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5話  『最初の処刑』

 三時間目の倫理の少し前、二年二組の教室は、すでにいつもの静けさの中にあった。


 静か、という言い方は正確じゃない。

 音がないわけではない。囁き声も、椅子を引く音も、紙をめくる音もある。

 ただ、そのどれもが妙に輪郭を殺されていて、教室全体の表面へ均されている。

 水面だけが異様に静かで、その下では見えない流れが足首へ絡んでくる。

 そういう種類の沈黙だった。


 オレは廊下側の窓から、数秒だけ中を眺めた。


 前の方では、白金結愛がノートを開いていた。前の授業の板書でも写しているのだろう。教科書の角、定規、筆箱の位置まで妙に整っていて、その几帳面さが本人の性格を説明しすぎるくらいには説明していた。

 ああいう人間は、何かを揃えることで自分まで保っている。

 面倒くさいが、嫌いではない。ああいう手合いほど、いざ壊れる時は派手だからだ。


 その隣で、月峯瑠海が消しゴムを指先で弄っている。

 使うでもなく、ただ向きを変え、角を合わせ、また置き直す。それを二度、三度と繰り返す。意味のない動作へ神経を逃がしている時の手つきだった。人間は追い詰められると、案外そういうどうでもいいものへ執着する。髪を触る、シャーペンを回す、机の木目をなぞる。自分では制御できない何かの代わりに、指先で制御できるものを探すのだ。


 後方では、早乙女の一角だけ空気の密度が違って見えた。

 笑っているわけでも、騒いでいるわけでもない。なのに、あの一帯を中心に教室全体の温度が決まっているのがわかる。太陽というほど露骨ではない。もっと湿っぽくて、じわじわ広がる低気圧に近い。誰もが、そこへ背を向けたまま、しかし確実に意識している。


 相良は窓際に肘をついて、退屈そうに外を見ていた。

 ああいう人間は便利だ。本人が何もしなくても、そこにいるだけで空気へ物理的な圧力を足してくれる。言葉だけでは足りない時、群れというのはたいてい圧を必要とする。


 今日も平常運転だった。


 オレはドアを開けた。


 一斉に、とは言わない。

 だが、教室のほぼ全員が一度だけこちらを見る。そして次の瞬間には、綺麗に視線を逸らす。

 あまりに見事で、もはや訓練の成果にすら思えた。教師を見る。状況を確認する。長くは見ない。関心があるとも敵意があるとも取られない速度で切る。

 この教室では、視線ひとつにもすでに礼儀ではなく生存の技術が染みついている。


「……おはよう」


 返事はなかった。


 別に傷つきはしない。今さら教師らしい親愛の確認を求めるほど純情でもない。

 ただ、ここでは返事をすること自体が、ちょっとした意思表示になるのだろうとは思った。目立つ理由がないなら目立たない。沈黙の中へ溶け込んでいた方が、だいたいの人間は安全だ。


 オレは教壇へ立った。

 持ってきたプリントの束を置き、チョークには触れない。教科書も開かない。


 その何気ない動作の欠落を、白金結愛だけはすぐに察したらしい。前列から、まっすぐにこちらを見る。

 真面目な生徒ほど、いつもあるはずの手順が抜けた時によく気づく。世界は手順で成り立っていると、本気で信じているからだ。


「今日は自習だ」

 

 怠けたかったのも本当だが、それだけでもなかった。

 

 教室の空気が、ごくわずかに揺れた。


 ざわめき、というには小さい。

 ただ、密閉された水槽へ小石をひとつ落とした時みたいに、目には見えない浅い波が広がる。

 後方で誰かが肩を揺らし、相良が「マジかよ」と声を漏らした。別の席では、あからさまに安堵したように背もたれへ体重を預ける気配がある。早乙女の口元も、退屈しのぎを見つけた時のそれに近い形でわずかに緩んだ。


「プリントは配る。終わったやつは寝るなり、己の内面と対話するなり好きにしろ。倫理の授業としてはむしろ正統派だ」


「いや絶対違うだろ」


 後ろから相良が即座に突っ込む。

 笑いが起きた。

 乾いてはいるが、さっきまでの沈黙よりはずっと生き物らしい笑いだった。教師が先に枠の方を崩してくれたことで、しばらくは誰も責任を負わずに済む。そういう安堵が混じっている。


