4話 『静かな教室』
その日、オレはいつもより三十秒ほど早く職員室へ入った。
「誤差の範囲だな」
と自分の中では結論づけていたのだが、社会というものは往々にして一秒単位の遅れへ妙に厳格な顔をする。とりわけ、五十嵐教頭みたいに「規律」の二文字を生涯の配偶者に選んだような男にとっては、三十秒の改善も三分の遅刻も、たぶん等しく万死に値するのだろう。
「神代先生。また遅刻ですか」
案の定である。
「いや教頭、今日はむしろ改善してる。いつもより三十秒は早い。褒める場面では」
「そういう問題ではありません!!」
「そういう問題だろ」
オレは鞄を机へ置いた。
「人生ってのは連続的改善の積み重ねなんだよ。いきなり完璧を求めるから人は病む。昨日のオレより今日のオレが少しだけマシなら、それはもう実質的に人類の進歩だ」
「あなた一人の弛緩を、人類史へ組み込まないでください!」
「壮大な男なんで」
「厚かましいだけです!!」
横から、はぁ、と深いため息が聞こえた。
直人である。今日も今日とて神経質そうな顔で書類をめくっていた。
「どうして毎朝、同じ流れを寸分違わず再現できるんだお前たちは。もはや伝統芸能の域だぞ」
「よせ直人。伝統芸能に失礼だ。これはただの職場の劣化現象だろ」
「自覚があるのに改善しないのが終わっているな」
向かいでは吉乃が、朝からヨーグルトを啜りながらぼんやりしていた。昨日より幾分生気がある。アルコールが脳の表面から一枚ぶんくらいは剥がれたらしい。
「朝からみんな元気ねぇ……若いわぁ……」
「それ、年齢じゃなくて人間性の問題では」
「いやぁ、湊くんは若いでしょ。精神年齢が小学生男子の反抗期あたりで止まってるもの」
「光栄だな。成長しない強さだ」
「最悪の強さだな」
直人が即答した。
こういう時だけ反応が速い。実に教育的でない。
教頭が眉をひそめた。
「もう結構です。少しは職員室らしい空気を保ってください」
そう言い残して、職員室の奥へ去っていく。
嵐が去ったあとの空気は、静かというより、少しだけ呆れていた。周囲の教師たちはすでにこのやり取りを風景の一部として受け入れている。人間、毎日見せられるとたいていの馬鹿馬鹿しさには慣れるものだ。
オレは自席に座り、適当に出席簿をめくった。
二年二組。
名前と顔を、もう一度ゆっくり頭の中で照合する。
白金結愛。
正しさの側へ立つことで、かろうじて自分を保っている優等生。
月峯瑠海。
弱いまま空気を感じ取りすぎる、この教室の気圧計。
早乙女美菜。
空気そのものみたいな顔で笑っている中心。
相良勝吾。
物理的な威圧と、空気に“力”を与えるための手足。
名前だけ眺めていると、どこにでもあるただの名簿だ。
だが、教室という密閉空間へ放り込めば、人間の名前はたいていすぐに役割へ変わる。
「今日も二組で倫理の授業か?」
直人が、ちらとこちらを見た。
「見りゃわかるだろ。オレが急に保健体育を担当し始めたら、それはそれで革命だ」
「お前の場合、倫理を担当している今ですら革命的に不安だがな」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めていない」
だろうな、とオレは思ったが、そこは言わなかった。わざわざ事実を確認するほど律義ではない。
*
チャイムの少し前に職員室を出る。
B棟へ向かう渡り廊下は朝の光を受けてやけに明るく、だからこそ、その先にある二組の教室が妙に影を濃くしているように感じた。
ドアの前に立つ。
今日も静かだった。
もうここ数日でわかっていたことではある
だが、一度その性質を知ってしまうと、この静けさはもう別のものに見える。
教師の接近に身構えた静寂ではない。
すでに何かが決まっていて、誰もそれを口にしないまま従っている時の沈黙だ。
