3話 『正しい生徒』
白金結愛は、教室の空気が嫌いだった。
――と、本人が明確に自覚していたかと言われると、たぶん少し違う。
彼女は自分のいる場所を「嫌い」と断じるほど粗雑な人間ではなかったし、感情の輪郭をそんなふうに乱暴に言葉へ押し込めることにも、どこかためらいがあった。
だから正確には、こう言うべきなのかもしれない。
白金結愛は、教室の空気に、ずっと息苦しさを覚えていた。
朝、誰より早く登校して窓を開ける。
黒板の端に残っている昨日の板書のかすれを消し、配布用プリントがある日は綺麗に整えて教卓へ運ぶ。日直がやるべきことと、委員長が気づいたらやるべきこと、そのあいだにある曖昧な雑務まで含めて、彼女はだいたい自分で片づけていた。
誰に頼まれたわけでもない。
そうした方が、一日が少しだけ整って始まる気がしたからだ。
教室という空間は、放っておくとすぐに乱れる。
小さな乱れは、たいてい、あとでもっと面倒な形で返ってくる。
だから揃える。正す。言うべきことは言う。
白金にとっては、それだけの話だった。
少なくとも、本人はそう思っている。
「結愛ちゃん、おはよ」
朝の教室で、遠慮がちな声がした。
振り向くと、ドアのところに月峯瑠海が立っていた。鞄を胸の前に抱きしめて、今日もこの教室へ入ってくること自体に少し緊張しているみたいな顔をしている。
「おはよう、瑠海ちゃん」
結愛が笑うと、瑠海はほっとしたように小さく笑い返した。
彼女の笑い方はいつも、相手の顔色を先に見てから、恐る恐る浮かべるみたいなところがある。小動物が水辺へ出てくる時の慎重さに似ていて、見ているとたまに胸が痛くなった。
「今日も早いね……」
「いつも通りだよ。瑠海ちゃんこそ」
「わ、わたしは、その……人が多くなる前に入った方が、ちょっとだけ落ち着くから」
瑠海はこういう言い方をする。
教室が怖いとか、人が多いと緊張するとか、そういう核心を一枚薄い紙で包むみたいに。
結愛はそれを責めない。
ただ、少しだけもどかしいと思うことはある。
「前回の国語のノート、見せてくれてありがとう。おかげで前回休んじゃった分取り戻せた」
「え、あ、うん……ちゃんと取れてるかわかんなかったけど……」
「十分綺麗だったよ。私より字、可愛いし」
「えっ、そ、そうかな……?」
瑠海が慌てたように自分の髪を耳へかける。
結愛は少しだけ口元を緩めた。こういう時の瑠海は、びっくりするくらいわかりやすい。今たぶん、褒められると思っていなかったのだろう。顔がほんの少し赤い。
教室にはまだ数人しかいなかった。
窓際の席の男子が眠そうに机へ突っ伏し、後方の女子二人組が小声で何かを話している。その程度だ。全体の空気はまだフラットで、少なくともこの時間帯に限っては、「誰がどこにいて、誰と喋るべきか」という見えない規則も、昼休みほど強くは発動していない。
結愛はこの時間が比較的好きだった。
誰もまだ“教室の空気”になりきっていないからだ。
「そうだ、今日のホームルームで、提出物の確認もう一回しようと思うんだけど……」
「う、うん」
「先週のグループワークの振り返り、まだ出してない人が何人かいるから。神代先生、たぶん忘れてるし」
「忘れてそう……」
「……うん。すごく」
そこで、二人のあいだに一瞬だけ静かな笑いが生まれた。
神代が正式に二年二組を受け持つようになってから、もう一週間が過ぎていた。
神代湊という担任について、結愛はまだ評価を定めきれていなかった。教師としてあまりに適当で、口も悪い。
そのくせ、時々、何かを見ている目だけはやけに鋭い。
あの目が少し苦手だった。見透かされるというより、自分でも言葉にできていないものを先に見抜かれそうで。
いや、と結愛は首の内側で考え直す。
苦手というのは正確ではないかもしれない。
あれはたぶん、居心地が悪いのだ。自分でもうまく言葉にできていない何かを、先に見抜かれてしまっている気がして。
「……結愛ちゃん?」