「違うな。でも学校ってのは、たまに教師が堂々と間違ったことを言い切ることで回っている」


「終わってんなこの学校」


「今さら気づいたのか。見込みあるぞ」


 もう一度、小さな笑いが散る。

 重たい空気へ、一瞬だけ裂け目が入る。


 だが、その裂け目は長くは保たなかった。


「……先生」


 前の方から、声がした。


 白金結愛が立っていた。


 やはり真っ直ぐだな、とオレは思った。

 誰かを責めるための立ち方ではない。そうするのが当然だと思っている人間の立ち方だった。だからこそ、こういう場所では過剰に目立つ。歪んだ空間において、真っ直ぐな線はそれだけで異物だ。


「何だ」


「自習って……まだ範囲、そこまで進んでませんよね」


「ああ」


「それじゃ、他のクラスより遅れます」


 言い方は穏やかだった。

 感情的ではない。ただ、自分が当然だと思っている秩序の穴を指しているだけだ。

 そういう正しさは、普通の教室ではそこまで嫌われない。少し煙たがられはしても、筋が通っている以上、露骨に笑われたりはしない。少なくとも建前の上では。


「遅れたら、あとでやればいい」


「そういう問題じゃなくて」


 白金はそこで一度、言葉を切った。


 切った、というより、踏みとどまったのかもしれない。

 今この場でさらに先へ進めば、単なる確認ではなく対立へ変わる。その境目くらいは、さすがに彼女も察しているのだろう。

 だが結局、引かなかった。


「授業を進めるのは先生の仕事です。自習にするにしても、せめて範囲の説明とか、やることの確認とか、もう少しちゃんとしていただかないと」


 言い終わったあと、教室は妙に静かだった。


 誰もすぐには笑わない。

 誰もすぐには何も言わない。

 そこが、むしろこの教室らしかった。


 もし誰かがここで露骨に噛みつけば、まだ話は単純だ。悪意が前へ出るぶん、構図も見えやすい。だが実際にはそうはならない。いったん全員が間を取る。発言の正しさと、この場にそぐわなさを秤へ載せ、どちらの顔で反応すべきかを測る。その一拍がある。


 そして、その一拍ののちに最初に空気を動かしたのは、やはり早乙女だった。


「白金さん、今日もちゃんとしてるねえ」


 柔らかい声だった。

 責めてもいないし、怒ってもいない。むしろ感心しているようにすら聞こえる。だから厄介だ。悪意は露骨であればあるほど処理しやすい。笑顔のまま投げられるものほど、受け手だけが自分の被害を証明しづらい。


 白金の肩が、ほんのわずかにこわばる。


「別に、私は……」


「ううん、いいこと言ってると思うよ? ちゃんと授業してほしいんでしょ」


 早乙女は頬杖をついたまま、きれいに笑った。

 その笑顔には、どこまでが好意でどこからが値踏みなのか判別しづらい余白が、いつも同じ分量だけ残されている。


「白金さんって、そういうの大事だもんね。ルールとか、提出物とか、遅れないこととか」


 それだけなら、ただの理解ある言葉にも聞こえたかもしれない。

 だが、その直後にどこかで小さく笑いが漏れた。

 すぐ横ではない。教室の少し後ろ、輪の外縁にいる誰かが、空気の正解を確認したうえでようやく乗った時の笑いだ。

 その小さな音が、早乙女の言葉が擁護ではないことを、むしろ丁寧に証明していた。


「自習でよくない?」

「ラッキーじゃん、むしろ」

「そこで止めるんだ、って感じ」


 今度は別の席から。

 一つひとつの言葉は軽い。刃物というより、湿った紙みたいに頼りない。だが頼りないものほど、枚数が揃うと呼吸を塞ぐ。

 誰も本気で殴ってはいない。殴っていないという形を保ったまま、じわじわと一人の立ち位置だけを削っていく。


 白金はまだ立っていた。

 その真っ直ぐさは変わらない。変わらないが、さっきまでと同じ意味ではない。今やそれは、ただの姿勢ではなく、教室全体に対する微弱な抵抗として見えてしまう。


「……止めたいわけじゃありません」


 声は、かろうじて平静を保っていた。


「ただ、先生なんだから、授業はちゃんとした方が――」


「うわ、まだ行くんだ」


 早乙女が、少しだけ驚いたように言う。

 本当に驚いたわけではない。驚いた顔を作ることで、「ここで止まらない方がおかしい」という空気を先に置いただけだ。


「白金さんってほんと真面目だね」

「委員長って感じ」

「なんかさ、正論なんだけど重いんだよね」

「空気悪くしない程度に言ってくれると助かるかも」


 最後の一言に、数人が曖昧に笑った。


 空気が悪い。

 便利な言葉だと思う。

 それを口にした瞬間、正しさも誤りも全部後ろへ下がる。誰が筋を通しているかではなく、誰がこの場を息苦しくしたかだけが前へ出る。悪意の証明もいらない。自分はただ“疲れる”とか“雰囲気が悪い”と感じただけだと言えば済む。そのくせ相手だけは簡単に、面倒で、配慮がなくて、ちょっと厄介な人間へ変わる。


