6話 『余波』
翌朝、白金結愛は、いつもより早く目が覚めた。
正確には、目が覚めたというより、途中からまともに眠れていなかった。
夜のあいだ何度か目を開け、そのたびに暗い天井を見て、また目を閉じた。
何を考えていたのかは、うまく説明できない。
ただ、昨日の教室で交わされた言葉の断片だけが、妙に輪郭を保ったまま頭に残っていた。
正しい。
説教くさい。
空気が悪い。
重い。
どれも大した罵倒ではない。
少なくとも、辞書に載せればその程度で済む言葉だ。
なのに、胸の内側へ入ってきた瞬間だけ、妙に粘つく。紙で指を切った時みたいな、笑うほど小さいのにしばらく気になる痛みに似ていた。
結愛は布団の中で一度だけ深く息を吐いてから、起き上がった。
こういう時に限って、朝の支度はいつも通り進む。顔を洗い、髪を整え、制服へ袖を通し、鞄の中身を確認する。その一つひとつは昨日と同じなのに、どこか自分だけが少しずつ遅れている感じがした。
*
教室へ着いた時、まだ人はほとんどいなかった。
鍵の開いた扉を押し、窓際へ歩く。
朝の空気はまだ冷たく、昨夜こもっていた教室の匂いが薄い。結愛は窓を開け、黒板の端を確認し、机の列の乱れを目で追った。
いつもの朝だった。
少なくとも、見える範囲では。
だからこそ、少しだけほっとした。
誰もいない教室は、まだ誰の空気でもない。
結愛はこの時間が好きだった。
誰がどこで笑うかも、誰の一言に全体が傾くかも、まだ決まっていない。
少なくとも、そう思いたかった。
連絡ノートを開く。
今日伝えるべきことを整理する。
提出物の締切、委員会の集合、配布物の確認――そこまで書いて、結愛の手が止まった。
提出物。
昨日なら、何も迷わず書いていただろう。
誰が出していないか確認し、必要ならその場で言う。それは委員として当然のことで、教室の秩序を保つための最低限の作業だった。
だが今日は、そこでほんの一拍、ペン先が止まった。
言うべきか。
言わないべきか。
その逡巡が自分の中に生じたこと自体が、結愛には少し腹立たしかった。
何を迷う必要があるのだろう。
未提出があるなら確認する。言うべきことは言う。
それだけの話だ。
そう思うのに、昨日の笑い声だけが思考の端へまとわりついて離れなかった。
「……結愛ちゃん」
遠慮がちな声に振り向くと、月峯瑠海が立っていた。
「おはよう」
「お、おはよう……」
瑠海はいつものように鞄を胸の前へ抱いていたが、今日はいつも以上に視線の置き場を探しているように見えた。結愛の顔を見て、すぐ机の方を見て、また少しだけ視線を戻す。何か言いたいのだろう。だが、その“何か”がたぶん昨日のことに触れる言葉だと、本人にもわかっているのだろう。
「今日も早いね」
「う、うん……その、ちょっとだけ……」
言い淀む。
結愛はその先を待たなかった。
「窓、開けておいたから。寒かったら閉めていいよ」
「あ……うん」
自分でも、少しだけ硬い言い方だったと思う。
瑠海も気づいたらしく、小さく肩をすくめた。結愛はその反応を見て、すぐに後悔した。
「……ごめん。ちょっと言い方きつかった」
瑠海は首を振ったあと、少しだけ間を置いてから椅子を引いた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「え?」
「なんとなく、顔色あんまりよくないかなって」
結愛は思わず、自分の頬へ指先を当てそうになった。
そんなにわかりやすかっただろうか。
それとも、瑠海が人の変化に敏感すぎるだけだろうか。
「……寝不足なだけ」
「そっか」
瑠海はそれ以上、聞かなかった。
やがて、教室へ少しずつ人が増え始めた。
扉が開く音。机を引く音。誰かの眠たそうな声。いつも通りの朝の流れ。いつも通りのはずなのに、結愛にはその一つひとつが、昨日よりほんの少しだけ自分から遠い場所で起きているように感じられた。