「え?」
「あ、ごめん……なんか考えごとしてた?」
「ううん。大丈夫」
結愛は軽く首を振ってから、ホームルーム用の連絡ノートを開いた。
提出物の確認。
体育祭実行委員の立候補の再募集。
来週の小テストの範囲確認。
こうして箇条書きにしてみると、教室という場所は驚くほど雑用でできている。青春とか友情とかきらきらした何かで構成されているわけではない。もっと細かく、もっとどうでもいい、けれど放っておくとすぐに不都合へ変わる諸々の管理によって、どうにか秩序が保たれている。
結愛は、そのこと自体は嫌いではなかった。
むしろ、自分がこうした細部を支えているという実感が、教室に属している感覚を与えてくれることもあった。
――少なくとも、前までは。
ガラリとドアが開く。
数人だった教室に、いつもの朝の流れが一気に入り込んできた。
男子生徒の笑い声。
机を引く音。
誰かの「眠っ」という間延びした声。
そして後方、窓際寄りの一角に、やや遅れて現れた空気の変化。
早乙女だった。
「っはー、マジで眠いんだけど。昨日の配信、気づいたら三時だったし」
鞄を肩にかけたままそう言って、自分の席へだらしなく体を預ける。
その瞬間、教室全体の重心が目に見えないところでそちらへ傾くのがわかる。誰が彼女に挨拶するか。誰がその周囲へ近づくか。誰が笑うか。
全部が自然に見えて、まるで自然ではない。
「配信見てた見てた。あの切り抜きマジでウケたし」
「ね。あと相良が途中で寝落ちしかけてたの草だった」
「してねえよ」
体格のいい男子――相良勝吾が、眠そうに頭を掻きながら席へ座る。
そのやりとり自体は、ごくありふれたものに見える。仲のいい連中の雑談。どこの教室にもある光景だ。
だが、結愛にはわかる。
教室の空気は、こういう何でもない朝の雑談からもう始まっている。誰が笑う側にいるか、誰が輪の外にいるか。そういう確認は、たいてい、こういう時に済まされる。
「おはよ、白金さん」
不意に、早乙女がこちらを見た。
にこり、と綺麗な笑顔だ。
「今日も早いね。えら」
「……おはよう」
結愛も一応、返す。
このやり取りをどう受け取るべきか、いまだによくわからない。素直な挨拶にも、からかいにも聞こえる。早乙女の言い方は、いつもその余白を残す。
「てか白金さん、また何か書いてるの?」
「ホームルームの連絡事項」
「真面目だなぁ」
「必要なことだから」
「うんうん、そういうとこほんと委員長って感じ」
笑顔のままだ。
だがその言葉のあと、近くにいた女子が一人、小さく笑った。ほんのわずかな笑いだった。気づかないふりもできる程度の。
けれど結愛は、そういう音に妙に敏感になってしまっていた。
「……別に、普通のことだと思うけど」
「うん、普通だよ?」
早乙女は首を傾げた。
「誰も変って言ってなくない?」
それはたしかにその通りだった。
変だとも、おかしいとも、彼女は言っていない。
だからこそ厄介なのだと、結愛は薄く唇を噛む。
瑠海が隣で小さく肩をすくめているのが見えた。
たぶん、空気の温度が一段下がったことに気づいたのだろう。
この程度。
言葉にすれば、たったこれだけのことだ。
なのに、教室全体はこういう小さなやり取りの積み重ねで、少しずつ形を変える。誰が浮いているのか。誰が“空気の中心”から外れているのか。そんなことが、わざわざ明文化されることもないまま決まっていく。
結愛は視線を連絡ノートへ戻した。
それ以上、何か言い返すのは得策ではないと判断したからだ。
朝のホームルーム。
先生はいつものように、少しだけ遅れてやってきた。片手にブラックコーヒー、もう片方に薄い文庫本を持っている。教師というより、大学の構内で人生を持て余している院生のなりそこないだ。
「おはよう。今朝も偉いこと生きてるな」
教壇に立って最初の一言がそれである。
「ホームルームは白金が仕切ってくれ」
「え?」
「オレ、今朝まだ脳みそが起動してない」
