間に入ったところで、瑠海は消しゴムを落とした。

 ころり、と机の脚に当たって転がる。

 しゃがんで拾おうとした時、ふと、前の席の足元に見慣れないものが見えた。


 白金結愛のノートだった。


 床に落ちている。

 しかも、ただ落ちたというより、机の脚へ半分引っかかるみたいな位置に押し込まれている。

 結愛は気づいていない。席を外しているのか、それとも教卓の方へ何かを取りに行っているのか、今は姿が見えなかった。


 瑠海は消しゴムを拾ったまま、そのノートを見た。

 見て、胸の奥がひやりとした。


 偶然かもしれない。

 ただ落ちただけかもしれない。

 でも、そう思い込もうとする自分の方が、たぶんずっと不自然だった。


 早乙女の一角で、誰かが小さく笑った。


 瑠海はそちらを見ない。

 見ないまま、結愛のノートへ手を伸ばしかける。


 その指先が、途中で止まった。


 ここで拾えばいい。

 拾って机へ戻せば、それだけの話だ。

 それだけなのに、瑠海の頭の中ではいくつもの考えが一瞬で巡った。


 もし誰かが見ていたら。

 もし自分がそれを拾ったことで、「ああ、また月峯が白金側についた」と思われたら。


 情けない。

 拾うだけなのに、すぐにはできない自分が嫌だった。


 結局、瑠海がノートを拾ったのは、結愛が教室へ戻ってくる直前だった。

 慌てて机の中へ入れる。

 間に合った。間に合ったが、その“ぎりぎりまで迷った”ことの方が、胸の中に嫌な形で残った。


「……あれ、私のノート」


 戻ってきた結愛が、机の中を見て少し首を傾げる。


「さっき、床に落ちてたから……」

「そっか。気づかなかった。ありがと」


 結愛は自然に笑おうとして、少しだけ失敗した。

 それでも、ありがとうと言った。


 瑠海は「ううん」と首を振るしかない。


 本当は言いたかった。

 落ちてた、じゃなくて、たぶん誰かがやったんだと思う、と。

 でも、それを口にした瞬間、何もかもが現実になる気がして言えなかった。


 結愛も、それ以上は聞かなかった。

 聞かないのは、たぶん気づいていないからではない。

 気づいているけれど、まだ偶然だと思いたいからだろう。


 授業再開のチャイムが鳴る。


 教師が入ってきて、教室はまた何もなかった顔へ戻る。

 ノートは机の中にある。結愛は席につく。早乙女の周りでは、もう別の話題が始まっている。

 それで終わりだ。

 少なくとも表面上は。


 だが瑠海には、その小さな一件が、昨日よりもさらに嫌な段階へ入った合図のように思えた。


 笑うだけでは済まなくなってきている。

 目に見えるほどではない。露骨でもない。けれど、誰かの持ち物が少しずれる、その程度の小ささで、確実に結愛の足場を削り始めている。


 そして、自分はそれを見た。

 見たのに、すぐには動けなかった。


 その事実が、授業中ずっと喉の奥に引っかかっていた。


 数学教師の声は、黒板へ向かって真っ直ぐに飛んでいく。

 公式を書き、例題を解き、途中で二度ほど「ここ大事だからな」と念を押す。教室の前半分は一応それを聞いている顔をしていて、後ろ半分は聞いている顔だけをしていた。

 瑠海もノートは取っていた。

 取っていたが、手元の数字はところどころ歪んでいた。二次方程式の係数を一つ書き間違え、消して、また書き直す。そんな小さなミスが三回続いたあたりで、さすがに自分でもまずいと気づいた。


 落ち着け、と心の中で言う。

 落ち着いているつもりなのに、神経だけがずっと机の外側に出たままだった。


 前の席の結愛は、授業中ほとんど振り向かなかった。

 たぶん、気づいているのだろうと思う。

 ノートが床に落ちていたこと。

 それがただ落ちたのではないかもしれないこと。

 そして、自分がそれをわざわざ言葉にしなかったこと。


 でも、結愛は聞かなかった。

 聞かないことで、今はまだ偶然の顔を残している。

 その気持ちも、瑠海にはわかった。


 わかったからこそ、余計につらい。


     *

 