後方、窓際寄りの一角へ、早乙女が現れる。
「っはー……今日マジだる」
鞄を肩から外しながらそう言って、自分の席へ体を預ける。
それだけで、教室全体の重心がわずかにそちらへ傾く。
結愛はもう、その変化を見誤らない。
「おはよ、白金さん」
早乙女がこちらを見る。
にこり、と綺麗に笑う。
「今日も早いね。えら」
「……おはよう」
返した声が、自分でも少し平板に聞こえた。
早乙女は気にした様子もなく、ただ「ほんと真面目」とでも言いたげに肩をすくめて、周囲の雑談へ戻っていく。
たったそれだけだ。
昨日までと何も変わらない。
なのに結愛の内側では、その「えら」がもう単純な挨拶としては聞こえなかった。
どこからが好意で、どこからが値踏みなのか。
どこまでが冗談で、どこからが排除なのか。
その境目が曖昧なまま言葉を投げられることが、こんなにも息苦しいのだと、結愛はもう知ってしまっていた。
朝のホームルームが始まる少し前、神代湊が入ってきた。
いつものように少しだけ遅く、片手にコーヒー、もう片手に文庫本という、教師より人生に居場所を失った院生の方がまだしっくりくる格好で。
「おはよう。今日も社会は無事に滅ばなかったらしいな」
教壇の前でそんなことを言う。
数人が小さく笑う。
結愛は連絡ノートを閉じ、立ち上がる準備をした。
「白金、ホームルーム」
「……はい」
立ち上がりながら、結愛はノートへ視線を落とした。
書いてある。
提出物の確認。未提出者への再確認。
昨日までなら、その通りに言っていたはずの言葉たち。
だが、結愛は一拍だけ迷った。
その一拍が、自分でも嫌だった。
何を怯えているのだろうと思うのに、喉の奥だけが少し重い。
「先に、来週の委員会の集合時間を確認します」
口から出たのは、提出物ではなく別の項目だった。
自分で言ってから、結愛は気づいた。
順番を変えただけだ、と言い張ることはできる。実際、そうなのかもしれない。だが本当は違う。言いやすいものから先に口へ出しただけだ。昨日の笑いが、まだ頭の中に残っているから。
その事実が、何より情けなかった。
教室は静かに聞いている。
いや、静かに聞いているように見えるだけで、たぶん全員が別のところを見ている。言葉の内容ではなく、その言い方や間や声の揺れを測っている。
そういう教室だと、もう知ってしまった。
結愛は二つ目、三つ目の連絡を告げた。
最後まで、提出物の話はしなかった。
ホームルームが終わり、着席する。
隣で瑠海がそっとこちらを見た。何かに気づいた顔だった。だが何も言わない。
先生だけが、教壇の前でコーヒーを一口飲んでから、結愛を見た。
「白金」
「……はい」
「今日は随分と丸くなったな」
教室の何人かが顔を上げる。
結愛は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
「……何の話ですか」
「提出物の催促をしない委員長って、だいぶ希少種だろ」
胸の奥が、ひやりとした。
気づかれていた。
自分でも認めたくなかった逡巡を、よりにもよって、この男はあっさり見抜いて口にした。
教室の空気が、わずかに揺れる。
笑いにはまだならない。
だが、なるかもしれない位置まで来ている。そのことがわかった。
結愛はノートの端を、無意識にきつく握った。
「……何のことですか」
声は、思っていたよりも平らに出た。
平らに出たことに、ほんの少しだけ安心する。喉が震えていない。それだけで、まだ昨日の自分よりはましな気がした。
先生は教壇に肘をつき、コーヒーの紙カップを机へ置いた。
「提出物の話だよ。昨日までのお前なら、朝のホームルームで真っ先に言ってただろ」
後方で、遅れて笑いの気配が動いた。
誰かがくすりと笑う。