 月峯瑠海が、隣で小さく肩をすくめた。

 言葉を挟みたいのか、それともただこの流れが怖いだけなのか、たぶん両方だろう。だが彼女は何も言えない。言えば今度は、自分の輪郭がこの空気の中へ浮かび上がってしまうからだ。


 白金の指先が、机の端でわずかに強張る。


「……無責任です」


 小さい声だった。

 けれど、今度はさっきよりもはっきりしていた。


 その瞬間、教室がもう一度、しんと静まった。


 笑いが一拍だけ止まる。

 誰もが、その言葉の強さを測っていた。

 教師に向けた非難としてではない。この場でなお“正しさ”を引っ込めないことの危うさとして。


 そして、次の瞬間には、予定調和みたいに笑いが戻る。


「うわ、無責任って」

「朝から重っ」

「そこまで言う?」

「正論で殴ってくるタイプだよね、白金さんって」


 今度の笑いは、さっきまでより少しだけ明確に彼女へ向いていた。

 ふざけているようでいて、もう十分に処刑として成立している。誰か一人を「正しいが、場を悪くする人間」として全体の前で位置づけ、その認識を共有する。ここで本当に恐ろしいのは、怒号でも暴力でもない。こういう形で一度色がついてしまうことだ。


 オレは教卓の脇に寄り、黙ってその光景を見ていた。


 止めようと思えば、止められる。

「静かにしろ」と言い、早乙女たちを牽制し、白金には「もう座れ」と告げれば、表面上の秩序だけならすぐ戻る。

だが、そのあとに何が残る。


 教師に庇われた白金は、この教室の中でさらにわかりやすい位置へ固定されるだけだ。

 空気を読めないやつ。

 正しいことを振りかざすやつ。

 しかも最後は先生まで持ち出したやつ。


 そうなった時、この場で一番気持ちよくなるのは誰か。

 白金でも瑠海でもない。たぶん「ちゃんと対処した教師」という顔を手に入れるオレ自身だ。

 反吐が出る。


 もちろん、だから何もしない自分が高尚だとも思わない。

 ただ、ここで介入することが白金を救う手つきには、どうしても見えなかった。


「……先生」


 白金が、今度はこちらを見た。


 助けを求めたわけではないのだと思う。

 たぶん確認だ。

 自分の言っていることは間違っていないはずだ、と。制度の側に立つ教師なら、そこだけは認めるはずだと、そう信じたかったのだろう。


 教室中の視線が、今度はオレへ集まる。

 早乙女も笑みを消さないまま黙った。

 瑠海だけが、息を止めるみたいに小さく固まっている。


 オレは教卓の上のプリントを一枚つまみ、そこでようやく口を開いた。


「白金」


「……はい」


「お前は正しい」


 その一言で、教室の空気が凍った。


 白金自身も、少しだけ目を見開く。

 予想していなかったのだろう。少なくとも、否定されるよりは幾分ましな返答を受けた顔ではあった。


 だが、そこで終わらせるほど親切ではない。


「正しいが、説教くさい」


 数拍遅れて、笑いが戻った。


 今度は、さっきまでより少しだけ大きい。

 張りつめていた何かが、一番安全な角度から切られたからだろう。

 白金の正しさそのものは否定されない。

 だが、その正しさがこの場でどう聞こえているかだけは、残酷なほど明るい場所へ引きずり出される。


「ほらやっぱり」

「先生も言うじゃん」

「説教くさいって自覚ないタイプなんだ」


 早乙女は勝ち誇った顔をしなかった。

 ただ、空気が自分たちの側へ戻ってきたことを確認するみたいに、静かに笑っていた。


 白金の表情が、そこで初めてわずかに崩れた。


 怒りとも、羞恥とも、失望ともつかない。

 ただ、自分の立っていた場所の輪郭が、思っていたより脆かったと知った時の顔だった。


 オレはそれを見たうえで、何も付け足さない。


「……で、自習は自習だ。プリントやれ。寝るならせめて堂々と寝ろ」


 教室のあちこちで、薄い笑いがまた散る。

 相良は早々に椅子へもたれ、誰かがシャーペンを鳴らす。早乙女の周辺では、もう次の雑談が始まりかけている。


