12話 『前例』
翌朝、教室の空気は驚くほどいつも通りだった。
誰かが大声で騒ぐこともない。
机がひっくり返っているわけでもない。
昨日の夕方、渡り廊下で起きたことなど、この学園の規律正しい一日の前では、どこにも痕跡を残さなかったみたいに見えた。
それでも、結愛にはわかった。
以前とまったく同じではない。
何がどう違うのかを言葉にするのは難しい。
だが、教室の重心が少しずれているのは、たしかにわかった。
視線の流れ。
席に着く時の呼吸。
誰が誰を見て、誰が見ないふりをするか。
そういうものが、昨日までと同じようでいて、ほんのわずかに違っていた。
結愛は教室へ入ると、自分の席まで歩いた。
その途中で、二人ほどと目が合った。
前なら、すぐに逸らされて終わっていたはずの視線だ。今日も最後には逸らされた。だが、その一瞬だけは、たしかに真正面からぶつかった。
それだけのことが、妙に新鮮だった。
「……おはよう」
隣に鞄を置きながら、瑠海が言った。
声はまだ小さい。けれど昨日までみたいに、言うか言わないかで震えている感じではなかった。
「おはよう」
結愛も返す。
短い。ごく普通の挨拶。
なのに、そのやりとりだけで胸の奥が温かくなるのが、自分でも不思議だった。
瑠海は何かを言いかけ、少し迷ってから、鞄の中をがさごそと探った。
取り出したのは、小さな紙パックのミルクティーだった。
「……これ」
「え?」
「昨日、コンビニで……なんとなく」
差し出されたそれを見て、結愛は少しだけ瞬いた。
あまりにも瑠海らしい、不器用な気遣いだった。
「ありがとう」
「う、うん……」
瑠海はそれ以上何も言わなかった。
だが、結愛にはそれで十分だった。
*
教室の後ろでは、早乙女たちがいつも通りに話していた。
笑っている。
スマホをいじり、どうでもいい雑談をし、時々大きめの声を出しては取り巻きを笑わせる。
表面だけ見れば、やはり昨日までと変わらない。
だが結愛は、一度だけその方を見た。
早乙女もこちらを見た。
視線がぶつかる。
たったそれだけの時間だった。
だがその間に、結愛は確かに見た。早乙女の目の奥に、一瞬だけ走った計算の色を。
こちらをどう扱うか。
どう反応するか。
前みたいに、空気だけで押し潰せるのかどうか。
そういうものを測っている目だった。
早乙女は先に目を逸らし、わざとらしく取り巻きへ顔を向ける。
「ねえ聞いてよ、昨日マジで最悪だったんだけど」
声は明るい。
笑いも混じっている。
だが、その明るさは以前ほど無敵には見えなかった。
それでいい、と結愛は思った。
勝ったわけではない。早乙女が折れたわけでも、教室の構造が壊れたわけでもない。
ただ、絶対だったものが、もう絶対ではなくなった。
それで十分だった。
*
一時間目が終わったあと、前の席の女子が振り返った。
「白金さん」
「……何?」
「これ、先生が後ろにも回してって」
プリントが差し出される。
ただそれだけのこと。
結愛は一瞬だけ、その紙を見た。前なら気にもしなかった種類の、何でもないやりとり。
だが今日は、その何でもなさの中に、小さな違いがあった。
その女子は、以前みたいに一拍ためらったりしなかった。
顔にも特別な表情はない。優しげでもなく、気まずそうでもない。ただ自然に、当たり前の流れとしてプリントを差し出している。
「……ありがとう」
「うん」
それだけ。
でも、その小ささがありがたかった。
後ろへ回す。
指先は少しだけ震えたが、昨日みたいに止まりはしなかった。
「後ろ、回して」
自分の声が教室の中で浮いたようには、もう聞こえなかった。
浮いていたとしても、もうそれでよかった。
*
二時間目の休み時間。
神代湊は職員室で、教頭に説教されていた。
「神代先生!! またネクタイが緩んでいます!! 教師たるもの、服装から生徒の規範とならねばなりません――」
「いや教頭、むしろこの微妙なルーズさこそが、現代における成熟した知性の象徴だと思わないか?」
「思いません!!」
怒声が職員室中へ響く。
直人が露骨にため息をつき、吉乃は机に突っ伏したまま「朝からうるっさい……」と呻いている。
「どうしてお前は毎朝毎朝、無意味に火種を撒き散らすんだ」
直人が言った。
「才能だろ」
「胸を張るな」
「しかし実際、お前もその高そうな布を鎧みたいに着込んでる時点で、人のこと言えた義理じゃないと思うが」
「これは品格だ!」
「布に頼るな。中身で勝負しろ」
「お前にだけは言われなくない!」
教頭がこめかみを押さえる。
この数分間だけで血圧が三十くらい上がっていそうな顔だった。
「……湊くん」
吉乃が机に頬を押しつけたまま言った。
「何だよ」
「昨日、なんかやったでしょ」
「何も。生徒の健全な成長を見守っていただけだ」
「その言い方で信用できる要素、一個もないのよ」
湊はペットボトルのコーヒーを飲みながら、肩をすくめた。
「実際、オレは大したことしてない。勝手に割れる殻は、だいたい中から割れるもんだ」
「卵みたいに言わないでくれる?」
吉乃が半眼で言う。
「それで、どうだったの」
「何が」
「その“中から割れたもの”は」
湊は少しだけ黙った。
窓の外では、体育の授業に向かうらしい生徒たちがぞろぞろ移動している。
「……少しだけ、面白くなった」