笑ったのが早乙女なのか、その取り巻きなのかは、もう判別する必要もない気がした。こういう時の笑いは、最初の一人より、そのあとで遅れて乗る二人目三人目の方がよほど残酷だ。
「別に……後で確認します」
言いながら、結愛はそれが苦しい言い訳だとわかっていた。
後で確認する。
たしかに事実ではある。
だが、その理由だけが、いまの自分のいちばん弱いところだった。
「へえ」
先生は気のない返事をした。
納得したようにも、していないようにも聞こえる声音だった。
「委員長ってのは便利だな。言うべきことを言わなくても後で確認するで済む」
その言い方に、今度はもう少しはっきりした笑いが起きた。
「先生、地味に刺すよね」
「朝からやめなって」
「白金さん、今日は優しいじゃん」
最後の一言は、早乙女だった。
優しい。
そこに込められている意味を、結愛は一瞬で理解した。
昨日までならそうではなかった。もっとちゃんとしていた。もっときっちり言っていた。なのに今日は言わない。言えない。そういう変化を、彼女は笑顔のまま“優しさ”という言葉へ入れ替えてみせたのだ。
結愛は顔を上げた。
早乙女は、やはり綺麗に笑っていた。
挑発している顔ではない。からかっている顔ですらない。クラスメイトの些細な変化を軽く拾ってみせただけ、という程度の、曖昧な明るさしか浮かべていない。
だから言い返しづらい。
こういう笑顔に向かって「それは違う」と言ったところで、たいていは言った側だけが空気を悪くする。
「……優しいとか、そういう話じゃない」
結愛はできるだけ静かに言った。
「提出の確認は、あとでします」
「そっかぁ」
早乙女が頷く。
「でもよかった。ちょっと安心したかも。白金さん、たまに真面目すぎて怖い時あるし」
その言葉に、教室のあちこちで小さく肩が揺れた。
笑いというほど大きくはない。ただ、「それはわかる」という無言の同意だけが、薄く教室全体へ広がっていくのが見えた。
怖い。
結愛は、その単語が意外なくらい胸に刺さるのを感じた。
正しいとか、説教くさいとか、空気が悪いとか。昨日はそういう言葉ばかりが頭に残っていたのに、今この瞬間にいちばん効いたのは、それだった。
怖いのは、そっちだろう。
そう言い返したかった。
誰かの一言ひとつで、教室全体の温度が決まること。
誰も正面からは責めず、ただ笑いながら少しずつ人を押し出していくこと。
どれだけ理屈が通っていても、「重い」「怖い」「空気が悪い」という曖昧な札を貼られた瞬間、もう正しさが武器にならなくなること。
怖いのは、そっちだ。
喉の奥まで言葉は来た。
来たが、出なかった。
結愛は、自分の中でその言葉が止まる感触を、はっきりと知った。
出せばまた笑われる。出せばまた、昨日と同じ場所へ引き戻される。その予感が、理屈よりも早く口を閉ざした。
先生が、そんな結愛をしばらく見ていた。
助けるわけでもなく、追い詰めるわけでもなく、ただ見ているだけ。
それが妙に腹立たしかった。昨日もそうだった。今日もそうだ。この人はいつも、何もしていないふうをしながら、いちばん見てほしくない部分だけを平気で見抜いてくる。
「……で」
湊が教卓を指先で軽く叩いた。
「提出物はあとで確認するんだな」
「……します」
「ならいい。中途半端が一番だるいからな。やるならやる。やらないなら最初からやらない。曖昧にして空気だけ読むのが、一番つまらん」
その言葉に、結愛は一瞬だけ息を詰まらせた。
叱られたわけではない。
励まされたわけでもない。
ただ、自分の今の状態だけを、妙に正確な輪郭で言い当てられた気がした。
曖昧にして、空気だけ読む。
そんなつもりはなかった。
少なくとも昨日までの自分は、そうではなかったはずだ。
だが今朝、提出物の話を後回しにした一拍には、たしかにそれがあった。
教室は静かだった。
