2話 『偶像の黄昏』
赴任してまだ数日。
もっとも、そのあいだのオレは授業も担任も持っていなかった。前任者が置いていった教材を漫然と眺め、適当に校舎を歩き回り、形式的な打ち合わせに顔だけ出し、この学園がいかに金と虚飾にまみれているかを改めて確認する――そんな準備期間だった。
そして今日から、ようやく正式に二年二組の担任兼、倫理担当教師として教壇に立つことになっている。
その初日、オレは始業時刻を四分ほど過ぎたころ、コンビニのブラックコーヒーと文庫本を手に職員室へ入った。
「神代先生」
席に着くより先に、低くよく通る声が飛んできた。
教務主任兼生活指導。
この学園における〈規律〉という言葉が、人の姿を借りるならたぶんこうなるのだろう――五十嵐教頭である。広々とした頭頂部を、左右から寄せたわずかな毛髪で懸命に覆っている。その様は、ある意味でこの学校そのものだった。見えていないものを、見えていることにしておく努力だけは立派である。
「また遅刻ですか。しかもその格好は何です。ネクタイは緩んでいますし、第一ボタンまで開いている。今日がどういう日か、わかっていますよね」
「アイムソーリー」
「そういう軽口で済ませないでください!!」
「いや、これには深い事情がありましてね」
オレはコーヒーをひと口すすってから、やむにやまれぬ事情を背負った顔を作った。
「今朝、通勤途中でカラスがスズメの死骸をつついてるのを見ましてね。生存競争の理不尽さに少し考え込んでいたら、靴紐を結ぶのに三分ほどかかってしまいまして」
「そういう話を聞いているのではありません。今日は担任と授業を任される最初の日でしょう。せめて、時間と身だしなみくらいは整えて来てください」
叱責としてはまっとうで、そのぶん逃げ道がない。
「初日だからこそ慎重に来たんですよ。遅れたけど」
「その一言で全部台無しです」
「相変わらずだな、お前は」
隣から、心底あきれた声が差し込んできた。
榊原直人。数学教師。中学時代からの腐れ縁だ。きっちり撫でつけたオールバックに、高そうなスーツ、それから無駄に高い自意識まで抜かりなく着こなしている。昔から何かにつけてオレを仮想敵に設定して張り合ってくる男だが、残念ながら勝てたためしはない。負け癖がついてなお挑むあたり、執念だけは大したものだ。もちろん感心したことはない。まさかこの学園で再会するとは露ほども思わなかった。
「どうして『申し訳ありません、以後気をつけます』の一言で済む話を、わざわざ三倍に膨らませるんだ、お前は」
「サービス精神だろ」
「迷惑行為の言い換えだな」
「お前も朝から元気だな。今朝も昇降口で女子生徒のスカート丈を、教育的かつ厳格に下から観測してきたのか」
「していない!! その言い方だと、ボクの視線が最悪の方向に使われているみたいじゃないか!!」
「違うのか?」
「違う!!」
「その必死さが、もう十分怪しいけどな」
「どこがだ!?」
「……んぁぁ……あんたら、朝から声でかい……」
正面の机に突っ伏していた女が、死体の寝返りみたいな速度で身を起こした。
二年現国担当、山田吉乃。寝癖の残る長い髪、着崩れた白シャツ、机に押しつけられて頬についた紙の跡、それに二メートル先からでもわかるアルコールの残り香。生活の破綻が、そのまま人型を取ったような女教師である。
「ちょっと待て。あんた、酒飲んで来たのか」
「飲んでない……昨日の酒が、まだ自主的に退去してないだけ……」
「それを世間では飲酒状態って言うんだよ」
「頭の中ででっかい木魚がゴーンゴーン鳴ってる……社会人には必要なのよ、こういう防御スキルが……」
「防御どころか全身ガラ空きじゃねえか」
教頭はこめかみを押さえた。
「山田先生。生徒の見本となる教師がそのようでは、社会に未来はありませんよ」