 昼休み、瑠海はいつものように購買へ行くふりをして、教室を少しだけ早く出た。

 ふり、というのは、実際にパンは買うのだが、本当の目的は別にあるからだ。教室の中にいると、どうしても空気の流れを考えてしまう。外へ出てしまえば、少なくとも一時的には誰がどこで笑っているかを気にしなくて済む。


 購買の前にはすでに列ができていた。

 惣菜パンと甘いパンのどちらにするか迷いながら並ぶ。そんなことをしているあいだだけは、頭の中が少し単純になる。

 けれど、パンを受け取って教室へ戻る途中で、また胸の中の石は元の場所へ戻ってきた。


 ドアの前で一度、足が止まる。


 中から、笑い声が聞こえた。

 早乙女たちの声だ、とすぐにわかる。明るくて、軽くて、何の責任もなさそうな笑い方だから。

 その笑いの中に、自分や結愛の名前が混ざっているかどうかまではわからない。

 わからないのに、わからないこと自体が怖い。


 瑠海は小さく息を吸って、教室へ入った。


 入った瞬間、何人かの視線がこちらを向いて、また逸れた。

 それだけだ。

 それだけなのに、教室の空気が少しだけ柔らかく揺れた気がした。


 結愛は席にいなかった。

 たぶん先生へ何かを取りに行っているのだろう。机の上にはノートと教科書だけが置かれている。


 そして、そのノートの上に、細く折られた付箋が一枚、乗っていた。


 黄色い、どこにでもある付箋だった。

 なのに、それがひどく不吉に見えた。


 瑠海はその場で固まった。

 見て見ぬふりをすることもできた。結愛が戻るまで待つこともできた。実際、昨日までの自分ならそうしていただろう。

 でも今日は、さっきのノートの件がまだ喉に刺さったままだった。


 誰かに見られている気がした。

 見られていなくても、そう感じた。

 それでも瑠海は、そっと結愛の机へ近づいた。


 付箋を裏返す。


 そこには、丸っこい字で一言だけ書かれていた。


 ――こわい


 たったそれだけだった。


 けれど、その一言が、瑠海には妙にぞっとした。


 悪口ですらない。

 死ね、とか、うざい、とか、もっと直接的な言葉なら、まだ単純だったかもしれない。

 でも「こわい」は違う。

 それは相手を責めているようでいて、自分を被害者の位置へ置ける言葉だ。

 だから反論しづらい。

 しかも結愛にとって、いまいちばん効く言葉のひとつだということを、たぶん書いた側はわかっている。


 瑠海は指先が冷たくなるのを感じた。


 捨てようか、と思う。

 すぐに捨ててしまえばいい。見なかったことにして、なかったことにしてしまえば、少なくとも結愛はこれを見ずに済む。


 でも、本当にそれでいいのだろうか。

 捨てたら終わるのだろうか。

 いや、終わらない。こういうものは、捨ててもまた別の形で現れるだけだ。


 だったら結愛に見せるべきなのか。

 でも見せたら、たぶん傷つく。


 結局どちらも選べなくて、瑠海は付箋を握ったまま立ち尽くした。


「……何してるの?」


 背後から声がして、瑠海の肩が跳ねた。


 振り向くと、結愛が立っていた。

 いつからそこにいたのかわからない。たぶん、声をかける前の数秒くらいは、瑠海の背中を見ていたのだろう。


「え、あ、その……」


 瑠海の手の中の付箋へ、結愛の視線が落ちる。


 黙っていても隠せない。

 瑠海はゆっくりと手を開いた。


 結愛は付箋を受け取り、そこに書かれた文字を見た。

 表情は、ほとんど動かなかった。

 動かなかったが、だからこそ瑠海にはわかった。ああ、ちゃんと刺さっているのだと。


「……誰が」


 小さな声だった。


「わ、わかんない……気づいたら置いてあって……」

「そう」


 結愛は付箋を指でつまんだまま、しばらくそれを見ていた。

 それから、くしゃり、と握りつぶす。


 その動作は乱暴ではなかった。

 乱暴ではないのに、瑠海にはその丁寧さの方がずっと痛かった。


「捨てとくね」


 結愛はそう言った。


 それだけ言って、机の横の小さなゴミ箱へ付箋を落とす。

 軽い音がした。たったそれだけの音なのに、教室のどこかで誰かが一瞬だけこちらを見た気がした。


 瑠海は唇を噛んだ。


「……ごめん」

「なんで瑠海ちゃんが謝るの」

「だって、私、見つけたのに……どうしたらいいかわかんなくて」

「……私だってわかんないよ」


 その返しは、あまりに小さかった。

 でも瑠海には、その一言の方が、昨日や今日のどの場面よりもこたえた。


 結愛はいつも、わからなくてもわかっている顔をする。

 正しいことを言う時も、委員の仕事をする時も、教室の空気に押されている時でさえ、どこかで“ちゃんとしよう”としている。

 その結愛が、今、わからないと言った。


 だからこそ、本当にわからないのだと思った。


 瑠海は何か言おうとして、結局うまく言葉が出なかった。


 大丈夫、なんて言えない。

 大丈夫じゃないのがわかっているから。

 でも、つらいね、も違う気がした。そんなふうに名前をつけた瞬間、余計につらくなりそうだった。


 結局、二人とも黙った。


 昼休みのざわめきだけが、少し離れた場所で続いている。

 教室の中心では、早乙女の周りがいつも通り笑っていた。何の変化もない、出来のいい昼休みの顔で。


 それが瑠海には、急に耐えがたく思えた。


 何もなかったことにしたまま、笑っていられる。

 そのこと自体が、昨日よりもずっと怖かった。


     *


 午後の授業も、瑠海はほとんど上の空だった。


 教師の声は聞こえる。

 黒板も見えている。

 けれど頭の中ではずっと、あの黄色い付箋の文字が反復していた。


 ――こわい


 誰が怖いのだろう。

 結愛が?

 空気を悪くする結愛が?

