7話 『観測者』
木曜日の朝、オレは始業時刻を四十秒ほど過ぎたあたりで職員室へ入った。
別に遅刻したくてしたわけではない。
今日はむしろ善戦した方だ。信号機どもは相変わらずオレに敵対的だったし、コンビニではレジ前で小銭を一枚ずつ品評するタイプの客に捕まった。
その悪条件の中で四十秒なら、実質かなり健闘している。
「神代先生。また遅刻ですか」
教頭が、案の定という顔でこちらを見た。
「いや教頭、今日はかなり惜しかった」
「惜しいかどうかの問題ではありません!」
「四十秒です。もはや遅刻というより、定刻に薄く触れてはいる」
「触れたなら入ってください」
「判定が厳しいな」
「勤務時間ですから」
朝から正論の密度が高い。
この人はそのうち、説教だけで時計の針を矯正できるようになるかもしれない。
「オレの中ではほぼ出勤扱いなんだが」
「あなたの中の基準を勤務規則より優先しないでください」
「教育ってもっと人間の幅を認める営みだろ」
「真っ先に時間の幅を要求する教師が言わないでください」
横で書類を揃えていた直人が、聞こえるようにため息をついた。
「いつも通りで安心したよ」
「教師の遅刻に安心するな。職場として終わってるぞ」
「お前が妙に時間通りだと、それはそれで何か企んでるとしか思えない」
「ひどいな。オレだってたまには真人間になる」
「その“たまに”がまず来てから言え」
向かいでは吉乃が、紙コップのコーヒーを両手で包みながら、半分眠った顔でこちらを見ていた。
「……朝からみんな元気ねぇ」
「教頭が元気なんだよ」
「元気じゃありません。指導です!」
「ほら、訂正まで速い。健康的だ」
「それを元気っていうのよ、社会では……」
社会の定義がだいぶ緩い。
酒と睡眠不足の現国教師にとって、“生きていて声が出る”はたぶん十分に元気の範疇なのだろう。
オレは鞄を机へ置き、出席簿を開いた。
二年二組。
昨日の空気が、紙の上の名前だけで少し蘇る。
白金結愛。
まだ折れていない優等生。
月峯瑠海。
人の気配に敏感すぎる子。
早乙女美菜。
笑顔のまま人を外側へ押し出す中心。
相良勝吾。
空気の側に立つことで、圧を現実にしてしまう手合い。
名簿はただの紙だ。
だが教室へ持ち込まれた瞬間、人間の名前はたいてい役割へ変わる。善人か悪人かなどという上等な分類ではない。もっと雑で、もっと即物的な、“そこでどう生き延びるか”に関わる役割へ。
「……昨日」
直人が、ふいに口を開いた。
「二年二組で、何かあったか?」
オレは顔を上げた。
直人は書類を閉じ、こちらをまっすぐ見ている。真正面から来るタイプの視線だ。ああいうのは、嘘や誤魔化しと相性が悪い。嫌いではないが面倒くさい。
「何かって何だ」
「とぼけるな。白金の様子が明らかにおかしかった。今朝、廊下ですれ違ったが、顔色が悪かったぞ」
「人間、寝不足でも顔色は悪くなる」
「寝不足にした原因を言っているんだ」
教頭が「朝から剣呑な空気を作らないでください!」と割って入ろうとしたが、吉乃が「まあまあ」と適当に手を振って止めた。
止める気があるのかないのか、よくわからない緩さだった。
直人は続ける。
「お前は何があったか見ていたな」
「見てたよ」
「止めなかった」
「止めなかったな」
そこで職員室の空気が少しだけ変わった。
周囲の教師たちは書類やパソコンに視線を落としているふりをして、だいたい耳だけはこちらへ向けている。こういう場所では、他人の厄介事ほど上質なBGMはない。
直人は声を荒げなかった。
こういう男は、感情的になるより、むしろ冷たく詰めてくる時の方が厄介だ。
「お前は、あのクラスの空気がどういうものかわかっているはずだ」
「わかってるよ」
「ならなぜ放っておく」
簡単な問いだ。
簡単だが、その簡単さが嫌になる。
オレは出席簿を閉じ、机へ軽く投げた。
「放っておいた方が、少なくとも昨日あの場ではまだマシだったからだ」
「本気で言っているのか」
「本気だよ」
直人の眉が寄る。
わかりやすく不快そうな顔だった。正義感のある人間は、こういう言葉を聞くとだいたい同じ顔をする。素晴らしいことだとは思う。面倒くさいとも思うが。
「教師が生徒を放っておくのが“マシ”だと?」
「教師がその場で正義感を発揮するのが、いつでも生徒のためになると思ってるなら、お前はまだ学校を上品に見すぎだ」