オレはドアを開けた。
やはり、全員が一度だけこちらを見て、すぐに逸らした。
見事なまでの反射運動。ここまで揃っていると、もはや訓練の成果にすら見える。
「おはよう」
教壇へ立ちながらそう言うと、今日は昨日よりわずかに遅れて、一人だけ返事があった。
「……おはようございます」
白金結愛だった。
教室全体の静けさの中で、その返事だけが微妙に浮く。
大きくも小さくもない、ただ普通の声音だ。
だが、この教室では、その普通さ自体が異物になる。
後方の一角から、誰かが小さく鼻で笑う音がした。
オレはそちらを見なかった。見なくても誰かわかる。
「偉いな、白金。社会性の基本を一人で支えてる」
オレがそう言うと、結愛は少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた。
褒められているのか、茶化されているのか、判断に困っている顔だ。正しい反応である。オレ自身にもそこは半々くらいだからだ。
「……別に、普通のことです」
「普通が成立しない場所で普通をやるのは、だいたい面倒の始まりだぞ」
「それは……」
結愛は何か言いかけて、やめた。
そこでまた教室の温度が一段だけ下がる。
会話そのものではない。会話が発生したという事実へ、教室全体が反応しているのだ。
オレは出席簿を閉じた。
「はい、じゃあ今日は前半だけ普通にやる。後半はプリント」
教科書を開く。
倫理という科目は便利だ。少なくとも表向きは、ただ文章を読んで抽象的な話をしていれば授業の体裁になる。生徒同士の関係がどう歪んでいようが、教科書の上では人格も共同体も平等に語られる。現実がそれを嘲笑う準備を整えているとしても。
今日は古代ギリシア思想の導入だった。
善く生きるとは何か。徳とは何か。魂の調和とは何か。
大昔の人類は、ずいぶん真面目にそんなことを考えていたらしい。現代の高校生が群れの中で誰を笑えば自分が安全かばかり計算していることを思えば、退化の速度というものについて多少の感慨はある。
「ソクラテスがどうこう以前に、お前らまず自分の頭で物事を考える習慣をだな」
そこまで言いかけて、やめた。
こういう説教は、教師が自分の職責を果たした気分になるためには有効だが、実際にはたいてい空気の上を滑って終わる。
特にこの教室では。
板書をしながら、オレは昨日よりも意識的に視線の動きを拾った。
白金がノートを取る。
その動きに、斜め後ろの女子が一瞬だけ目を向ける。
すぐに逸らす。
早乙女の一角で、何か小さなやり取りがある。
すると、教室のあちこちで“気づいているが見ないふりをする”気配が走る。誰もそちらを向かない。向かないくせに、全員が向こうの空気を知っている。
瑠海は今日も小さくなっていた。
教科書へ落としている視線の角度まで、どこか遠慮がちだ。
小さく存在している、という言い方がいちばん近い。
そして、その隣の白金だけが、相変わらず真っ直ぐ座っていた。
対比がひどい。
真っ直ぐ立つ者と、最初から身を屈めている者。
この教室では、そのどちらも安全ではないらしい。
授業の後半、プリントを配ることにした。
本来なら委員長である白金でも使えばいいのだろうが、今日は何となく声をかける気にはならなかった。
名前を出した瞬間に空気がどう動くか、想像するのが面倒だったからだ。
結局、自分で配った。
効率は悪い。だが、効率のために教室の病理へ手を突っ込む気もなかった。
配り終えたところで、後方から声がした。
「センセー、これ裏、印刷切れてんだけど」
相良だった。
見るとたしかに、一部だけインクが薄い。よくあることだ。
「読めりゃ十分だろ」
「雑すぎね?」
「文明ってのはだいたいそんなもんだ。完璧を求めるな」