 それとも、本当はこの教室そのものが怖いのに、それを誰か一人の顔へ貼りつけて楽になろうとしているだけなのだろうか。


 そう考えた瞬間、瑠海は自分でも驚くほど強く、早乙女たちの方を睨みそうになった。

 慌てて目を逸らす。

 そんなことをしたら終わりだ、と身体の方が先に知っている。


 放課後が近づく頃には、瑠海の中で一つの感覚だけがはっきりしていた。


 このままじゃ駄目だ。


 何が駄目なのか、どうすればいいのかはわからない。

 でも少なくとも、自分はもう「見ているだけ」の場所へ戻れないところまで来てしまっている。

 昨日はノート。

 今日は付箋。

 この次が何になるのかを想像した時、胸の奥が冷たくなった。


 六時間目が終わり、帰りのホームルームが始まる。

 結愛は今日も立った。

 声は少しだけ固いが、最後まで言い切った。未提出の確認も、委員会の連絡も、逃げずにやった。

 教室は相変わらず静かだった。

 静かなまま、何人かが笑いを含んだ視線を交わす。

 それだけで、もう十分だった。


 ホームルームが終わる。

 椅子が引かれ、鞄が持ち上がり、教室はいつもの放課後へ切り替わっていく。


 結愛は日誌を書き始めた。

 早乙女たちはまだ残っている。

 その周りには取り巻きがいて、相良は窓際でだるそうにスマホを見ている。

 全部、いつも通りだ。


 なのに瑠海だけが、今にも何かが起きる気がして落ち着かなかった。


 結愛の机の上には、さっき使っていたシャープペンケースが置かれている。

 薄い水色の、使い込まれた布製のものだ。結愛らしい、余計な装飾のない筆箱。


 早乙女の取り巻きの一人が、通りすがりみたいな自然さでその横を通った。


 次の瞬間、ペンケースが床へ落ちた。


 中身が散らばる。

 シャープペン、定規、消しゴム、蛍光ペン。

 派手な音ではない。けれど、瑠海にはその音がひどく大きく聞こえた。


「あっ、ごめん」


 女子生徒が言う。

 笑ってはいない。謝っているようにしか見えない顔だ。

 だから余計に質が悪い。


「……いいよ」


 結愛がすぐにしゃがみ込む。

 その声は驚くほど平坦だった。たぶん、こういう時のために平坦でいようとしている。

 でも瑠海には、その平坦さの下にある疲れが見えてしまった。


 誰かが一本、転がったシャープペンを靴先で止める。

 止めてから、「あ、ごめん」と言って拾い上げる。

 また別の誰かが「大丈夫?」と笑う。


 大丈夫なわけがない。


 瑠海は立ち上がった。

 自分でも、何をするつもりなのかわからないまま。


「……やめて」


 声は、思ったより小さかった。


 誰にも届かないかもしれないと思った。

 でも、届いてしまった。


 早乙女がゆっくり振り向く。

 取り巻きたちの動きも、一瞬だけ止まる。

 結愛まで顔を上げた。


 瑠海は、そこで初めて、自分が本当に前へ出てしまったのだと理解した。


 理解した瞬間、足の裏から冷たいものが一気に這い上がってくる。

 逃げたい、と思った。

 いまの一言をなかったことにして、座って、俯いて、何も聞こえなかった顔ができたらどれだけ楽だろうとも思った。

 けれど、もう遅かった。


 早乙女が、ゆっくりと首を傾げる。


「……やめて、って?」