「ないから木魚が鳴ってるんじゃないかしら……」
山田が、机に頬杖をついたままぼそりと返す。
「本当に……どうしてこの職員室には、もう少し落ち着いた人がいないんですか」
「安心しろ」
オレは空き缶を軽く振った。
「完璧な社会の縮図だろ」
「そんな社会は願い下げです」
教頭はひとしきり場を見回したあと、諦めたように言った。
「神代先生は後で反省文を書いてください。山田先生は今すぐ保健室へ。榊原先生は……できれば、もう少しまともな人間関係を築いてください」
直人は額を押さえ、心底うんざりした顔をしている。
教頭は静かに踵を返して去っていった。
残された職員室に、ようやく本来の朝が戻る。
紙の擦れる音。キーボードを叩く音。誰かが咳払いをする音。淹れたてのコーヒーではなく、昨日から温め直しているだけの苦い液体の匂い。
教育現場というより、形だけ整えた企業の管理部門だ。人間味が少ないぶん、まだマシとも言える。
オレは残りのコーヒーを飲み干した。
向かう先は、二年二組。学園長いわく『空気が人を殺す教室』である。
*
B棟への連絡通路を渡る。
窓の外には、手入れの行き届きすぎた芝生が広がっていた。こういう学校は、花壇や芝生の管理には異様に熱心なくせに、その上を歩く人間の精神がどれだけ腐っていても驚くほど無関心だったりする。景観に比べて、中身への責任感が薄い。実にわかりやすい。
二年二組の前に立った時点で、オレは前任が潰れた理由の一端を理解した。
静かすぎる。
教師が近づいてきたから私語をやめた、という程度の静けさではない。
もっと深い。誰か一人が不用意に息を立てた瞬間に、教室全体の均衡が崩れる。そんな緊張が、閉じたドア一枚隔てた向こう側からじっとりと滲んでいた。
オレはしばらく無言で立ち尽くした。
別に感傷に浸っていたわけじゃない。こういう種類の沈黙が、少し久しぶりだっただけだ。研究室にも似たような静けさはあった。皆が理性の仮面を被りながら、その実、誰が先に零れ落ちるかを互いに値踏みしている時の静寂だ。
ああいう場所では、まともなやつから順に消耗する。
露骨に殴られるわけじゃない。誰も責任者にならないまま、正しいことを言う人間だけが少しずつ呼吸を削られていく。
静かな場所が平和だとは限らない。むしろ、いちばん質の悪い暴力ほど音を立てない。
人間は群れると安心する。
だが一度、群れが安心のためではなく排除のために機能し始めると、そこには妙に澄んだ沈黙が生まれる。誰もが、自分だけは獲物ではないと証明したくて必死になるからだ。
オレはドアを開けた。
一瞬だけ、教室中の視線がこちらを向く。
そして次の瞬間には、揃いも揃って、目を逸らした。
見事なものだった。
誰ひとりとして教師の顔をまともに見ない。反抗ではない。むしろ逆だ。目立たないために、必要以上に整えられた動きだった。
なるほど。
こいつらは教師を恐れているのではない。もっと別のものを恐れている。
「……おはよう」
教壇に立ちながら短く言う。
返事はない。
だが、それを不自然とは思わなかった。不自然なのは返事がないことではない。この教室では、返事をすることすら目立つ行為として計算されていることの方だ。
前列に一人、妙に姿勢のいい女子生徒がいた。
教科書はきちんと揃えられ、ノートは真っ直ぐ机の中央。クラスの他の生徒が、どこか「周囲に溶けること」だけを優先した姿勢をしている中で、その整い方だけがわずかに浮いて見えた。
白金結愛。
名簿の備考欄に、やたら几帳面な字で「学級委員」と書かれていたのを思い出す。
オレが教壇へ視線を戻した瞬間、白金はわずかに眉を動かした。