さっきまでの薄い笑いがすっと引いて、今度は別の意味で全員がこちらを見ている。湊の言葉をどう受け取るべきか、まだ決めきれていない時の静けさだ。
早乙女だけが、少し首を傾げたまま笑っていた。
面白がっているのか、様子を見ているのか、そのどちらとも取れる顔で。
「先生、それ白金さんに厳しくない?」
軽い声だった。
やんわり庇うふうを装っている。装っているだけだと、もう結愛にもわかる。
先生は肩をすくめた。
「委員長に甘やかしは不要だろ。仕事熱心なんだし」
また、笑いが起きる。
今度の笑いは昨日ほど露骨ではない。けれど、そのぶん余計に日常へ馴染んでいた。
ちょっとした朝のやり取り。
少し気まずくて、少し面白い会話。
そういう顔をしながら、結愛の立つ場所だけをじわじわ削っていく。
「……確認は以上です」
結愛はそう言って座った。
自分の声が少しだけ早口だったことに、座ってから気づいた。
隣で瑠海がちらりとこちらを見る。心配している顔だった。だが、その心配を受け取る余裕は今の結愛にはなかった。
湊は出席簿を開き、どうでもよさそうな顔で出欠を取り始める。
教室も、何事もなかったみたいに次の時間へ移っていく。
だが結愛には、自分だけがそこへうまく戻れていないのがわかった。
たった今、自分は何をしたのだろう。
先生に指摘され、早乙女に拾われ、教室に見られて、それで結局、何も言い返せなかった。
言うべきことを言うどころか、言わない自分を守るための言い訳ばかりしていた。
ノートの上へ視線を落とす。
紙の白さが、やけに目に痛かった。
真面目で、正しくて、それでどうにかやっていけると思っていた。
少なくとも、それを崩さなければ、自分は自分でいられると思っていた。
なのに今は、その“正しさ”の持ち方そのものが、少しずつわからなくなり始めている。
そしてその揺れを、たぶんこの教室はもう見逃していない。
神代湊の出欠確認は、いつも通り雑だった。
名前を呼ぶ。
返事があれば生存、なければ欠席か面倒くさい事情、くらいの精度でしか世界を見ていない声だった。教師としてはだいぶ終わっている。終わっているが、いまの結愛にはその雑さに救われる部分もあった。
厳密に見られないこと。
励まされないこと。
気遣われすぎないこと。
そういうものの方が、今日の自分にはまだ耐えられた。
だが、耐えられることと、平気でいられることは別だ。
*
一時間目の英語が始まっても、結愛の集中はところどころで切れた。
教科書は読める。文法も追える。教師の質問にも答えられる。頭そのものが止まっているわけではない。ただ、そこへ向かうまでにほんの一拍だけ遅れが生じる。その遅れが、自分の中ではひどく目立った。
当てられて立ち上がる。
答える。
座る。
それだけの一連の動作の最中にすら、背中のどこかで「真面目」「怖い」「説教くさい」という単語がまだ薄く鳴っている気がした。
もちろん、実際に誰かが囁いたわけではない。
それでも一度ついた色というのは、周囲より先に自分自身の内側へ染み込む。誰も何も言っていなくても、言われる前提で身体が反応するようになる。
英語の教師は、結愛の答えに満足そうに頷いた。
「はい、正解です。白金さんは相変わらず丁寧ですね」
それだけだ。
普通なら、むしろ安心するはずの言葉だった。
なのに、教室の後方で誰かのシャーペンが机へ当たって鳴った小さな音に、結愛は必要以上に反応してしまった。
笑われたわけではない。
何か言われたわけでもない。
だが、そうではないと確認するために一瞬でも意識を後ろへ向けた、その事実自体がもう嫌だった。
*
昼休み、結愛は弁当箱を開く前に、一度だけ配布棚の前で立ち止まった。
進路希望調査の未提出者。
確認だけなら、いまでもできる。
名簿を見ればすぐわかる。声をかけるべき相手も、何を言うべきかも、全部知っている。
知っているのに、足が動かない。