「何だと」
「昨日あそこでオレが早乙女たちを叱って、白金を庇って、場を収めたとする」
オレは指を一本立てた。
「その瞬間だけ見れば、たしかに担任教師として百点満点だ。立派だ。感動的だ。生活指導の教本にでも載せればいい」
「皮肉はいい。続けろ」
「だが、そのあと何が残る?」
直人は黙った。
わかっていないわけではないのだろう。ただ、わかっていても、そこを飲み込めない人間というのはいる。直人はたぶん、その類だ。
「白金は“先生を使って場を止めた正しいやつ”になる。早乙女たちは表向き黙る。で、見えないところで空気だけがもっと濃くなる。オレは“ちゃんと対応した教師”として気分よく帰れる。誰が一番得する?」
「それでも、あの場で何も言わないよりは――」
「本当にそうか?」
少しだけ声を重くすると、直人は言葉を切った。
「お前が欲しいのは“教師として正しく振る舞った”っていう実感じゃないのか」
「……神代」
「正義感そのものを馬鹿にしてるわけじゃない。だが学校って場所では、その手の感情はすぐ権力と結びつく。結びついた瞬間、だいたい本人の気持ちよさばかりが前へ出る」
教頭が「教師の権威をそこまで腐ったもののように言わないでください!」と吠えた。
だが、その吠え声の方がむしろ話の補強に見えてしまうあたり、この人もだいぶ損な役回りである。
「腐ってるなんて言ってませんよ、教頭。便利だって言ってるだけです」
「同じことです!!」
「だいたい、教師が本気で生徒を守る気なら、“叱る”だけで済むと思う方がおかしい。あのクラスで何かを変えるなら、もっと長く、もっと汚い責任まで引き受ける必要がある」
そこでいったん言葉を切った。
職員室は妙に静かだった。
キーボードを打つ音も、紙をめくる音も、さっきまでより少し遠く聞こえる。話している内容が内容だからだろう。こういう時、大人は案外すぐに空気を読む。
直人が低く言う。
「じゃあお前は、責任を引き受ける気がないから動かないのか」
「そういう面もある」
自分でも嫌なくらい、あっさり答えていた。
直人の顔に、一瞬だけ苛立ち以外のものが混じる。
失望、とまではいかないが、それに近い種類の色だ。
昔から、あの男はそういう顔をたまにする。オレが期待に値する人間だと、どこかで勝手に思っている節があるのだろう。迷惑な話だ。
「だがお前はそれだけじゃないはずだ」
「買い被るなよ」
「買い被っていない。お前は昔から、放っておけないものほど厄介そうな顔をする」
吉乃が、そこで小さく吹き出した。
「それ、ちょっとわかるかも」
紙コップを持ったまま、眠たげに笑っている。
寝起きの猫みたいな笑い方だが、こういう時だけ妙に当たることを言う。
「湊くんって、本気でどうでもいい時はほんとに目が死んでるものねぇ」
「普段は生きてるみたいに言うな」
「んー、今は半死半生?」
「新しい生物分類やめろ」
吉乃は肩をすくめ、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも白金さん、危ないわよ」
その言い方は、直人のそれとは違っていた。
正しさとか筋とかではなく、もっと単純に、人が壊れる瞬間を見慣れた大人の声だった。
「まだ折れてないから、余計にね。ああいう子って、自分が間違ってないって思えるあいだは立てるの。でも一回、“正しいだけじゃ足りない場所”だって体で覚えちゃうと、そのあと変な方向に頑張りがち」
「変な方向?」
「自分を削ってでも合わせようとするか、逆に意地だけで立ち続けるか。どっちも長くは保たない」
直人が静かに頷く。
たぶんこいつも同じ懸念を抱いているのだろう。だから余計に、昨日のオレの不介入が気に入らない。
吉乃はコーヒーをひとくち飲んでから続けた。
「瑠海ちゃんの方も危ないしねぇ」
「月峯が?」
「弱い子って、弱いままで済むならまだいいのよ。でも、目の前で誰かが削られてるのを見せられると、たまに“弱いなりに何かしなきゃ”って思っちゃうから。ああいうのが一番危ない」
その言葉に、オレは少しだけ眉をひそめた。
瑠海は気圧計だ。
教室の空気を誰より早く感じ取り、その変化に真っ先に怯える。
そういう人間は普通、最後まで様子見に徹する。徹するはずだ。