 声は柔らかい。

 問い返しているだけの、何の棘もなさそうな声だ。

 だが、こういう時の問いはだいたい相手を逃がさないためにある。怒鳴る必要がないのだ。怒鳴らなくても、全員が今、何に注目すればいいのかはもうわかっている。


 瑠海は喉を鳴らした。

 言い直さなければと思う。さっきよりもう少しはっきり。せめて、自分で言ったことくらいは自分で引き取らなければ。

 そう思うのに、口の中が乾いてうまく動かない。


「……その、わざとじゃないなら、もう……」


 何を言っているのだろう、と自分で思った。

 やめて、の続きがそれなのか。

 わざとじゃないなら、もう。

 そんな曖昧な言葉で、何を止められるというのだろう。


 案の定、取り巻きの一人がくすりと笑った。


「え、月峯、かわい」

「なんかテンパってる」

「やば、こっちの方が空気悪くなってない?」


 笑いが、薄く広がる。

 薄くて、軽くて、だからこそどこまでが冗談でどこからが排除なのか判別しづらい。

 瑠海はその笑いの中で、自分の肩がみっともないほど小さくなっていくのを感じた。


 結愛が床へ落ちたペンを一本拾い上げる。


「……瑠海は関係ないから」


 今度の声は、さっきよりずっと低かった。

 低かったが、その低さは結愛の内側に溜まっていた疲れの温度そのままみたいで、聞いている瑠海の方が苦しくなる。


 早乙女は目を丸くした。


「え、責めてないって」

「だったら、もう終わりでいい」

「だからそう言ってるじゃん」


 そこで、早乙女は少しだけ笑みを深くした。


「白金さんって、ほんとすぐ“守る側”に回るよね」


 その一言に、教室の空気がまたひどく静かになる。


 守る側。


 それは褒め言葉ではなかった。

 『勝手に正しい位置へ立って、人のことまで背負おうとする面倒な人』という響きだった。


 結愛の手が、拾い上げたシャープペンを少しだけ強く握る。


「……別に、そんなつもりじゃ」

「うん。白金さんはいつも、そういうつもりじゃないんだよね」

「それなのに結果だけすごい、みたいな」

「わかる」


 誰かが笑う。

 誰かが頷く。

 たったそれだけで、いまこの場の正解がどちら側にあるのかは、嫌になるほど明白だった。


 瑠海は、自分の中で何かがまたきしむのを感じた。

 違う。そうじゃない。結愛はそんなつもりで言っているんじゃない。

 言いたいことはあるのに、喉まで来た言葉はまたもや形にならない。

 さっきの「やめて」だって、本当はもっと別の意味だったはずなのに。


 その時だった。


 教壇の方で、ぱたり、と本を閉じる音がした。


 大きな音ではない。

 それなのに妙に教室へ響いたのは、ほかが静かだったからだろう。


 神代先生が、教卓に肘をついたままこちらを見ていた。


「……お前ら」


 気の抜けた声だった。

 怒鳴るでもなく、叱るでもなく、ただ面倒くさそうに口を開く。


「放課後まで残って、ペン一本で集団劇やるの好きだな」


 一瞬だけ、誰も反応しなかった。

 次の瞬間、相良が吹き出した。


「集団劇って何だよ」

「見たまんまだろ。道具は筆箱、演目は“誰も悪くないのに何か空気が悪い”だ。前衛芸術か」


 教室のあちこちで笑いが起きる。