違う。
動かないのではない。
動くことの意味を、一度考えてしまうのだ。
昨日までなかった無駄な思考が、いまは必ず間へ入る。
今ここで声をかければ、また「真面目だね」と笑われるだろうか。
あるいは「委員長って感じ」と、あの柔らかい声で処理されるだろうか。
その程度のことで怯んでいるのかと、自分で自分に腹が立つ。
「……結愛ちゃん」
後ろから、瑠海の小さな声がした。
振り向くと、瑠海は購買のパンを二つ抱えたまま、こちらを見ていた。
片方はたぶん自分の分で、もう片方は迷って結局両方買ってしまったか、あるいは最初から誰かと分けるつもりだったのか。そこまではわからない。ただ、その頼りない立ち方は、声をかけていいのか迷った末にようやく呼んだ人間のそれだった。
「何?」
「その……席、戻る?」
「……うん」
結愛は名簿から目を外した。
外した瞬間、逃げたみたいだと思った。
席へ戻る途中、後方の一角から笑い声が聞こえた。
早乙女たちだ。内容までは聞き取れない。だが、はじけるほど明るくもなければ、陰湿なほど低くもない、ちょうど人の神経へ引っかかりやすい温度の笑いだった。
結愛が席に着くと、瑠海がおずおずとパンを差し出した。
「……食べる? こっち、二つ買っちゃって……」
「え?」
「べ、別に無理してじゃないからね。ほんとに、なんか、気づいたら二つ取ってて……」
たぶん嘘だろう、と結愛は思った。
気づいたら二つ取るような子ではない。瑠海はもっと、自分の財布の中身にも、周囲の目にも気を遣う。
だからこれは、不器用な気遣いなのだろう。
そう理解した瞬間、結愛は少しだけ胸が苦しくなった。
「……ありがとう。でもお弁当あるから、大丈夫」
「あ、う、うん……そっか」
瑠海は慌ててパンを引っ込めた。
断ったこと自体は間違っていないはずなのに、その子の指先が少しだけ行き場を失ったみたいに見えて、結愛はすぐに言葉を足した。
「でも、放課後お腹すいたらもらうかも」
「え? あ、うん……じゃあ、その時まだ残ってたら……」
会話としては、ひどくぎこちなかった。
けれどそのぎこちなさが、かえって少しだけ人間らしく思えた。
しばらくして、結愛は弁当を開いた。
卵焼き、ブロッコリー、昨夜の残りのきんぴら。見慣れた中身だ。箸を持つ。口へ運ぶ。味はする。だが、何を食べても半歩遅れて舌へ届くような感じがあった。
向かいの席では男子がゲームの話をしている。斜め後ろでは誰かが新作の動画について笑っている。後方の早乙女たちも、もう昨日や今朝のことなど一ミリも気にしていないような声で話していた。
そう。
気にしていないのだ。
たぶん本当に、彼女たちにとってはその程度のことなのだろう。
軽く笑って、軽く押して、少し立ち位置をずらす。
その手つきにいちいち罪悪感を持たない人間の方が、こういう場所では強い。
「……提出、確認しなくていいの?」
ぽつりと瑠海が言った。
結愛の箸が止まる。
「……するよ」
「ご、ごめん、責めてるわけじゃなくて」
「わかってる」
少しだけ強く言ってしまってから、結愛は唇を噛んだ。
瑠海はすぐ「うん」と引き下がる。その引き下がり方が、また結愛を苛立たせた。
違う。苛立ちの矛先は瑠海ではない。そんなことくらいわかっている。
わかっているのに、自分がいま一番嫌っている“曖昧な空気の読み方”を、こういう時だけ自分もしてしまう。
「……ごめん」
「ううん」
また、それだ。
ごめん。
ううん。
大丈夫。
そういう言葉ばかりが行き来して、肝心のことにはどこまでも届かない。
*
午後の授業は、さらに長く感じられた。
物理的な時間は同じはずなのに、チャイムからチャイムまでのあいだが妙に伸びる。黒板の文字を書く音、ページをめくる音、机のきしみ。そういう細部だけが必要以上に耳へ残る。
それでも、一日は進む。進んでしまう。