だが、弱い人間ほど、ときどき妙な拍子で勇気に触れてしまうことがある。あれは美徳としては結構だが、群れの中ではだいたい自傷行為に近い。
直人がオレを見た。
「それでも見ているだけか」
「今のところはな」
「今のところ、か」
オウム返しにするあたり、だいぶ気に入らないのだろう。
まあ気持ちはわかる。オレだって直人みたいな正論を吐く男が、自分の目の前で曖昧な態度を取っていたら少し腹が立つ。
「湊」
「何だよ」
「お前は昔から、“安い正義”を嫌うと言いながら、その実、自分が本気で関わる理由を先延ばしにしているだけの時がある」
それは、だいぶ嫌な言い方だった。
嫌な言い方だったが、嫌なことほど核心に近いから困る。
オレは少しだけ笑った。
笑うしかなかった、と言った方が正確かもしれない。
「お前、朝から随分と刺してくるな」
「刺さるなら図星だろう」
「教師としての美徳に満ちてるねえ」
「誤魔化すな」
教頭が「もういい加減にしなさい!」と机を叩き、職員室の空気はようやくいつもの朝へ戻り始めた。
戻り始めたが、完全には戻らない。こういう会話のあとには、たいてい少しだけ澱が残る。
オレは文庫本を手に取り、ぱらりと開いた。
文字は目に入るが、頭にはあまり入ってこない。
直人の言葉は、気に入らなかった。
気に入らないということは、たぶんどこかしら当たっているのだろう。
オレは安い正義が嫌いだ。
権力を振り回して場を片づけ、本人だけがいいことをした気になる大人は昔から反吐が出るほど見てきたし、自分がそちら側へ回るのも御免だ。
だが、高い正義を引き受ける覚悟があるのかと問われれば、自信はない。
生徒一人を本気で救うなんて、言葉ほど綺麗な仕事じゃない。
時間も要る。面倒も増える。こちらだって傷つく。
オレはそこまで真面目な大人ではない。
だから昨日の不介入には、二つ混ざっていた。
安い正義が逆効果だという判断と、その先の責任まで引き受ける気の薄さ。
どちらか一方だけなら、まだ少しは綺麗だったのかもしれない。
だが現実の人間なんて、たいていそう都合よくはできていない。
チャイムが鳴る。
始業の合図だ。
直人はまだ何か言いたげだったが、結局それ以上は口にしなかった。
言っても無駄だと思ったのか、それとも本当に、オレが見ているだけで済む男ではないとどこかで信じているのか。どちらにせよ、迷惑な話だ。
オレは立ち上がった。
出席簿と文庫本を手に取る。
「……ま、しばらくは観測だな」
そう言うと、吉乃が半笑いで首を傾げた。
「観測者って、たいてい自分が安全圏にいるつもりなのよねぇ」
「突然メタいこと言うな」
「でも、見てるだけで済まない時ってあるじゃない」
「あるな」
「そういう時、湊くんはだいたい嫌そうな顔するのに、けっきょく首突っ込むのよ」
オレは答えなかった。
答えなかったが、職員室を出る足取りは、いつもよりほんの少しだけ重かった。
B棟へ向かう渡り廊下は、今日もやけに明るかった。
ガラス越しの中庭は、相変わらず金のある学校らしい手入れをされている。芝生は均一に刈り揃えられ、花壇の色味にまで無駄な品位がある。こういう場所を見るたび思うのだが、教育機関というのは、人間の内側がどれだけ腐っていようと、外から見える景観だけは驚くほど健全でいられるらしい。
立派な校舎。整った設備。静かで落ち着いた学習環境。
結構なことだ。
中で何が起きていようと、見学に来た保護者の目に映るのはだいたいそっちだけなのだから。
オレは二年二組のドアの前で足を止めた。
静かだった。
昨日までと同じ静けさ。
だが、同じ静けさであればあるほど、その内側に何が沈んだのかだけはよく見える。教室というのは不思議な場所で、一度何かが起きると、その翌日はむしろ穏やかになることが多い。
騒ぎの直後より、その翌日の方がよほど厄介だ。全員が何もなかったことにするために、いつも以上に自然な顔を作ろうとするからである。自然さを意識した集団ほど、不自然なものもない。
ドアを開ける。
やはり、一度だけ視線が集まり、すぐに散る。
見慣れた反射運動だった。
白金結愛は、すでに席についていた。
ノートを開いている。筆箱の位置も、教科書の角度も、机の上だけ見ればいつも通りだ。だが、その“いつも通り”にほんの僅かな過剰さが混じっているのがわかった。
乱れないようにしている人間の整え方だ。
昨日までの白金は、整っていた。