「いや、担任ですよね?」
「形式上はな」
言いながら、先生は平然と椅子へ座って本を開いた。
信じられない。
結愛は一瞬だけ口を開きかけたが、後方から笑いが漏れたので飲み込んだ。
「センセー、委員長に丸投げウケる」
「白金さん実質担任じゃん」
「もう神代先生って飾りでよくない?」
クスクスという笑い。
たぶん、普通の教室ならただの軽口だ。誰かがからかって、周囲が笑う。それだけの。
だがこの教室では、その笑いの向きが常に固定されている気がしてならない。
結愛は深呼吸を一つして、立ち上がった。
「……提出物の確認をします。先週のグループワークの振り返り、まだ出していない人は今日中にお願いします。あと、来週の小テストの範囲――」
声を出す。
それ自体は難しくない。むしろ慣れている。
だが今日は、言葉を口にするたび、自分の声だけが教室の中でほんの少し浮いて聞こえる気がした。
気のせい。
そう思いたかった。
だが、二人分の提出物がまだ出ていないと告げた瞬間、後方の一角でまた笑いが漏れた。
「え、マジで今それ言う?」
「朝から未提出晒しあげは草」
「委員長、仕事熱心すぎない?」
結愛は顔を上げた。
早乙女たちではなく、その周囲の何人かが笑っている。そこが余計に胸に刺さった。早乙女たちだけなら、まだ単純だった。
だが実際には、一人の言葉に、空気を読む人間が乗る。この教室は、たぶんそうやって形になる。
「別に、晒しあげるつもりじゃなくて。期限を守るのは当然でしょう」
「うわ、正論きた」
「ちゃんとしてるぅ」
「白金さん、マジでブレないね」
それは褒め言葉ではない。
結愛にも、それくらいはわかる。
先生は本を読んでいた。
いや、本を開いたまま、たぶん半分は教室を見ていた。あの人は、ぼんやりしているようで案外いろいろ見ている。
それでも、何も言わない。
結愛はノートを持つ手に少し力を込めた。
「……小テストの範囲は古代ギリシア思想の導入までです。提出物も小テストも、自分のためなんだから、ちゃんとした方がいいと思う」
何とか言い切る。
すると今度は、笑いではなく、しん、とした間が落ちた。
その間が一番嫌だった。
笑われる方がまだわかりやすい。
こういう、“誰も否定しないのに、どこか全体が冷える”瞬間こそが苦しい。
先生がそこで、ようやく本から目を上げた。
「白金」
「……はい」
「小テストの範囲言う時に『自分のためなんだから』まで添えるの、そこそこ説教くさいぞ」
「……っ」
教室の空気が、わずかに緩んだ。
笑いが戻る。今度はさっきより、少しだけ大きい。
「センセーそこ気づくんだ」
「説教くさいのわかる」
「マジ委員長って感じ」
結愛は言い返さなかった。
言い返せば、さらに燃料になる気がしたからだ。
先生はそれ以上何も言わず、本へ視線を戻した。
助けたわけではない。ただ、少しだけ論点をずらして、教室の空気を結愛から外しただけだ。
そんなことはわかっている。
それでも、少しだけ呼吸がしやすくなった自分が情けなかった。
ホームルームが終わると、結愛はゆっくり席へ座った。
瑠海が心配そうに、ちら、と横目でこちらを見る。
「……結愛ちゃん」
「大丈夫」
反射みたいにそう言っていた。
大丈夫かどうかなんて、正直自分でもよくわからない。
授業が進む。
英語、古典、数学。
そのどれもが、表面上は普通だった。誰かが大声で騒ぐわけでもなければ、机が飛ぶわけでもない。だからこそ厄介なのだと、結愛は最近よく思う。
何も起きていないように見える場所ほど、何かが起きている。
*
昼休み、結愛が配布物をまとめていると、瑠海が遠慮がちに言った。
「あの……さっきの、気にしない方がいいよ……」
「うん」
「早乙女さんたち、たぶん、そんな深い意味で言ってるわけじゃ……」
「わかってる」
結愛は手を止めないまま答えた。
「悪意があるとかないとか、そういう話じゃないのもわかってる」
「……」
「でも、だから何って感じじゃない?」