「教師が言うなよ」
後方で小さな笑いが起きる。
オレは肩をすくめた。
「完璧を求めるなら、お前らまず人類史の大半を否定することになるぞ。忙しくなるな」
「意味わかんねーし」
「わからなくていい。読め」
こういうやり取りの時だけ、教室の空気は少しだけ緩む。
だがそれは、オレが人気者だからではない。教師に向けられた軽い揶揄は安全だからだ。安全な笑いは、群れにとって実に都合がいい。
誰も傷つかないように見えるし、実際には何も変えない。
チャイムが鳴る。
「はい、終わり。プリントは次回までに目通しとけ。人生に役立つかは知らんが、少なくとも“自分が何も考えてない”ことを自覚する助けくらいにはなる」
席を立つ。
生徒たちも立ち上がる。
だがその動きは、やはりどこか他人の呼吸を窺っているようだった。
オレが教室を出ようとしたところで、前列から声がかかった。
「神代先生」
白金だった。
「何だ」
「……さっきのプリント、二枚余りました」
「そうか。ありがとな」
「あと、来週の提出物の期限なんですけど、前回先生が『月曜まで』と言ったあとで『火曜でもいい』とも言っていて……たぶんクラスで認識が分かれてるので、もう一度確認した方が」
後方の空気が、ぴくりと動いた。
大きな反応ではない。だが、確かに動いた。
結愛本人は、そのことにまだ気づいていないのか、気づいていても止まれないのか。
「じゃあ火曜で統一」
「……わかりました」
結愛はうなずいた。
そこまでは普通の事務的な確認だった。
たぶん、普通の教室なら。
「白金さん、マジで先生の補佐官じゃん」
後ろから、明るい声が飛ぶ。
早乙女だ。
「助かるよねー。うちらみたいな一般生徒、そこまで把握してないし」
言葉だけ取り出せば、ただの軽口だ。
感謝しているようにすら聞こえる。
だが、そのあと教室に広がった小さな笑いだけが、これが褒め言葉ではないことをはっきり示していた。
「……別に補佐官とかじゃなくて、確認しただけだけど」
結愛が、少しだけ固い声で言う。
「うんうん、わかってるって。責任感強いもんね、白金さん」
「そういうの偉いと思うよ、マジで」
取り巻きの女子が続く。
笑っている。怒ってもいない。
だからこそ厄介だ。
オレは教壇の横で立ち止まったまま、その一連の流れを見ていた。
結愛は正しいことしか言っていない。
だがこの教室では、その正しさ自体が圧として処理される下地が、もうできている。
問題なのは、誰か一人が彼女を嫌っていることじゃない。
嫌うという空気に乗ることが、このクラスではいちばん安全な振る舞いになっていることだ。
結愛は言い返さなかった。
瑠海だけが小さく、何かを言いかけて飲み込んだ。
「……行くぞ」
オレはそれだけ言って教室を出た。
誰に向けて言ったのか、自分でもよくわからない一言だった。
*
昼休み。
職員室でパンを齧っていると、吉乃が机に頬杖をついたまま聞いてきた。
「どう? 二組」
「順調に気持ち悪い」
「率直」
「事実だろ」
オレはメンチカツパンの袋を丸めた。
「露骨な暴力もないし、わかりやすい反抗もない。優秀だよ。腐り方だけが」
吉乃はふうん、と曖昧に相槌を打った。
この人は、他人の壊れ方にだけ妙に敏い。
「白金結愛、やっぱ危ない?」
「危ないな」
「やっぱり」
「本人はまだ、自分が正しい側に立ってると思ってる」
本人はそう信じている。
だから立てる。
だが、この教室ではそれがそのまま孤立の理由になる。
正しさを防具のつもりで着ていたら、実際には派手な的にしかなっていなかった。
皮肉というには出来すぎた構図だ。
「じゃあ助けてあげなさいよ」
「嫌だね」
即答したら、吉乃が少し笑った。
「即答するんだ」
「助けるって言葉、雑なんだよ」