今日の白金は、整えている。
その差は小さい。
だが小さいぶん、いっそう救いがない。
瑠海は隣で教科書を開いていた。
開いてはいるが、視線の半分は隣へ向いている。向いているくせに、露骨には見ない。その落ち着かなさが、むしろはっきり伝わる。
あの子はもう、見て見ぬふりだけで自分を守れる段階を少し外れ始めているのかもしれない。結構なことである。ろくでもない方向へ成長しつつあるという意味では。
後方、早乙女の一角にはいつもの笑いがあった。
明るい。軽い。人を傷つける笑いというのは、本来もっとどす黒い顔をしているべきだとオレは思うのだが、現実のそれはだいたい薄くて、明るい。だからこそ周囲も乗りやすい。
オレは教壇へ立った。
「おはよう」
返事はない。
まあ知っている。
この教室では返事ですら、立場表明の一種だ。
出席簿を開き、どうでもいい調子で名前を呼んでいく。
白金の返事はいつもより半拍だけ遅かった。瑠海は逆に少しだけ早かった。緊張している人間ほど、自分でも何に反応したのかわからない速度で声が出ることがある。
出欠確認が終わると、教室はまた元の静けさへ戻った。
朝のホームルームで伝えるべきことは、今日に限ってほとんどない。学園全体の行事予定だの提出締切だの、いつもの事務的な連絡を二、三口にしたあと、オレは教卓へ軽くもたれた。
「じゃ、各自一時間目まで適当に生き延びろ」
後ろの方で、相良が「それ担任の朝の締めとして終わってるだろ」と笑った。
小さな笑いが散る。
白金は笑わない。笑えないのか、笑うべきでないと思っているのか、その両方か。
オレはそれ以上何も言わず、文庫本を開いた。
文字は目に入るが、中身は大して追っていない。読書というより、顔を上げずに教室を見るための方便みたいなものだ。
白金はホームルームの間、結局一度も自分から話さなかった。
提出物の確認もしない。
委員として言うべきことが本当に何もないのかと問われれば、そんなはずはない。細かい仕事はいくらでもあるだろう。だが今日は言わない。
言わないと決めたのか、それとも言ったあとの空気を先に計算してしまったのか。たぶん後者だ。
そして、その一拍を自分でいちばん嫌っているのも、たぶん白金自身だった。
*
一時間目は現国だった。
オレは授業のない時間だったので、職員室へ戻ることもできたが、何となく廊下に残った。
何となく、という便利な言い方をしてみても、実際にはただの様子見である。観測者だなんだと偉そうに言っても、結局オレも気になるから足を止めているだけだ。人間の高尚な理屈の大半は、そういうしょうもない行動のあとづけでしかない。
窓越しに中を見やる。
現国教師の声が、朗読めいた抑揚で教室に落ちている。
生徒たちはだいたい真面目な顔をしていた。少なくとも表面上は。
白金は板書を取っている。瑠海も、それなりに真面目にノートを見ている。早乙女のあたりは、ときどき視線を交わしてはいるが、授業を壊すほど露骨ではない。
これだけ見れば、問題のない教室だ。
むしろ優秀な部類に入るかもしれない。
だが少し長く見ていると、やはり細部だけが引っかかる。
教師がある表現を説明し、白金が頷く。その時、斜め後ろの女子が一瞬だけ口元を緩める。
瑠海が消しゴムを落とし、拾う。そのわずかな音に、周囲がほんの少しだけ敏感に反応する。
早乙女が隣の子へ何か囁く。誰もそちらを向かないくせに、教室の表面だけが一拍遅れて柔らかくなる。
水面に流れる見えない潮目みたいなものだ。
一つひとつは何でもない。
何でもないくせに、全部が同じ方向へ働いている。
*
昼休み。
オレが教室へ戻ると、群れはすでにそれぞれの位置へ落ち着いていた。
早乙女の周囲には、当然のように人が集まっている。
相良はその少し外側で、スマホを見ながら誰かの話に笑っている。あの手の人間は便利である。声がでかい分、周囲に「逆らわない方がいい」という物理的な了解だけは与えられる。
白金は自席で弁当を開いていた。
昨日よりは、少しだけ食べる速度が戻っている。戻っているが、それが“戻ろうとしている速度”であることくらいは見ていればわかる。
瑠海は向かいでパンを齧っている。会話はある。あるが、続かない。ひとこと、ふたこと、そこで切れる。二人とも相手に何かを言いたいのに、その“何か”へ近づいた瞬間に別の言葉へ逃げる。そういう会話ばかりだった。