 空気は元に戻ったように見えた。


 だが実際には、何一つ戻っていない。


 白金だけが、まだ立っていた。

 月峯瑠海がそっと制服の袖を引く。その動作は声より小さく、意思表示としてはあまりにも弱い。だが、それでも彼女なりの抵抗だった。


 白金はその弱い力に押されるようにして、ようやく席へ座った。


 ゆっくりと。

 自分の足場が今どれくらい崩れたのかを、まだうまく理解しきれていない人間の動きで。

 それからの時間は、奇妙なくらい静かに流れた。


 静か、というより、均された、という表現の方が近いかもしれない。

 さっきまで教室の表面にさざ波みたいに立っていた笑いも、今はすでに消えている。誰も白金を見ない。誰も何も言わない。各自がプリントへ視線を落とし、シャープペンを走らせ、あるいは考えるふりをし、あるいは考えることすら放棄して、ただ「授業中らしい顔」をしている。


 見事なものだった。

 人間は案外、残酷なことの直後ほど整然と振る舞える。むしろ直後だからこそ、なのかもしれない。今ここで誰かが妙な気遣いを見せれば、それ自体が「何かあった」ことを認める行為に なる。だから全員が何もなかった顔をする。

 その何もなさの完成度が高いほど、直前に起きたことの陰湿さだけが際立つ。


 白金結愛は、プリントを見ていた。

 見てはいるが、読んではいない。

 そういう視線というのは、外からでも案外わかる。紙の上へ落ちているだけで、内容には入っていない目だ。焦点が、文字の少し手前で止まっている。

 右手にはシャープペンが握られていたが、しばらく先は動かなかった。


 月峯瑠海は、その隣でいつも以上に小さくなっていた。

 教科書へ視線を落としている。落としてはいるが、たぶん半分くらいは隣を気にしている。人は本当に気になるものほど、露骨には見ない。見ていると相手に伝わるし、見ている自分自身の立場まで決まってしまうからだ。


 後方では相良が、開始五分でもう半分飽きていた。

 プリントの余白へ何か描いている。文字か、落書きか、その両方か。早乙女の周囲では小さな囁きが二度ほど交わされたが、それもすぐに消えた。あそこはあそこで優秀なのだ。必要以上に引っ張らない。白金へ色がついたと確認できた時点で、もう次の雑談へ関心を移せる。

 狩りのあと、獣がいつまでも獲物を見ていないのと似ていた。見続ける必要がないからだ。空気の側がもう仕事をしてくれると知っている。


 オレは文庫本を開いた。

 開いただけで、ほとんど読んではいない。


 昔、研究室にいた頃のことを少し思い出した。

 学会発表の場で、ある院生が指導教官の理論へごく妥当な疑義を挟んだことがあった。内容はまともだったし、むしろ議論としては歓迎されるべきものだったと思う。だが、その場で起きたことは討論でも検証でもなく、もっと粘ついた種類の排除だった。

 誰も正面からは怒らない。誰も「君は間違っている」とはっきり言わない。ただ、苦笑が走り、論点がずらされ、「そういう青さも若いうちは必要だね」といった手垢のついた言葉で包まれ、気づけばその院生は「内容はともかく、少し空気を読めない危うい人間」という位置へ押し込まれていた。

 そのあと彼が何を言っても、もう最初の色がついて回った。


 理性の顔をした猿山。

 つくづくあの頃の記憶はろくでもない形で役に立つ。


 教室を見渡す。

 ここで起きていることは、構造としてはあれとほとんど同じだ。ただ、向こうはスーツを着た大人たちが、引用と権威と婉曲表現でやっていた。こっちは制服を着たガキどもが、笑いと沈黙と「空気が悪い」という便利な札でやっている。

 年齢が下がるぶん、むしろ輪郭だけは鮮明だった。


 白金のシャープペンが、ようやく動いた。

 だが、最初の一行を書いたところで止まる。書いたのは答えではなく、どうでもいい余白の位置調整みたいな線だった。本人も気づいていないだろうが、たぶん頭の中がまだ「問題を解く」場所へ戻れていない。