六時間目が終わり、帰りのホームルームの時間になっても、結愛はもう朝のように迷わなかった。
迷わない、というより、迷っていること自体が嫌になっていた。
ノートを持って立ち上がる。
「進路希望調査、まだの人は今週中までにお願いします。あと、来週の委員会は――」
最後まで言い切る。
途中で誰かが笑っても、今朝ほど喉は止まらなかった。
ただ、その代わりに声が少しだけ固くなっていたのは、自分でもわかった。
ホームルームが終わる。
椅子が鳴る。
鞄を持つ音が重なる。
そのざわめきの中で、早乙女が隣の子へ向かって何気なく言った。
「やっぱ白金さんってブレないよね」
褒め言葉みたいな調子だった。
でも、そのあとに続いた「それはそれで強いかもね」という一言まで含めて、結愛にはどうしても好意としては聞こえなかった。
ブレない。
強い。
そういう言葉でさえ、この教室ではもう、自分を少し外側へ押し出すための札になりうるのだと理解してしまったからだ。
放課後、教室に残ったのは数人だけだった。
黒板の隅を消し、配布物を確認し、いつもの委員の仕事を一つずつ片づけていく。
作業そのものは単純で、だからこそ余計なことを考えずに済むはずだった。
だが、教卓に置かれた進路希望調査の未提出者名簿に目を落としたところで、結愛の手は止まった。
チェックがついていない数名の名前。
昨日までなら、名簿を持って直接席まで行き、「明日までに」と当然のように言えていたはずだ。
なのに今は、その名前を見るだけで、声をかけた時の相手の反応や、周囲の空気を想像してしまう。
たった一日のことなのに。
たった一回、笑われただけなのに。
どうしてこんなに、言葉を出す前に考えるようになってしまったのだろう。
正しさは、もっとまっすぐ使えるものだと思っていた。
なのに今は、言う前に「この場でどう聞こえるか」を考えてしまう。
その事実が、何より悔しかった。
「名前眺めてりゃ、白紙のプリントが勝手に埋まるシステムなのか」
不意に降ってきた声に顔を上げると、すぐそばに神代先生が立っていた。
いつからいたのかはわからない。相変わらず気配の置き方が雑なくせに、見ているところだけは妙に正確な男だと思う。
「……そんなわけありません」
「なら、さっさと催促してこい。それとも、オレが代わりに回収して回るか?」
その言葉に、結愛は反射的に首を振った。
「私がやります……あとで、ちゃんと確認しますから」
言ってから、結愛は自分で自分の言葉に絶望しそうになった。
『あとで確認する』
今朝のホームルームで逃げた時と、まったく同じ言い訳だった。
言うべきことを言えない自分を取り繕うための、いちばん都合のいい言葉。先生の目をまっすぐ見られず、結愛は名簿へ視線を落とした。紙を持つ指先が、ほんの少しだけ震えているのがわかった。
湊はそれを見て、小さく鼻を鳴らす。
「今日で終わったと思うなよ」
「……え?」
「最初の一回ってのは、だいたいそんなもんだ。派手じゃない。だから周りは“別に大したことじゃない”顔をする。で、本人だけが妙に長く引きずる」
結愛は顔を上げた。
何を言われているのかはわかる。わかるからこそ、すぐには返せない。
「……先生は、昨日も今日も、ずっと見てただけですよね」
気づけば、そう言っていた。
湊の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「そうだな」
「止めようと思えば、止められたでしょう」
「止めたら、お前が救われたか?」
結愛は答えられなかった。
即答できると思っていたのに、実際に問われると喉が詰まった。
昨日あの場で先生に庇われていたら、自分は楽になっていただろうか。
たぶん、一瞬は。
だがそのあと、この教室がどんな顔をしたかは、うまく想像できなかった。