しばらくして、瑠海が小さく口を開いた。
「……結愛ちゃん」
「何?」
「その、今日の帰り……」
白金が顔を上げる。
瑠海はそこで一度、視線を泳がせた。
「図書室、寄るなら……いっしょに行く?」
誘い文句としてはだいぶ下手だ。
本当はただ一緒に帰ろうと言いたいのだろう。だが、あの子には“心配しているから付き合いたい”という形で言う度胸がない。だから用事の体裁を借りる。精いっぱいの手つきだった。
白金は少しだけ間を置いた。
「……今日はいい」
断り方に棘はない。
だが、それだけで瑠海の肩が小さく落ちたのが見えた。
ああいう微細な落胆は、見ているこちらの方が妙に疲れる。
「そっか」
「ごめん」
「ううん」
ごめん、ううん、大丈夫。
そういう言葉ばかりが往復して、本体にはどこまでも触れない。
触れられないのだ。
触れた瞬間、今ここにある“何かがおかしい”が、ちゃんとした名前を持ってしまうから。
その時、後方から声が飛んだ。
「月峯ってさ」
早乙女の取り巻きの女子だった。名前は覚えていない。覚えるほどの価値を感じていないとも言う。
「最近ほんと白金さんといるよね」
悪意を剥き出しにした言い方ではない。
軽い雑談の延長みたいな調子だ。だから瑠海はびくりと肩を揺らしたあと、すぐには何も返せない。
「え……あ、うん」
「仲いいんだ」
「べ、別に、普通に……」
普通にという返答ほど、群れの前で弱い言葉もない。
普通かどうかの基準を握っている側に、それを判定する権利まで差し出すことになるからだ。
早乙女が、そこで笑った。
「いいじゃん。白金さん、真面目だから相性よさそう」
柔らかい声だ。
褒めているみたいに聞こえる。
そのくせ、瑠海の顔から一気に血の気が引くのだから始末に負えない。
「ち、違……いや、違わないけど……」
何だそれは。
違うと言いたいのか、違わないと言いたいのか、自分でもわからないまま慌てている。
ああいう時の人間は、見ているだけで痛々しい。
白金がそこで口を開いた。
「瑠海は別に関係ないでしょ」
強い口調ではなかった。
むしろ静かすぎるくらいだった。
だがその静けさが、教室の一角にはかえってよく響いた。
早乙女はきょとんとした顔を作る。
「え? 責めてないよ」
「だったら、わざわざ言う必要ない」
「うわ、白金さん今日もキレがある」
笑いが起きる。
昨日みたいに大きくはない。だが小さいぶん、もうずっと日常に近い。
白金は唇を引き結ぶ。
瑠海は完全に固まっている。
ここだな、とオレは思った。
吉乃の言った通りだ。
弱い人間は、目の前で誰かが削られているのを見るのが嫌になると、ときどき自分の身の丈を越えた場所へ足を出す。だが、その足を支える筋肉は持っていない。
だから結局、庇おうとした相手の方からも、“関係ないから黙っていて”と切られることになる。
瑠海は俯いた。
パンの袋を握る指先だけが、やけに白い。
白金は、その横顔を一瞬だけ見た。
見て、何か言おうとして、結局言わない。
言えばまた場が動く。動けばまた、瑠海の方へ視線が集まる。そこまで考えたのかどうかは知らない。だが黙った。
黙るしかなかった、の方が近いのかもしれない。
オレは教壇の近くで立ったまま、そのやり取りを眺めていた。
止めることはできる。
いつでもできる。
だが、今ここで介入して瑠海を救った顔をしたところで、そのあとこの子がどれだけ居づらくなるかくらいは容易に想像がつく。
教師の介入というのは、便利なようでいて、たいてい“この子は守られる側の人間です”という札を貼る行為でもある。
札を貼られた子が、そのあと群れの中でどう扱われるか。
学校で働いていれば、嫌というほど見てきた。
オレは結局、口を開かなかった。
その代わりに、机の上のプリント束を適当に整えるふりをした。
それだけの雑音で、会話は一度途切れる。
途切れるが、何も解決しない。表面が整うだけだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
瑠海は小さく息を吐き、袋を畳んだ。
白金は弁当箱を閉じた。
早乙女の周囲では、もう別の話題が始まっている。
何事もなかった顔。
この教室がもっとも得意とする芸だ。
午後の授業の前、オレは窓際に寄って、しばらく外を見た。