 オレは本へ視線を落としたまま言った。


「白金」


 肩が、小さく揺れた。

 呼ばれると思っていなかったのだろう。あるいは、もう今日はこれ以上何も触れられたくなかったのかもしれない。


「……はい」


「プリント、三問目。設問がややクソだから、答えにくかったら言え」


 白金は少しだけ間を置いてから、「……わかりました」と答えた。


 それだけだ。

 慰めでもなければ、さっきの埋め合わせでもない。実際、設問は少しクソだった。倫理の問題というのは、作る側が気取るとすぐにそうなる。

 ただ、今この教室でオレが白金へ渡せるものがあるとしたら、「いつも通り授業の文脈に乗せること」くらいしかなかった。救済ではない。単なる処理の継続だ。

 それでも、彼女の呼吸がほんの少しだけ戻ったのは見て取れた。


 早乙女の方では、誰かが小さく「設問がクソは草」と囁いていた。

 笑いにはならない。

 ならないことの方が重要だった。ここで大きく笑えば、また空気が露骨になる。だから、あくまで日常の端へ押し戻す。その手際が、よく訓練された組織じみていて嫌になる。


 そのまま十分ほどが過ぎた。


 後方では一人、二人と露骨に手が止まり始める。自習というのは便利だ。やる気の差がそのまま姿勢の差になる。真面目な生徒は黙って問題を解き、そうでない連中は考えている顔だけをして時間を殺す。

 もっとも、この教室では真面目にやっている生徒の方が、別の意味で不器用にも見えた。


 白金は、その後なんとか書き始めていた。

 だが速度は遅い。普段の彼女ならもっと迷いがないのだろうと思わせる遅さだった。正答率ではなく、手の進み方にそういうものは出る。

 瑠海の方はというと、三問目までは順調そうだったが、四問目で止まっている。止まりながらも、止まっていることをごまかすためだけに、何度も教科書の同じ行を目でなぞっていた。

 可哀想なくらい器用じゃない。


 チャイムが鳴る少し前、相良がだるそうに手を挙げた。


「センセー」


「何だ」


「これ、提出ってマジ?」


「冗談でプリント配る教師がいたら逆に怖いだろ」


「いや、あんたならやりそうじゃん」


 教室のあちこちで小さな笑いが起きる。

 さっきまでとは違う、軽い笑いだった。誰かを生贄にして成立する種類ではない。だからこそ健全に見えるし、その健全さがかえって気持ち悪い。

 人間というのは、一時間のうちに残酷にも普通にもなれる。その切り替えの早さだけは、昔から感心する。


「安心しろ。提出だ。ついでに字が汚かったら人類扱いしない」


「判定基準が雑」


「倫理教師の採点なんてたいてい気分だろ」


「最低」


 後ろからまた笑いが散る。

 白金は、その軽い笑いの中にも入らなかった。入れない、の方が正しいかもしれない。さっき笑いの中心へ一度押し出された人間は、そのあとしばらく笑い方すら慎重になる。

 自分が口元を緩めた瞬間、それがどう見られるかを考えてしまうからだ。


 チャイムが鳴った。


「そこまで。後ろから回せ」


 ガタ、と椅子が鳴る。

 紙の擦れる音、プリントの束が前方へ集まってくる気配。いつも通りの授業終わりだ。いつも通りすぎて、逆に嫌になる。


 白金が自分のプリントを前へ出す時、ほんのわずかに手元が遅れた。

 瑠海がそれに気づき、何か言いかけてやめる。結局、二人とも無言のまま紙を重ねた。


 オレは束を受け取った。

 白金のプリントは、解答欄が一つだけ空いていた。見たところ難問でも何でもない設問だ。単純に、思考が追いつかなかったのだろう。


 だから何だという話でもある。

 一問空欄になったくらいで人生は変わらない。だが、こういう一問が積み重なっていく時、人間はじわじわ削られる。自分では大したことがないとわかっている傷の方が、案外あとまで残る。


 休み時間に入ると、教室はすぐいつものざわめきを取り戻した。

 誰かが次の授業の愚痴を言い、誰かが購買へ行くかどうか相談し、後ろでは相良が友人の肩を軽く叩いて笑っている。早乙女の周りも、もう完全に別の話題へ移っていた。コスメだか動画だか、どうでもいい話だ。

 白金の件を引っ張る必要は、彼女たちにはもうない。


 それでも、何も消えてはいなかった。


 白金は席を立たず、ノートの上へ視線を落としていた。

 瑠海が何度か口を開きかける。開きかけて、閉じる。あの子は本当に、核心へ触れる寸前でいつも自分の言葉を引っ込める。優しいのか臆病なのかと問われれば、たぶんどちらでもあるのだろう。大抵の人間は、その二つをきれいに分けて持ってはいない。