何か言いたいことがある顔だった。だが言葉になる前に、その感情は指先へ逃がされる。持っていたペンを揃え直し、ノートの端と教科書の角をぴたりと合わせる。
なるほど。感情を出す代わりに、形だけ整えるタイプか。
後方には、別の意味で空気の違う一角があった。
そこだけ、呼吸が違う。だらけているように見えて、教室全体の視線がうっすらそこを基準に流れている。誰も何も言わなくても、その一角がこの教室の気圧を決めている。
早乙女美菜。
名簿ではただの生徒名だが、見ればわかる。あれがこの教室の中心だ。
その時、後方の誰かが小さく笑いかけた。
だが早乙女が椅子にもたれ直し、面倒そうに視線だけ横へ流した瞬間、その笑いは喉の奥で止まった。
誰も何も命じていない。ただ、止まる方が自然だと全員が知っている。
そして、白金の横。
肩を小さくすぼめ、誰かに視線を向けられるだけで泣き出しそうな顔をしている小柄な女子。机の上の消しゴムをやたら丁寧に揃えている。意味のない動きで、別の不安から目を逸らそうとしている時の手だった。
月峯瑠海。
たぶん、誰よりも空気の重さを感じ取っている類の人間だ。
消しゴムを揃え終えたあとも、その指は止まらなかった。
今度はシャーペンの向きを机の縁と平行に合わせ、少しずれたと思うたびに、また直す。
目立たないようにしているんじゃない。不安が形を持つ前に、手を動かして押し返している。
「……」
オレは名簿を閉じた。
無駄に丁寧な自己紹介をする気にはなれない。教師というだけで尊敬される年でもないだろうし、そもそもこの教室にそんな機能的な共同体が残っているようにも見えなかった。
「神代湊。倫理担当。担任でもある。一応よろしく」
それだけ言って、黒板の端に自分の名前を書いた。
字が綺麗すぎると舐められる気がしたので、少しだけ雑に書く。意味はない。だが、そういう意味のない儀式で人間は自分を保ったりする。
教室は静かだった。
誰かが咳を一つした。
それだけで、何人かの肩が反応した。
オレは適当に出席を取り、教科書を開く。
本来ならここで、授業方針だの年間予定だの、教師らしい話をいくつか並べるべきなのだろう。だがそんな気力はないし、必要も感じなかった。
「倫理ってのは、要するに『お前らはどう生きるんだ』を、昔の人間がやたら面倒くさい言葉で延々と考え続けた学問だ。役に立つかどうかで言えば、たぶん立たない。だがたまに、自分がどれだけバカな空気に従って生きてるかを見せてくれる程度の効能はある」
何人かが、ほんのわずかに顔を上げた。
早乙女の一角は相変わらず気だるそうだ。白金だけが、少しだけ反応した。たぶん「教師としてその言い方はどうなんだ」と思ったのだろう。真面目そうな眉の動きでわかる。
「ま、今日はガイダンスだ。適当に流す」
オレはそう言って教科書の最初のページを開いたが、説明しながらも意識の大半は生徒どもの反応ではなく、その反応の流れ方を見ていた。
誰かがページをめくる。
その音のあと、隣の席が一拍遅れて動く。
後方の一角が微かに笑うと、教室の空気がほんの少しだけ緩む。
前列の白金がノートを取るたびに、後ろから視線が飛ぶ。
瑠海はそのたびに肩をすくめる。
なるほど。
学園長の説明は雑だったが、本質だけは外していなかったらしい。
この教室は、もう壊れている。
ただ、壊れ方が上品なだけだ。
騒ぐ生徒はいない。机を蹴るバカもいない。露骨な反抗もない。外から見れば、むしろ落ち着いたクラスに見えるだろう。
だが実際には、全員が全員、自分が沈まないためだけに互いの顔色を窺っている。
ここでは秩序ではなく、臆病さが静けさを作っていた。
授業の終わり際、前列の白金が一度だけ手を挙げかけた。
すぐに下ろした。
その小さな躊躇の意味は、教室の全員が理解していた気がした。理解していて、理解しないふりをしていた。