オレは椅子にもたれた。
「助けたつもりの介入ほど、ああいう教室じゃ空気を悪化させる。教師がわかりやすく庇えば庇うほど、今度は見えないところで処理されるだけだ。正義のやり方が雑だと、たいていろくなことにならん」
「でも放っといてもろくなことにならないわよ」
「知ってる」
「なのに放っとくのね」
「今はな」
吉乃はそこで何も言わなくなった。
直人なら食い下がっただろう。だが吉乃は、食い下がるかわりに観察する方を選ぶ。教師としてどちらが正しいのかは知らないが、少なくともオレにとってはその方が会話しやすい。
*
五時間目の終わり。
帰りのホームルーム前に、少しだけ教室の様子を見に行く用があった。大した用ではない。文庫本を置きっぱなしにしていたので、取りに戻るついでだった。
二年二組の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。
「だから、ここ間違ってるって」
白金の声だった。
オレは反射的に足を止めた。
ドアは少しだけ開いている。
中を覗くつもりはなかったが、覗かなくてもだいたいわかる。
「この計算、ここ符号逆だよ。先生まだ来てないし、今のうちに直した方が」
「えー、でも別によくない?」
「よくないでしょ。小テスト近いんだし」
「白金ってほんとマジメだよね」
その“マジメ”という言葉の中に、感嘆ではなく距離が含まれているのがわかる。
言っているのは、早乙女ではない。たぶん、取り巻きの一人だ。
それが余計に質が悪い。
「……真面目とかじゃなくて、間違ってるなら直した方がいいって話」
「うん、でもさ、言い方ってあるじゃん?」
今度は早乙女の声だった。
柔らかい。笑っている。怒っていない。
だから、外から聞いていると、ただの女子同士の軽い会話にしか聞こえない。
「なんか白金さんってさ、“自分が正しい”の前提で喋るから、たまにちょっと圧あるんだよね」
「……圧?」
「そうそう。別に悪気ないのはわかるんだけど、正しいこと言ってる人って逆に怖い時あるじゃん?」
それに小さな笑いが重なる。
結愛はしばらく黙っていた。
「私は……別に、怖がらせたいわけじゃなくて」
「うん、わかってるって」
「そういう意味じゃなくて」
「でもさ、そういう“私は間違ってません”感、ちょっとキツいよ」
声は柔らかいままだ。
だが、それが一番残酷だった。
オレはそのまま教室へは入らず、廊下を歩き去った。
入る理由がなかったし、今入ればもっと面倒になる。
それでも、歩きながら頭の中にはひとつの言葉だけが残った。
――正しいこと言ってる人って逆に怖い。
見事な言い換えだ。
要するに、「あいつは間違っていないからこそ目障りだ」ということだろう。
『ルサンチマン』と呼ぶにはまだ少し早い。
だが、向いている方向はもうそっちだ。
誰かを露骨に悪者にした方が、話は簡単だ。
だが現実の教室というのは、たいていもっと曖昧で、もっと卑怯だ。
誰も明確な加害者の顔をしない。だからこそ、責任の所在も曖昧になる。
*
放課後。
校舎の窓は西日を受けて赤く光っていた。
オレは昇降口へ向かいながら、今日一日の二年二組を頭の中で反芻していた。
まだ何も起きていない。
少なくとも、外から見れば。
だが、何も起きていないように見えるということ自体が、あの教室ではすでに異常だった。
病気が症状ではなく、空気として教室全体へ行き渡っている。
そういう壊れ方をしている。
「……静かな教室ほど、性格が悪い」
誰に向けるでもなく呟いて、オレは靴を履き替えた。
この時点ではまだ、オレも本気で何かをするつもりはなかった。
ただ、胸糞の悪い臭いが鼻につき始めていることだけは、もう認めるしかなかった。