自分でも少しきつい言い方になったと思った。
瑠海がびくっと肩を揺らす。
「ごめん。瑠海ちゃんに言ってるわけじゃない」
「う、ううん……」
瑠海は慌てて首を振った。
だがその目には、明らかに困った色が浮かんでいる。
結愛は小さく息を吐いた。
「私、そんなに変かな」
「え?」
「いや……別に、普通のことしか言ってないと思うんだけど」
瑠海はすぐには答えなかった。
その沈黙が、結愛には少し堪えた。
「……結愛ちゃんは、変じゃないよ」
「でも?」
「えっ」
「今、“でも”って顔した」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「冗談」
結愛は少しだけ笑って見せた。
ちゃんと笑えていたかどうかは、自信がない。
瑠海はまだ何か言いたそうだった。けれど結局、何も言わなかった。
それでいいのだと思う。きっと彼女は優しい。優しいから、余計に何も言えないことが多いのだろう。
昼休みの終わり、神代先生が教室へ入ってきた。
購買の袋を片手にぶら下げ、心底どうでもよさそうな顔をしている。
「センセー、それ昼メシ?」
「見りゃわかるだろ。おにぎりと、勝利に導くためのメンチカツパンだ」
「その組み合わせで何に勝つんだよ」
「人生に」
「雑だな」
後方で誰かが笑う。
相良だ。早乙女も口元だけで笑っている。
こういう時の先生は、妙に自然に教室の空気へ入り込む。教師らしくないことが、逆に生徒にとって距離を測りやすいのかもしれない。
先生は教壇へ袋を置き、教室を一瞥した。
その視線が一瞬だけ結愛の上で止まった気がした。
だが、何も言わない。
「で、白金」
「……はい?」
「さっきホームルーム仕切ってたろ」
「仕切ってたというか、先生が丸投げしたので」
「有能な部下には仕事を与えるのが上司の役目だ」
「役目の意味を辞書で引き直してください」
教室のあちこちで小さな笑いが起きる。
結愛は言い返してから、一瞬だけしまったと思った。こういうふうに軽口を返すのは、自分らしくない。
だが先生はまるで気にした様子もなく、おにぎりの包装を開けながら言った。
「まあ何だ。説教くさいのは、若さだ」
「褒めてます?」
「いや。だいぶ鬱陶しい」
「……最低ですね」
「知ってる」
また笑いが起きる。
結愛はほんの少しだけ気が抜けて、そして、そのこと自体に戸惑った。
この人はよくわからない。
さっきは助けたわけじゃない。ただ空気をずらしただけ。今だって別に味方をしているわけではない。むしろちゃんと鬱陶しいと言われた。
それなのに、不思議と呼吸はしやすい。
神代湊という男は、ルールの外から喋っている。
そのことが、この教室では時々、異物として機能する。
*
午後の授業が終わる頃には、結愛は少し疲れていた。
何か特別なことが起きたわけじゃない。ただ、朝からずっと小さな棘が皮膚の下に刺さり続けているみたいな一日だった。
放課後。
委員の仕事を終えて帰ろうとした時、廊下ですれ違った早乙女が、にこりと笑って言った。
「白金さんって、ほんとちゃんとしてるよね」
「……ありがとう」
反射的にそう返してしまってから、結愛は少しだけ後悔した。
あれが褒め言葉でないことくらい、もうわかる。
けれど、どう返せばよかったのかは、まだわからない。
帰り際、瑠海が小走りで追いかけてきた。
「結愛ちゃん、一緒に帰ろ……」
「うん」
二人で並んで昇降口へ向かう。
窓の外では、夕方の光が校舎の白い壁を妙に綺麗に照らしていた。外から見れば、この学園はたぶん今日もきらきらして見えるのだろう。
きっとそれが、いちばん腹立たしい。
「結愛ちゃん」
「なに?」
「その……無理、しないでね」
「してないよ」
結愛はそう言った。
自分でも驚くほど、滑らかに出た言葉だった。
だが、瑠海は何も返さなかった。
ただ、小さく「そっか」と言っただけだった。
その一言が、結愛には少しだけ痛かった。