「……結愛ちゃん」


 ようやく、瑠海が小さく呼んだ。


 白金は少し遅れて顔を上げる。


「何?」


「その……次、数学だから、移動、ないし……」


「うん。知ってる」


 会話としては成立していない。

 だが瑠海の言いたかったことは、たぶんそこではない。「大丈夫?」と聞きたかったのだろう。けれど、その言葉を口にした瞬間、さっきの出来事へ名前を与えることになる。それが怖いから、どうでもいい確認事項みたいな形でしか話しかけられない。


 白金は一度だけ、ほんのわずかに笑おうとした。

 笑おうとして、失敗した。


「……ありがと。大丈夫だから」


 反射みたいな返答だった。

 本心かどうかはどうでもいい。こういう時、人はたいてい先に「大丈夫」と言う。そう言っておけば、自分も相手も、それ以上深く踏み込まなくて済むからだ。


 瑠海は「う、うん」と頷くしかなかった。


 オレは教卓でプリントを揃えながら、そのやり取りを横目で見ていた。

 介入する理由はない。というより、もう今さらどんな言葉を挟んでも、大人らしい正しさの匂いしかしないだろう。そういうものはたいてい、本人たちがもっとも要らない時に限って口をついて出る。


 次の授業の教師が来る気配がして、オレは教室を出た。


 廊下は明るかった。

 磨かれた窓、白い壁、手入れの行き届いた観葉植物。どこを見ても、この学園は金と品位に満ちた理想的な教育環境という顔をしている。

 その内側で、たった今、一人の優等生が「正しいことを言う生徒」から「場を悪くする説教くさい生徒」へ一段押し込まれたとしても、外から見える景色は何ひとつ変わらない。


 笑える話だ。


 学校という制度は、本当に便利にできている。

 何かが壊れていても、チャイムさえ鳴れば次の時間割が始まる。始まってしまえば、たいていの傷は「もう終わったこと」の顔をし始める。終わってなどいないくせに。


 オレはプリントの束を軽く持ち直した。


 白金結愛は、まだ折れていない。

 折れていないが、今日ので一段深く刺さったのは確かだ。

 しかも厄介なことに、あの手の人間は一度傷ついたくらいで、すぐ自分の正しさを手放したりはしない。手放さないからこそ、群れにとっては処理しづらい。

 処理しづらいものは、たいていもう少しだけ丁寧に削られる。


 その「もう少し」が始まるのは、きっと早い。


 階段の踊り場で足を止め、オレは窓の外を見た。

 中庭では下級生が何人か、のんきそうに歩いている。春の光はやけに白くて、何もかもが穏やかに見えた。


 穏やか、ね。


 視線を戻し、オレは小さく鼻を鳴らした。


 この学校の平穏というやつは、だいたい誰かが黙っていることで成り立っている。

 決められた時間割は、教室の空気がどう腐っていようと無慈悲に進んでいく。


 それが一番たちが悪い。

 もしあからさまな嫌がらせでもあれば、まだ話は単純だっただろう。教師が注意し、生徒指導が入り、誰かが被害者で誰かが加害者という、学校がもっとも愛するわかりやすい図式へ整理できる。

 だが実際には、そういう形にはならない。

 

     *

 

 英語の時間、白金結愛はいつも通り教科書を開き、いつも通りノートを取り、当てられれば淀みなく答えた。

 数学の時間も同じだ。黒板へ向ける視線は真っ直ぐで、筆記の速度も、おそらく彼女本来のそれへ近いところまで戻っていたのだろう。

 少なくとも、戻ろうとしていた。


 だが、一度ついた色というのは簡単には落ちない。


 教師が何か説明する。

 白金が頷く。

 たったそれだけの動きに、後方の誰かが「真面目だなあ」とでも言いたげな、あの薄い気配を乗せる。

 昼休み、提出物の確認で白金が誰かに声をかければ、そのたび相手の返事がほんの一拍だけ遅れる。

 遅れるくせに、内容は丁寧だ。

 「うん」「ありがと」「あとで出すね」

 どれも角がない。角がないからこそ、かえって距離だけがくっきり残る。


 人間は本当に器用だと思う。

 露骨に攻撃しないまま、しかし確実に「お前は少し扱いづらい」という情報だけを共有し続けられるのだから。


 昼休みの終わり頃、オレは廊下の窓際で紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいた。

 教師らしく食堂で栄養バランスの取れた昼食を摂る、みたいな高尚な習慣はない。カフェインと糖分が入っていれば、とりあえず昼の授業くらいまでは人間のふりができる。十分だ。