そう答えると、直人が怪訝そうに眉を寄せた。
「面白く?」
「誰かに与えられた正しさじゃなく、自分で選んだ面倒くささの方が、見てるぶんにはまだマシだって話だ」
「相変わらず言い方が面倒だな、お前は」
「そういう仕様だ」
吉乃は小さく笑った。
教頭だけが、会話の内容を理解していない顔で「勤務中に無駄話をしないでください!!」とまた怒鳴った。
*
昼休み。
結愛は自分の席でノートを開いていた。
昨日までと同じ教室。
同じ机。
同じ窓から差し込む光。
同じ早乙女たちの笑い声。
それでも、何かが少し違う。
前より楽になったわけではない。
むしろ、怖さはまだ残っている。明日また何かされるかもしれない。今日の放課後、もっと陰湿な形で返ってくるかもしれない。
そう考えれば、胸の奥はすぐに重くなる。
けれど、昨日までみたいな「どこへ足を置いても沈む」感じは薄れていた。
揺れる足場の上に、それでも一歩だけ自分の重みをかけた感触が、まだ身体の中に残っている。
「……結愛ちゃん」
瑠海が、少しだけ身を寄せてきた。
「ん?」
「今日、放課後……いっしょに帰れる?」
「うん」
「……よかった」
瑠海はそれだけ言って、少し安心したように笑った。
その笑いはまだ弱い。すぐに消えてしまいそうなくらい弱い。
でも、昨日の廊下で見た怯えきった顔よりは、確かに前を向いていた。
結愛も口元を緩めた。
こんなふうに笑うのは、久しぶりな気がした。
*
放課後のホームルーム。
結愛は立ち上がり、手帳を開いた。
手のひらは少し汗ばんでいた。
教室の前に立つと、今でも背筋のどこかが冷える。
誰かの視線が刺さる気がする。
自分の声が少しでも揺れれば、それだけで教室の空気がざわつくんじゃないかと思ってしまう。
それでも今日は、手帳を閉じなかった。
「来週の委員会の集合時間は、放課後四時です」
最初の一文を言う。
喉は詰まらない。
「あと、面談の希望日程表ですが、締め切りが迫っています。まだ出してない人は明日までに提出してください」
そこも、飛ばさずに言った。
たったそれだけのことだった。
けれど昨日までの自分には、言えなかった一言だ。
教室の空気は、一瞬だけ静かになった。
だが、前ほどには凍らなかった。
後ろで誰かが小さく舌打ちした気がした。
たぶん相良だ。
早乙女は何も言わない。机に頬杖をついたまま、いかにもどうでもいいという顔をしている。
結愛は手帳を閉じた。
「以上です」
座る。
足はまだ少しだけ震えていた。
でも、その震えは昨日までみたいな“言えなかった震え”ではなかった。
*
帰り支度のざわめきの中で、神代先生が教室へ入ってきた。
いつものだるそうな顔で、教卓へプリントの束を置く。
「悪いが、これだけ配っといてくれ」
そう言って結愛へ差し出す。
結愛は受け取った。少し重い。
「……先生」
「何だ」
「昨日のこと」
「何だ。お礼でも言いたいのか。受付はしてない」
「違います」
先生は面倒くさそうに片眉を上げた。
結愛は少しだけ迷ってから言った。
「まだ、怖いです」
「そうだろうな」
「でも」
結愛はプリントの端を揃えながら、静かに続けた。
「前みたいに、何も見ないふりする方がもっと嫌だって思いました」
先生は数秒、結愛を見ていた。
その視線は相変わらず気だるげなのに、人の逃げ道だけは見逃さない種類の鋭さがあった。
「上等」
彼は短く言った。
「怖いままで立てるなら、そっちの方が信用できる」
「……褒めてます?」
「半分くらいはな」
先生はそう言って、ほんのわずかに口元を歪めた。
笑ったのか、ただ面白がっただけなのかはわからない。
「ま、安心しろ。何も終わってない」
「それは……安心できる言い方じゃないです」
「だが事実だ。早乙女もいる。相良もいる。教室の空気もまだ腐ってる。お前も瑠海も、別に急に強くなったわけじゃない」
結愛は頷いた。
全部、本当だった。
「でも」
先生は視線だけを窓の外へ向けた。
「一回立ったやつがいる教室は、前と同じようには腐れない」
「……」
「前例ってのは厄介なんだよ。空気ってやつにとっては特にな」
それだけ言うと、先生は踵を返した。
だるそうな背中が、何の感慨もなさそうに教室の外へ消えていく。
結愛はしばらく、その背中を見送っていた。
*
世界は何も解決していない。
早乙女はまだ教室の後ろにいる。
相良もいる。
あの笑いも、あの視線も、あの気持ち悪い“普通”も、まだ教室の中に残っている。
瑠海はまだ弱い。
神代先生は相変わらず教師としてどうかと思うし、きっとこれからもろくでもないことを言う。
それでも。
それでもひとつだけ、以前と決定的に違うことがある。
空気に逆らって立つ、ということが、もうこの教室では存在しない選択肢ではなくなった。
一度生まれた前例は、簡単には消えない。
窓の外では、夕方の光が校庭を長く斜めに切っていた。
結愛は鞄を持ち、瑠海と並んで教室を出る。
背後にはまだ、教室のざわめきが残っている。
振り返らない。
まだ何も終わっていない。
だが、もう何も始まっていなかった頃には戻れない。
そのことだけが、不思議と結愛の背中を押していた。
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