 大きくはない。だが、さっきまでの張りつめた線が少しだけ緩む程度には十分だった。


 早乙女が肩をすくめる。


「先生、言い方」

「わかりにくい比喩を使うのが仕事なんでね」


 先生はそう言ってから、結愛の足元を顎で示した。


「白金。拾い終わったなら帰れ。月峯もだ。帰り支度が遅いと人生全般がだるくなる」


 それは助けでも庇いでもない。

 ただ、もうここで打ち切るための雑な口実だった。

 雑で、乱暴で、教師としてはたぶん褒められたものではない。けれどその雑さだけが、瑠海にはありがたかった。

 誰も守られた顔をしなくて済むからだ。


 結愛は一瞬だけ先生を見た。

 何か言いたそうな目だったが、結局何も言わずに散らばった文具を鞄へしまう。

 瑠海も慌てて自分の鞄を掴んだ。


 早乙女はもう笑っていた。

 こちらへ向けた笑いではない。隣の子へ何かを言って、普通の放課後へ戻っていく時の笑いだ。

 それがかえって恐ろしかった。

 たった今のことが、もうこの子たちの中では“済んだこと”へ戻されている。


 瑠海は、結愛の少し後ろを歩いて教室を出た。

 廊下へ出て、数歩進んで、それでもなお背中のあたりが熱い。

 誰かに見られている気がした。

 たぶん気のせいだ。気のせいかもしれない。けれど、こういう時の気のせいほど人を削るものもない。


「……ごめん」


 また、それだった。

 瑠海の口から出るのは、いつもその言葉ばかりだ。


 結愛は足を止めなかった。


「何に対して?」

「さっき、変なふうに……」

「変なふうにしたの、私の方でしょ」


 声は平坦だった。

 平坦だが、疲れているのがわかる。


「瑠海ちゃん、もうああいう時に無理しなくていいから」

「……でも」

「でもじゃなくて」


 そこで結愛は、ようやく足を止めた。

 振り向く。

 表情はきつくない。きつくないが、そのぶん余計に追いつめられているのがわかった。


 「私は、自分で何とかするから」


 その言葉に、瑠海は息を詰まらせた。


 何とかできていないから、いまこうなっているのではないか。

 そう思う。

 思うのに、そんなことを言えるはずもない。


「……うん」


 瑠海は頷くしかなかった。

 頷いたあとで、自分の返事があまりに情けなくて泣きそうになった。


 結愛も、それ以上は何も言わない。

 二人のあいだに落ちた沈黙は、昨日よりさらに細くて、触れれば切れそうだった。


     *


 昇降口の前で別れたあと、瑠海はすぐには帰れなかった。


 下駄箱の前で立ち尽くし、靴へ履き替えたまま、しばらく動けない。

 このまま家へ帰れば、たぶん何事もなかったみたいに夜が来る。夕飯を食べて、お風呂に入って、宿題をして、寝る。

 でも、その“何事もなかったみたいに”が、今日はどうしても耐えられない気がした。


 結愛のノート。

 黄色い付箋。

 床へ落ちたペンケース。

 自分の「やめて」。

 その全部が、頭の中で同じ重さのまま沈んでいかない。


 どうすればいいのかわからない。

 誰に何を言えばいいのかもわからない。

 それでも、何もしないままでいることだけは、もう駄目な気がした。

 

 真正面から結愛を支えようとしても、たぶんまた違う。

 だったら、見えないところで動くしかないのかもしれなかった。

 