 教室の中では、席の配置そのままに小さな群れができていた。

 誰が誰の机へ寄るか、誰が誰を避けるか。こういう時間は権力がわかりやすい。

 早乙女の周りには、相変わらず人が集まっていた。笑い声は大きくないが、絶えない。必要以上に目立たず、それでいて周囲の耳は確実に引いていく類の笑いだ。

 相良はその少し外側で、だるそうにスマホを弄りながら、ときどき誰かの話へだけ反応している。中心に立つのではなく、中心を背後から支える位置取り。ああいうのは、意識してやっているのか素でそうなのか判断に困る。

 白金は、自席にいた。

 弁当箱を開いてはいるが、箸の進みは遅い。隣の瑠海が、何か話しかけようとして、やめる。その繰り返しだった。


 やがて瑠海が、ようやく小さく口を開いた。


「……結愛ちゃん、その、さっきは」


 白金は箸を止めた。


「何?」


「えっと……その、あんまり気にしない方が……」


「別に気にしてないよ」


 食い気味だった。

 否定するための速度だ。


 瑠海が怯んだのが、廊下からでもわかった。


「そ、そっか」


「うん。だって、言ったこと自体は間違ってないし」


 白金はそう言ってから、ほんの少しだけ視線を伏せた。

 自分で自分を納得させる時の声だった。


「先生が自習にするのは、やっぱりおかしいと思う。だから、言うべきことを言っただけ」


 その理屈自体は、たしかにその通りだ。

 その通りだが、瑠海が聞きたかったのはそこではない。

 たぶん「正しかったかどうか」ではなく、「つらくなかったかどうか」だ。だが、白金はまだそちらへは降りてこない。降りた瞬間、自分の正しさに混ざっていた痛みや怖さを認めることになるからだろう。


 瑠海は曖昧に頷くしかなかった。


「う、うん……」


「大丈夫だから」


「……うん」


 大丈夫、ね。


 人間が口にする「大丈夫」ほど信用ならない言葉もそうない。

 だが、だからといって他人がそこで「いや大丈夫じゃないだろ」と言ったところで、救いになるわけでもない。たいていはただ、相手の逃げ道を塞ぐだけだ。


 白金はそれ以上話を広げなかった。

 瑠海も、広げられなかった。

 二人のあいだへ落ちた沈黙は、気まずいというより、細すぎて少し触れただけで切れそうな糸みたいだった。


 その時、教室の後方で小さな笑いが起きた。


 内容までは聞こえない。

 ただ、笑ったあとに誰かが何気なくこちらを――正確には白金の方を――一瞬だけ見たのがわかった。

 それだけで十分だった。話題にされたのか、されたことがあるのか、そのどちらかだ。そしてたぶん両方だろう。


 オレは飲み終えた紙パックを潰し、ゴミ箱へ放った。

 見事に外れた。世の中の九割はこんなものだ。


     *


 六時間目の終わり、帰りのホームルームで白金はまた立った。


 学級委員としての連絡だった。

 今週末までの提出物と、来週の委員会の集合時間。それだけの、何の毒もない事務連絡だ。昨日までなら、少し真面目だと思われることはあっても、それで終わっていたはずの話だった。


「進路希望調査の一次提出があります。まだ出してない人は――」

 

 そこで、相良が小さく「あ」と声を出した。

 わざとらしくもない。だが偶然にしては、妙にいい場所で入った。


「ごめん、それ今日出せって話じゃないよな?」


 白金は言葉を止めた。

 止めて、一拍だけ教室を見た。


「……今週中で大丈夫です」


 声は平静だった。

 平静に聞こえるよう努力している声でもあった。


「じゃあ最初からそう言えよ」


 小さな笑いが起きる。

 大きくはない。大きくないからこそ、もう日常の一部みたいに馴染んでいた。


 白金は残りの連絡を、最後まで言い切った。

 言い切ったが、そのあいだ教室の空気が彼女の言葉を受け止めている感じは、ほとんどなかった。内容を聞いているのではない。誰がどんな調子で言っているか、その調子へどう反応すれば自分は安全か、それだけを周囲は測っている。