先生はそれ以上追い打ちをかけなかった。
ただ、教卓の上へ文庫本を置いて、窓の外を一度だけ見た。
「正しいことを言ってりゃ勝てる場所なら、世の中こんなに腐ってない」
静かな声だった。
諭すでもなく、慰めるでもなく、ただ事実として置くだけの声。
「でもな」
そこで少しだけ、こちらを見る。
「だからって、昨日のお前が間違ってたわけでもない」
その言葉に、結愛は一瞬だけ息を止めた。
救いの言葉ではない。
答えでもない。
けれど、昨日からずっと胸の底へ沈んでいたものの上へ、ようやく手が届いた気がした。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
自分でも驚くほど素直な声だった。
湊は肩をすくめる。
「知らん。オレは相談室のぬいぐるみじゃない」
「……最低ですね」
「知ってる」
そこで初めて、結愛の口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。だが、完全な無表情でもなくなった。
湊はそれを見ても特に何も言わず、文庫本を持ち上げた。
「帰れ。委員長業は明日も逃げない」
「……はい」
結愛は名簿を閉じた。
鞄を持ち、教室を出る前に一度だけ振り返る。
夕方の光の中で見る教室は、朝や昼とは少し違って見えた。
机も黒板も、窓の外のグラウンドも、何も変わっていない。変わっていないのに、昨日までと同じ場所へはもう戻れない気がした。
自分の立ち位置が少し変わった。
正しさをそのまま前へ出すだけでは、この教室では簡単に笑いの方へ回収される。
そのことを、もう知ってしまったからだ。
廊下へ出る。
少し先で、瑠海が待っていた。
「あ……終わった?」
「うん」
「その……帰ろ」
「……うん」
二人で並んで歩き出す。
会話は、しばらくなかった。
それでも結愛は、今朝よりは少しだけましに息ができる気がしていた。
何も解決していない。
早乙女も、教室の空気も、昨日と何も変わっていない。
自分だって、まだ怖い。
ただ一つだけ、前と違うことがあるとすれば。
自分がもう、このままではいられないと知ってしまったことだけだった。
*
昇降口へ向かう途中、結愛と瑠海のあいだには、しばらく言葉がなかった。
靴箱の並ぶ廊下は、放課後特有のざわめきに満ちている。
部活へ向かう生徒の声。階段を駆け下りる足音。誰かが忘れ物を取りに戻る気配。校舎そのものはいつも通りだった。今日だけ世界の色が変わったわけではない。
変わったのは、自分の方なのだろうと結愛は思う。
先に口を開いたのは瑠海だった。
「……さっきの先生、ちょっとだけ優しかったね」
結愛は一瞬、何のことかわからなかった。
けれどすぐに、日誌の前での湊の言葉を思い出す。
『だからって、昨日のお前が間違ってたわけでもない』
あれを優しいと呼ぶのかは、正直よくわからない。
慰めでもなければ、励ましでもない。ただ事実を置いただけだ。けれど、少なくともあの人は、昨日の自分を“間違い”とは言わなかった。
「……優しい、のかな」
「神代先生にしては、って意味だけど」
瑠海は少しだけ口元を緩めた。
その笑い方は、いつもよりほんの少しだけ自然だった。
「いつも、もっと嫌そうじゃない?」
「それはわかる」
結愛もつられて、わずかに息を漏らした。
笑ったというほどではない。ただ、胸の奥に張りついていた固いものが、ほんの少しだけ剥がれた気がした。
だが、その直後に結愛は気づいてしまう。
瑠海がいま、わざと少しだけ軽い話題を選んだことに。
自分を気遣って、先生の話へ逃がしたのだということに。
その優しさがありがたい一方で、どうしようもなく苦しかった。
気を遣わせている。
もう、そういう位置に自分は立ってしまっている。
昇降口で靴を履き替える。