 その時、ふと神代湊の顔が頭に浮かんだ。


 最悪だ、と思う。

 もっと頼りになりそうな大人はいくらでもいるはずだ。榊原先生でもいいし、山田先生でもいい。少なくとも、あの男よりは教師らしい人間はいそうなものだ。

 なのに、最初に浮かんだのは神代先生だった。


 たぶん、あの人は見ているからだ。

 見ているくせに何もしない。

 何もしないくせに、何が起きているのかだけはちゃんとわかっている顔をしている。

 腹が立つ。

 腹が立つが、だからこそ、今はあの人しか思いつかなかった。


 瑠海は踵を返した。


 校舎の中へ戻る。

 放課後の廊下は、昼間とは別の静けさをしていた。教室から漏れる部活勧誘の声、遠くのグラウンドから聞こえる掛け声、吹奏楽部の音合わせ。どれも少し遠い。

 階段を上がり、職員室の前まで来る。

 けれど、そこで足が止まった。


 職員室に入って「助けてください」と言うのか。

 誰に向かって。

 何をどう説明して。

 その瞬間、自分の口から出る言葉の全部が急に子どもっぽく思えて、瑠海は唇を噛んだ。


 だめだ。

 ここじゃない。


 少し迷ってから、瑠海は非常階段の方へ向かった。


 あそこなら人が少ない。

 誰かに聞かれずに済む。

 それはたぶん本当だった。


 でも、理由はそれだけじゃなかった。


 自分でもはっきり認めたくはなかったけれど、瑠海はたぶん、あそこへ行けば神代先生がいるかもしれないと思っていた。

 いつもいるわけじゃない。けれど、あの人は職員室より、ああいう校舎の端の方が似合う。

 ちゃんと探したわけでもないくせに、そういう曖昧な当てだけはあった。


 非常階段の踊り場には、夕方の風が少しだけ吹き込んでいた。

 鉄の手すりは冷たく、コンクリートの壁には昼の熱がまだわずかに残っている。

 そこに、神代湊は本当にいた。


 階段の途中に腰を下ろし、文庫本を片手に、缶コーヒーを膝の横へ置いている。

 まるで最初からそういう背景の一部だったみたいに、だるそうに座っていた。


 瑠海は思わず立ち止まった。

 いたことに驚いたのか、いたことに少しほっとしたのか、自分でもよくわからない。

 ただ、少なくとも完全に予想外だったわけではなかった。


 先生が本から目を上げる。


「……何だ。月峯か」


 いつもの調子だった。

 本当にいつもの調子で、だからこそ瑠海の胸の奥にあった何かが急にゆるみそうになる。


「部活サボりの相談なら他を当たれ。オレは生徒指導の熱血枠じゃない」

「そ、そういうんじゃ……」


 声が掠れた。

 ひどい、と思う。

 ここまで来たのに、まだうまく喋れない自分が。


 先生は缶コーヒーを一口飲み、それから本を閉じた。


「じゃあ何だ」

「その……」

「前置きが長いと、だいたい話の中身より本人の緊張の方が主役になるぞ」


 そう言われて、瑠海はぐっと喉を鳴らした。

 泣くな、と自分に言い聞かせる。

 ここで泣いたらたぶん終わる。終わるという根拠はどこにもないが、とにかく終わる気がした。


「……白金さん、が」


 そこまで言って、言葉が詰まる。

 先生は急かさなかった。

 優しいからではなく、たぶんただ待つ方が手っ取り早いと知っているからだ。


「白金さん、ノートが落ちてて……たぶん、誰かがやってて……」

「うん」

「昼休みに、付箋、置かれてて……“こわい”って」

「うん」

「さっきも、筆箱、落とされて……」


 言いながら、瑠海は自分の言葉がどんどんみじめな報告みたいになっていくのを感じた。

 ノートが落ちた。

 付箋が置かれた。

 筆箱が落ちた。

 どれも、小さい。

 こんなことを並べたところで、大人はきっと「証拠は?」「偶然じゃないの?」と言うのではないか。

 そう思うと、急に最後の一言が喉に張りついた。


 でも先生は、そんなことは言わなかった。


「で」


 ただ、その先を促すだけの声。


 瑠海は手すりを握った。

 冷たい。

 その冷たさに少しだけ助けられながら、ようやく言葉を押し出す。


「……このままじゃ、たぶん、もっとひどくなる」