グラウンドでは別のクラスが体育をやっている。笛の音。怒鳴り声。笑い声。露骨なくらい健全な学校の風景だ。
ああいうのを見ると、いっそ清々しい。
人間の愚かさは、あれくらい見えやすい方がまだ扱いやすい。
振り返る。
二組の教室は今日も静かだった。
白金はまだ立っている。
瑠海は立てないまま、しかしもう完全には引っ込めてもいない。
早乙女は相変わらず笑っている。
秩序だった地獄だな、とオレは思った。
そして厄介なことに、こういう場所はたいてい、崩れる時だけは一気に崩れる。
*
その日の放課後、職員室へ戻る途中で、オレは階段の踊り場から下の廊下を見下ろした。
ちょうど二年二組の連中が、だらだらと教室から流れ出てくるところだった。
早乙女の周囲には相変わらず人が集まっている。群れというのは面白いもので、中心に力があるのか、力のあるところが中心になるのか、そのあたりの因果は案外曖昧だ。ただ一つ確かなのは、いったんそこへ人が寄り始めると、あとは「人がいること」自体が権力の証明になるということだった。
白金は少し遅れて教室を出た。
手には日誌とファイル。委員らしい荷物だ。歩幅は昨日までと同じように見える。見えるが、やはりどこかで力が入っている。自分の姿勢そのものが見られている気がする人間の歩き方だった。
瑠海はその二歩後ろを歩いていた。
追いつくでもなく、離れるでもなく。
あの距離感は、たぶん彼女なりの誠実さなのだろう。あまり露骨に寄れば白金に気を遣わせるし、離れすぎれば見捨てたみたいになる。その狭い中間を、瑠海はずっと探っている。
階下で、早乙女の取り巻きの一人が声を上げた。
「あ、白金さん」
白金が立ち止まる。
立ち止まらないという選択肢もあったはずだが、あの子はそういう無視の仕方をまだ身につけていない。
「何?」
返事は平坦だった。
平坦にしようとしている時点で、もう平坦ではないのだが、そのあたりを自覚しているかどうかは知らない。
「はい、これ」
差し出されたのは、進路希望調査のプリントだった。
端が少し折れている。出すのを忘れていたのか、わざと今このタイミングまで持っていたのか。どちらにしても、そこに含まれている意味は単純ではない。
白金はそれを受け取った。
「……明日が締切だったよね」
「うん。だから今日出しとけばえらいかなって」
「今日じゃなくても、ちゃんと出すなら別に」
「うわ、出た」
取り巻きの別の女子が笑った。
「その“ちゃんと”ってやつ」
「白金さん、ほんとそれ好きだよね」
軽い。
どこまでも軽い。
軽さというのは、それ自体で十分な武器になる。重い側だけが、いちいち言葉の意味を受け止めて疲弊するからだ。
白金はプリントを持ったまま、数秒だけ黙った。
「……好きとかじゃなくて、締切なんだから当然でしょ」
口調はまだ崩れていない。
だが、言葉の最後にわずかだけ硬さが乗る。
その硬さを、この手合いは見逃さない。
「ほらそういうとこ」
「責めてるわけじゃないのにさ」
「いや、まあ白金さんらしいけど」
早乙女がそこで肩をすくめた。
「でもわかるよ。ちゃんとしてほしいんだよね」
「別に、私は――」
「うんうん。白金さんって、ほんと真面目だもん」
その“真面目”の言い方は、もう完全にラベルだった。
相手を理解するための言葉ではなく、相手を一定の場所へ固定するための言葉。
一度貼られた札というのは厄介で、本人がどれだけ違うことを言っても、その上から読まれてしまう。
白金は、反論しかけてやめた。
喉元まで何かが来て、止まるのが見ていてわかる。
言えばまた“重い”になる。言わなければ、いま貼られている札を自分で黙認することになる。
そういうどうしようもない二択へ、人を追い込むのがあの手の笑いの本質だ。
そこで、瑠海が小さく動いた。
白金の少し後ろから、一歩だけ前へ出る。
本当にそれだけの動きだ。だが、あの子にとってはたぶん、かなり大きい。
「……や、やめなよ」
声は小さかった。
小さいし、震えてもいた。
だが震えているからこそ、それが本気で絞り出されたものだとはよくわかった。
廊下の空気が、一瞬だけ止まる。
早乙女が、ゆっくりと瑠海を見る。
怒ってはいない。苛立ってもいない。ただ、自分の想定していなかった方向から小石が飛んできた時の顔を、ほんの一秒だけした。
「え?」
それだけだった。