 ホームルームが終わる。

 椅子が鳴り、鞄が持ち上がり、さっきまでの微妙な空気など最初から存在しなかったみたいに、生徒たちは一斉に放課後の顔へ切り替わっていく。


 白金だけが、すぐには動かなかった。


 黒板の前で日誌をまとめようとして、手を止める。

 書くべき日付はそこにある。書くべき欄も決まっている。だが手の方が、その単純な作業へ追いついていない。


 瑠海が立ち上がりかけて、また座る。

 気にしているのだろう。だが、どう声をかけていいのかわからないのだろう。

 わからないのは当然だ。下手な慰めは相手の傷へ名前をつける。名前のついた傷は、急に現実味を増す。


 オレは教卓の前で出席簿を閉じた。


「白金」


 びくりとまではいかない。だが、確実に肩が揺れた。


「……はい」


「日誌。日付ずれてるぞ」


 白金は手元を見た。

 一日分、上の欄へ書いていた。本人もそこで初めて気づいたらしく、数秒だけ動きが止まる。


「……すみません」


「別に国家が転覆するほどの失策じゃない。書き直しとけ」


 そう言ってから、オレは少しだけ間を置いた。


「あと、今日はもう帰れ。委員長業は明日地球が滅ばなかったら続きがある」


 白金は顔を上げた。

 表情は読みにくかった。救われたわけではないし、感謝したわけでもない。ただ、どう受け取ればいいのかわからないものを前にした時の顔だった。


「……でも、まだ掲示の確認が」


「それはオレが見とく」


「先生が、ですか」


「嫌そうな顔をするな。オレだって紙を一枚貼るくらいはできる」


 そこでようやく、白金はほんの少しだけ息を吐いた。

 笑ったわけではない。だが、さっきまでよりはわずかに顔の力が抜けた。


「……ありがとうございます」


 形式的な礼だった。

 それでいいと思った。ここで急に感情的なやり取りなんか始めたら、むしろ気味が悪い。


 瑠海が、おそるおそる立ち上がる。


「じゃ、じゃあ、結愛ちゃん……いっしょに、帰る?」


「……うん」


 その返事も、少し遅れた。

 だが今度の遅れは、拒絶ではなく、たぶん素直に助かったと思ってしまった自分を隠すための遅れだった。


 二人が鞄を持つ。

 教室を出る直前、白金は一度だけ後ろを振り返った。


 その視線の意味を、オレは正確には測らなかった。

 教師へ礼を言うためなのか、自分がここで何を失ったのかを最後に確かめたかったのか、あるいはその両方か。いずれにせよ、今の彼女にはまだ、自分の傷の輪郭をきちんと言葉へできるだけの余裕はないだろう。


 二人の背中が廊下の向こうへ消える。


 教室には、夕方の光だけが薄く残った。

 机も椅子も、黒板も、壁の掲示も、何一つ変わっていない。さっきまで人間の気配で満ちていたはずなのに、空っぽになると途端にただの箱へ戻る。その切り替わりが、少し嫌だった。


 オレは白金の日誌を見た。

 日付を一本線で消し、その下へ書き直された文字は、最初よりわずかに乱れていた。


 たったそれだけだ。

 たったそれだけの乱れだが、ああいう手合いにとっては、案外こういうところが一番効く。


 最初の処刑は、だいたいこんなものだ。


 誰かが大声で泣くわけでもない。

 教室が露骨に荒れるわけでもない。

 明日にはまた、何事もなかった顔で同じ時間割が始まる。


 ただ一人だけ、自分の正しさがこの場所では武器にならないどころか、むしろ喉元へ引っかかる棘にしかならないと知る。

 その理解だけが、遅れて、静かに、そして妙に長く残る。


 オレは日誌を閉じ、黒板の端に貼られた提出一覧へ目をやった。


「……無責任、ね」


 小さく呟いて、鼻で笑う。


 白金は間違っていない。

 間違っていないが、この教室では正しいだけの人間から先に削られる。

 たぶんそれは、早乙女がどうこう以前の問題だ。


 厄介なのは、白金結愛がまだその真っ直ぐさを捨てていないことだ。

 捨てていないから、まだ壊れていない。

 壊れていないから、たぶんもう少しだけ削られる。


 オレは窓の外へ目を向けた。

 夕方の校舎は妙に綺麗だった。金のかかった学校というのは、黄昏どきですら品よく見える。中身がどれだけ腐っていても、外装だけは最後まで立派だ。


 救いようがない。


 それでもチャイムは鳴るし、明日もまた授業は始まる。


 学校という場所は、そういうふうによくできていた。

  

 

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