チャイムが鳴る。
「今日は以上」
オレは教科書を閉じた。
誰も立ち上がらない。教師が出ていくまで動かないのか、それとも先に動くことが怖いのか。たぶん両方だ。
「生きてたやつは、また来い」
それだけ言って教室を出る。
背後には、まだあの妙に澄んだ沈黙が残っていた。
廊下に出てから、オレは一度だけ振り返った。
閉じたドアの向こうには、さっきまでと同じ静寂が、変わらず貼りついている。
「……面倒なクラスだな」
そう呟いて、オレは職員室へ戻った。
*
昼休み。
職員室では吉乃がカップ麺を啜りながら死にかけの目をしており、直人は書類の束を前に神経質そうに眉間を押さえていた。教頭だけがなぜか朝より元気で、昼という概念そのものに喧嘩を売っているみたいな顔をしている。
「どうだった、二年二組は」
直人が、顔も上げずに聞いた。
「静かでいいクラスじゃねえか。墓場みたいで」
「褒めていないな」
「褒める要素がどこにある」
直人はようやく顔を上げた。
「あのクラスは、表面だけ見れば問題がない。だから厄介なんだ」
「知ってるよ」
オレは机に腰を預けた。
「騒がない、逆らわない、目立たない。そのくせ、空気の中で一人ずつ削る。上品な地獄ってやつだ」
吉乃がカップ麺の湯気越しに、ぼんやりとこっちを見る。
「前の担任も、最初は『静かで助かる』って言ってたのよねぇ……」
「最初の一週間は、毎日きっちり学級日誌にコメント返してたわよ。真面目で、いい先生だった」
吉乃はそこでカップ麺を啜り、少しだけ目を細めた。
「最後の方は、教室の前で入るまでに毎回数十秒かかってたけど」
「で、胃に穴が空いた、と」
「精神って案外、音のないところから先に死ぬのよ」
それは妙に詩的だったが、言っているのは酒とカップ麺で生きている女である。説得力があるのかないのか判断に困る。
直人が書類を閉じた。
「お前はどうするつもりだ」
「何を」
「二年二組だ。見ただろう、あの空気を」
「見たよ」
オレは肩をすくめた。
「だから何だって話だろ。空気が腐ってるからって、オレが除菌スプレー片手に飛び込むとでも思ったのか」
「お前なら、そういう連中を嫌うはずだ」
「嫌うよ。胸糞も悪い」
オレは正直に答えた。
「でも嫌いだからって、即座に殴っていい理由にはならない。そういうのは半端に正義感のあるバカがやることだ。叩けば一瞬は静かになる。だが本当に怖いのは、そのあとだろうが」
直人は黙った。
たぶん、わかっているのだ。わかっているが、それでも放っておけないタイプなのだろう。立派なことだとは思う。面倒くさいとも思うが。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
オレは机の上の文庫本を取り上げた。
「ま、しばらくは様子見だな」
「湊」
「何だよ」
「お前は、見ているだけで済む男じゃないだろう」
オレは一瞬だけ笑った。
済む男かどうかなんて、自分でもまだ知らない。
「買い被るなよ、直人。オレは昔よりだいぶ丸くなったんだ。ほら見ろ、今なんか学生を一人も論破してない」
「教師がそれを成長の指標にするな」
「じゃあ一応、社会適応に成功してるってことで」
「最低限だな」
オレは手を振り、午後の授業へ向かった。
だが、心のどこかでわかっていた。
二年二組のあの静寂は、ただ見て終われる類のものじゃない。
何も起きていないように見える教室ほど、たいてい、いちばん深いところから腐っている。
文庫本を開いても、一行目が頭に入ってこなかった。
代わりに浮かぶのは、後方の緩んだ空気でも、早乙女の顔でもない。
机の上で消しゴムを揃え続けていた、あの小さな指先だった。
いったん見つけてしまった腐敗は、案外長く鼻に残る。