たったそれだけの短い声なのに、瑠海の肩が目に見えて強張る。
「……責めてるわけじゃ、ないし」
「う、うん……でも」
瑠海は次の言葉を探していた。
探していたが、もう遅かった。
「月峯って、そんな感じだったっけ」
取り巻きの誰かが笑い混じりに言う。
悪意はない、という顔をしている。ないわけがない。
「なんか今日、強いね」
「白金さんの影響?」
「それちょっとおもしろい」
笑いが広がる。
今度は白金だけではない。
瑠海の方へも、ごく薄く、しかし確実に色が移る。
瑠海の顔から、一気に血の気が引いた。
ああいう時の人間は、本当に“固まる”のだと毎回思う。比喩ではない。喉も肩も指先も、ぜんぶ一度にどこへ動いていいかわからなくなる。
白金がそこで、はっきりと一歩前へ出た。
「瑠海は関係ないでしょ」
今度の声は、さっきより強かった。
強かったが、その強さ自体がもう相手にとっては材料になる。
「ほら、そうやってすぐ庇う」
「優しいー」
「ていうか月峯、べつに困ってなくない?」
早乙女が、そこでようやく少しだけ真面目な顔になる。
真面目、といっても重くなるわけではない。ただ、空気の中心としての微調整を始める顔だ。
「月峯が嫌だったならごめん。でも、ほんとにそんなつもりじゃないから」
謝っているようにしか聞こえない完璧な言い方だった。
瑠海はもう「違う」とも「そういうことじゃない」とも言えない。
ここで何を返しても、自分の方が空気を悪くするだけだと、たぶん骨まで理解してしまったからだ。
「……ち、違……私は、その」
言葉が続かない。
当然だ。
弱い人間の勇気は、だいたい一拍しか保たない。二拍目には、もとの弱さの方が勝つ。
白金が瑠海の方を見た。
見て、たぶん一瞬だけ、自分のせいでこの子を前へ出してしまったのだと気づいたのだろう。
その顔をした。
「……もういいから」
小さくそう言ったのは、瑠海ではなく白金の方だった。
もういい。
便利な言葉だ。
ここで終わらせるための言葉であり、同時に「これ以上触れないでほしい」という悲鳴でもある。
早乙女は、あっさり頷いた。
「うん、なら終わり」
笑顔に戻る。
その戻り方の自然さに、毎回少し感心する。人を追い込んでいる最中と、何でもない雑談へ戻る瞬間の切り替えがあまりに滑らかだ。ああいうのは、才能と呼んでしまえばだいぶ嫌な才能である。
群れはそのまま流れていった。
笑い声も、会話も、数秒後には別の話題へ移っている。
置いていかれたのは、白金と瑠海だけだった。
二人とも、しばらく動かなかった。
先に顔を上げたのは瑠海だった。
だが、その顔はもう泣き出す寸前みたいに歪んでいる。
「……ごめん」
やっと出た言葉が、それだった。
白金は眉を寄せた。
「なんで瑠海が謝るの」
「だって、私が変なこと言ったから……」
「変じゃない」
白金はすぐにそう言った。
すぐに言ったが、その“すぐに”が、かえって瑠海にはきつかったのかもしれない。自分が余計なことをしたという感覚を、否定で押し返されても消えるわけではない。
「でも、私……」
「もういいって言ったでしょ」
少しだけ語尾が強くなる。
強くしたかったわけではないのだろう。だが、疲れている人間の声はそういうところで簡単に軋む。
瑠海はそこで、完全に黙った。
オレは階段の踊り場から、そのやり取りを見ていた。
見ていたが、やはり降りなかった。
ここでオレが間へ入れば、少なくとも表面上は丸く収まるだろう。瑠海の謝罪も、白金の苛立ちも、「先生が見ていた」という事実によって別の場所へ追いやれる。
だがその代わり、二人は今度こそ“教師に見られていた側”として固定される。
しかも瑠海のあの一歩は、自分で踏み出したからこそ意味がある。たとえ失敗だったとしてもだ。
それを大人の手で綺麗に回収するのは、だいぶ趣味が悪い。
もちろん。
それは高尚な判断というより、たぶんただの嫌悪だ。
オレは“先生らしい処理”というやつが昔からあまり好きではない。物事を片づけるふりをして、実際にはその場で都合のいい整理だけをする手つきが。
白金は瑠海へ何か言いかけて、結局黙った。
瑠海も何も言わない。
沈黙だけが二人のあいだに落ちる。
その沈黙の重さを見ていると、吉乃の言葉が頭をよぎった。