周囲にはまだ何人も生徒がいて、誰が誰を見ているのかなんて本当はわからないはずなのに、結愛はどうしても背中のあたりが落ち着かなかった。
誰も見ていないかもしれない。笑っている声だって、自分とは関係ないのかもしれない。
それでも一度「見られる側」へ置かれた人間は、しばらく何もかもを自分に結びつけてしまう。
「……結愛ちゃん」
校舎を出たところで、瑠海がまた小さく呼んだ。
「今日、うち寄ってく?」
「え?」
「その……たいしたものないけど、お茶くらいなら出せるし……。あ、でも無理なら全然、ほんとに」
言いながら瑠海は、いつものように自分の提案を自分で引っ込めかけている。
結愛は足を止めた。
たぶんこれは、かなり勇気を出して言ってくれた言葉なのだろう。
瑠海は、人を自分の領域へ誘うことに慣れているタイプではない。自分の席から誰かの席へ行くことすら、いつも少しだけ緊張している子だ。
その子が、いまこうして自分を家へ誘っている。
結愛は、一瞬だけ迷った。
行きたいかどうかで言えば、たぶん行きたかった。
今日このまま一人で帰れば、頭の中で昨日と今日の言葉ばかりが反芻されるのは目に見えている。
誰かと一緒にいた方が、少しは楽なのかもしれない。
けれど次の瞬間、その考えを押し返すように、別の感情が胸の中へ浮かんだ。
甘えていいのだろうか。
いまの自分は、瑠海にまで支えてもらわないと立てないほど、そんなふうに見えているのだろうか。
「……ごめん、今日はやめとく」
口から出たのは、結局その言葉だった。
瑠海の表情が、ほんの少しだけ曇る。
落胆というほどではない。ただ、自分の差し出したものが届かなかった時の、ごく小さな揺れ。
「そ、そっか。ううん、急に言ってごめんね」
「違うの。そうじゃなくて……ちょっと一人で整理したくて」
それは半分本当で、半分は違った。
本当のところ、自分でもどちらが大きいのかわからない。
瑠海は数秒だけ結愛を見たあと、小さく頷いた。
「……うん。わかった」
それ以上は何も言わなかった。
言わないことが、この子なりの優しさなのだと結愛にはわかる。
わかるからこそ、また少しだけ胸が痛んだ。
校門の前で二人は別れた。
「じゃあ、また明日」
「……うん。また明日」
瑠海が手を小さく振って、先に歩き出す。
その背中を見送りながら、結愛はしばらくその場に立ち尽くしていた。
明日。
簡単な言葉だ。
けれどその「明日」の中に、また同じ教室がある。
同じ席順があり、同じ笑いがあり、同じ沈黙がある。
そしてその中へ、自分はまた入っていかなければならない。
帰り道、結愛は何度も今日のことを思い返した。
朝、提出物の話を避けたこと。
湊に見抜かれたこと。
早乙女に『優しい』と笑われたこと。
どれも小さい。
本当に小さい。
だが、その小ささこそが嫌だった。
もし大きな事件でもあれば、まだ話は単純だ。
誰かが悪くて、自分が傷ついて、だから苦しいのだと整理できる。
だが現実には、そうではない。
誰も明確には悪くない顔をしている。早乙女だって、教室だって、たぶん学校そのものだって。
そのくせ、自分の中では確かに何かが削られている。
結愛は歩道橋の途中で立ち止まった。
眼下を車が流れていく。夕方の道路は、どこまでも普通だった。
「……怖い」
気づけば、そう呟いていた。
声に出した瞬間、自分で少し驚いた。
正しいとか、悔しいとか、腹が立つとかではなく、まずそこへ言葉が落ちたことに。
怖い。
教室が。
早乙女が。
笑いが。
そして何より、その全部を前にして、少しずつ言うべきことを言えなくなっている自分が。
結愛は手すりへ指先をかけた。
冷たかった。その冷たさが、少しだけありがたい。
自分は間違っていない。
そう思う。
思うのに、その正しさだけではもう足りない場所にいるのだとも、はっきりわかってしまっている。
それが、こんなにも苦しい。