 言った瞬間、目の奥が熱くなった。

 泣きたいわけじゃない。たぶん違う。ただ、自分の中でずっと形にならなかったものへ、やっと輪郭ができたせいだ。


「私、見てるだけなの、もう嫌なんです」

「ふうん」


 相変わらず、どうでもよさそうな相槌だった。

 だがその“ふうん”の中に、呆れも笑いもないことくらいはわかる。


「でも、私じゃ……何もできないし……」

「実際、できてないな」

「……っ」


 容赦がない。

 でも、その容赦のなさが、かえって少しだけありがたかった。

 かわいそうだね、とか、つらかったね、とか、そういう言葉をいま投げられたら、たぶん瑠海はその場で泣いてしまっただろう。


 先生は立ち上がった。

 階段を一段下り、瑠海と同じ高さまで来る。


「月峯」

「……はい」

「お前、弱いな」

「……知ってます」


 反射みたいにそう答えていた。

 否定する余地も、気力もなかった。


「知ってるか。なら話は早い」


 先生は手すりへ肘を預け、外を見た。

 夕方の光が校舎の白い壁へ当たって、やけに綺麗だった。こういう学校は本当に、腐ったものほど外装を磨く。


「弱いやつが無理に強いことやろうとすると、だいたい最初に壊れる」

「……はい」

「今日のアレがその一歩手前だ」


 瑠海は唇を噛む。

 悔しい。

 悔しいが、否定はできない。


「でもな」


 先生はそこで、少しだけ瑠海の方を見た。


「弱いやつが、自分は弱いって知ったまま、それでも見てられなくて動いた時だけ、たまに空気は面倒くさいことになる」


 その言葉の意味を、瑠海はすぐには飲み込めなかった。

 褒められたわけではない。

 励まされたわけでもない。

 けれど、完全に切り捨てられたのでもないことだけはわかった。


「……先生」

「何だ」

「助けて、くれますか」


 言ってしまってから、瑠海は自分の声がひどく子どもっぽく聞こえた気がした。

 でももう引っ込められない。


 先生は少し黙った。

 その沈黙が短いのか長いのかも、瑠海にはよくわからなかった。


 やがて、先生は小さく息を吐く。


「感動的な教師ムーブを期待してるなら、やめとけ」

「……はい」

「オレはああいうのに向いてない」

「……はい」

「だから、白金を救うとか、クラスを更生するとか、そういう綺麗な約束はしない」


 一つひとつ、わざと確認するみたいに言う。

 瑠海はそのたび、小さく頷くしかなかった。


 先生は缶コーヒーを拾い上げた。


「だがまあ」


 そこで、ほんの少しだけ口元を歪める。


「少しだけ引っかき回してやる」


 その言い方は、頼もしさとはだいぶ違った。

 むしろ、何か余計なことを企んでいる大人の顔だった。

 それでも瑠海は、その一言を聞いた瞬間、肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。


 安心したのかもしれない。

 あるいは、ようやく誰かに“見えている”と認められたからかもしれない。

 どちらにしても、涙が出そうになるのを慌ててこらえる。


「泣くなよ」


 先生が言う。

 からかうでもなく、本当に面倒そうに。


「ここで泣かれると、こっちがいいことしたみたいで落ち着かない」

「……ひどいです」

「今さらだろ」


 瑠海は笑ってしまった。

 ほんの一瞬だけ、鼻にかかったような、泣き損ねた笑いだったけれど。


 先生はそれを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。

 ただ、非常階段の手すり越しに校庭を見下ろしている。


 その横顔を見ながら、瑠海はようやく、小さく息を吐いた。


 何も解決していない。

 白金はまだ教室にいるし、早乙女たちもいる。空気も変わっていない。

 それでも、何かが少しだけ動き出した気がした。


 たぶん人は、それだけで一晩くらいは持ちこたえられる。


 夕方の風が、非常階段をゆっくり抜けていった。

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