弱い子って、弱いままで済むならまだいいのよ。でも、目の前で誰かが削られてるのを見せられると、たまに“弱いなりに何かしなきゃ”って思っちゃうから。
まったく、その通りだった。
そしてそういう勇気は、美談として語るにはあまりに脆い。
やがて白金が、小さく息を吐いた。
「……帰ろ」
瑠海は無言で頷いた。
二人は並んで歩き出す。
並んではいるが、さっきまでより少しだけ距離があった。
その背中を見送りながら、オレはようやく階段を下りた。
廊下には夕方の光が差していた。
金のかかった学校というのは、夕暮れどきですら品よく見える。磨かれた床、白い壁、やけに高そうな額縁。どこを取っても、ここで育つ若者たちの未来は明るく健全です、という顔をしている。
笑える話だ。
*
職員室へ戻ると、吉乃が机に頬杖をついたまま、死にかけの目でコーヒーを啜っていた。
直人はまだ残っていて、採点らしいものをしている。
「どうした、その顔」
直人が顔をあげて言った。
「元からだよ」
「いや、今のはもう少し人間嫌いが進んだ顔だ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めていない」
だろうな。
オレは自席に鞄を置き、しばらく何も言わなかった。
言わなかったが、直人も吉乃も、その沈黙がただの疲労ではないことくらいは察したらしい。
吉乃がぼんやりした声で言う。
「…… 瑠海ちゃん?」
オレは少しだけ眉を上げた。
「何でわかった」
「弱い子が変な勇気出したあとの空気って、なんとなくわかるのよ……」
相変わらず酒と睡眠不足に浸かった顔で、妙に嫌なところだけ当ててくる女だ。
直人が手を止めた。
「何があった」
「別に大したことじゃない」
「その言い方をする時のお前は、たいてい大したことだとわかっている」
面倒くさい男だ。
だがその面倒くささに助けられることも、たぶん世の中には少しだけあるのだろう。オレには縁遠いが。
「瑠海が一歩出た。で、案の定うまくいかなかった」
「……そうか」
直人の顔が少しだけ固くなる。
吉乃はコーヒーのカップを両手で包んだまま、目を細めた。
「止めなかった?」
「止めなかった」
そこで吉乃は、ほんの少しだけ笑った。
皮肉でもなく、責めるでもなく、ただ疲れた大人がよくやる種類の笑い方で。
「ほんと、嫌な男ねぇ」
「知ってる」
「でも、見てたってことは、もう半分は関わってるのよ」
その言葉に、オレは答えなかった。
答えなかったが、胸のあたりが少しだけ重かった。
観測者でいるつもりだった。
だが、本当にどうでもいいものを、わざわざ階段の踊り場から見下ろしたりはしない。そんなことくらい、自分でもわかっている。
直人が静かに言う。
「湊」
「何だ」
「お前がいつ動くのかは知らん。だが、動かないなら動かないで、その結末まで見届ける覚悟くらいは持て」
それは、正論だった。
正論だが、こういう時に限って妙に刺さる正論というのは、だいたいろくでもない形で当たっている。
オレは椅子へ深く腰を下ろし、天井を仰いだ。
「……覚悟ね」
昔は、そういうものを持っているつもりだった。
権威にも空気にも屈しないで、正しいと思ったことのために他人も自分も切れる、危険な思想家気取りの学生だった頃には。
だが、現実というのは立派だ。そういう青臭い確信のほとんどを、就職と給与明細と組織の猿山で綺麗に削ってくる。
残ったのは、だいぶくたびれた人間だけだ。
それでも。
オレは今日、瑠海の一歩を見た。
見たうえで、頭のどこかが少しだけ動いたのも自覚している。
ああいう弱い人間が、それでも誰かのために半歩でも前へ出てしまう瞬間だけは、昔からあまり嫌いになれなかった。
嫌いになれないというのは、だいたい面倒の始まりである。
職員室の窓の外では、もう日が傾きかけていた。
校舎の壁が、やけに白く光っている。
オレは文庫本を開いた。
開いたが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。
「……あいつらが本当に白旗を上げるまで、もう少し待つか」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
直人が顔を上げたが、何も言わなかった。
吉乃だけが、コーヒーの向こうで小さく笑った。
その笑いは、いつもより少しだけまともな大人に近かった。




