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10話 『正しさの崩壊』

 翌朝、目が覚めた瞬間に、結愛はもう疲れていた。


 ひどく寝不足だったわけじゃない。

 熱があるわけでも、頭が痛むわけでもない。

 ただ、昨日の教室に置いてきたはずの何かが、そのまま胸の奥へ沈んでいた。


 制服に着替える。

 髪を整える。

 ネクタイの位置を直す。


 いつも通りの手順だった。

 いつもなら、この手順を踏んでいけば、自分もちゃんといつもの形へ戻っていける気がした。乱れた朝でも、とにかく整えてしまえば、それなりに“委員長の白金結愛”にはなれた。


 けれど今日は、どれだけ見た目を整えても、内側まで元に戻る感じがしなかった。


 鏡の前で、結愛は一度だけ息を吐いた。


 ――正しさの後ろに隠れてる。


 耳の奥で、昨日の声がまた鳴る。


 「……違う」


 小さく呟く。

 すぐにそう思った。

 なのに、その否定は自分の中で妙に軽かった。


     *


 教室へ入ると、何人かがこちらを見て、すぐに目を逸らした。


 それだけのことが、今日ははっきりわかった。


 昨日までだって見られていたのだろう。委員長だから、目立つから、真面目だから。そのくらいの理由で、自分へ視線が向くことにいちいち意味を感じたことはなかった。


 でも今日は違う。

 そこには昨日の授業の残りがある。

 気まずさと、好奇心と、少し面白がるようなものが、うすく混じっているのがわかった。


 結愛は何も言わず席についた。


 隣の瑠海が、おそるおそる声をかけてくる。


「……おはよう」

「おはよう」


 それだけで会話は終わった。

 瑠海は何かを言い足したそうだったが、結局黙った。

 結愛もまた、その沈黙に助けられたような、傷つけられたような気持ちになった。

 後方では、早乙女たちがいつも通り話していた。

 笑い声もある。明るい。軽い。どこにでもある朝の教室みたいな空気だった。


 それが、逆に不気味だった。


 昨日、あれだけのことがあったのに。

 何もなかったみたいに笑っている。

 いや、違う。

 何もなかったことにしようと、いつもより少しだけ過剰に“いつもの顔”を作っているのがわかった。

 神代先生に壊された空気を、必死で元の形に塗り直そうとしている。その必死さが、透けて見えた。

 

 結愛は手帳を開いた。

 今日の連絡事項は整理してある。委員会の件、提出物の確認、明日の持ち物。いつもなら、それらはただ“言うべきこと”として並んでいるだけだった。


 でも今は違う。

 そこに書かれた一つ一つが、ちゃんと口にできるかどうかを試してくるみたいだった。


     *


 一時間目の現代文で、教師に当てられた。


「白金。この一文、どういう意味だと思う」


 いつもなら答えられた。

 教科書のどの部分かもわかるし、内容だって頭には入っている。なのに、いざ顔を上げた瞬間、言葉が妙に遠くなる。


「……えっと」


 そこで止まった。


 教室の空気が、ほんの一瞬だけ静まる。

 それだけで、自分の声が遅れていることも、顔が強張っていることも、全部知られてしまう気がした。


「主人公が、その……」


 先へ進まない。

 知らないわけじゃない。ただ、答えを組み立てるための足場が、途中で崩れてしまう。


 教師は「いい、じゃあ別の人」とすぐに引き取った。

 責めるでもなく、笑うでもなく、ただ自然に。


 その自然さが、かえってきつかった。


 誰かが笑ったわけじゃない。

 何か言われたわけでもない。

 それなのに、自分だけが少し教室の真ん中へ押し出された気がした。


 隣で瑠海が小さく身じろぎした。

 気にしているのだとわかる。

 その気配すら、今は少し痛い。


     *


 二時間目の休み時間、委員会のプリントが前から回ってきた。


 結愛は反射的に枚数を確認し、足りない分がないかを見る。

 そこまでは、いつもの通りにできた。

 問題は、そのあとだった。


 後ろへ回す。

 たったそれだけのことなのに、手が一瞬止まる。


 前なら何も考えなかった。

 「後ろ回して」で終わる話だった。

 なのに今は、その何でもない一言が、自分の声だけを浮かせる気がした。


「……白金さん?」


 前の席の女子が、不思議そうに振り返る。


「あ……ごめん。後ろ、回して」


 なんとか言う。

 それだけで、妙に疲れた。


 プリントは手から手へ渡っていく。

 何事もなく、普通に。

 誰も困らない。

 誰もざわつかない。


 それなのに、結愛の胸の奥には、別の重さが残った。


 たった一言でこんなに迷う自分を、昨日までの自分ならたぶん理解できなかった。


     *


 その夜、机へ向かっても、参考書を開く気力が出なかった。


 いつもなら、勉強だけは裏切らないと思えた。

 教室の空気がどうでも、誰に何を言われても、問題を解いて、答えを合わせて、間違えたら直せばいい。少なくとも、そこには曖昧な視線や笑いは入ってこない。


 なのに今日は、その机に向かうことすら少し怖かった。


 もし解けなかったらどうしよう。

 もし集中できなかったらどうしよう。

 そんなことを考えてしまう自分に、結愛は愕然とした。


 怖いのは、教室だけじゃなくなっている。


 結愛は勉強机の引き出しから、何でもないルーズリーフを一枚取り出した。

 誰にも見せない前提の白い紙。

 そこへ、しばらく迷ってから、一文だけ書く。


 私は、何が怖いんだろう。


 文字にすると、あまりにもまっすぐで、子どもっぽい問いに見えた。

 消したくなった。

 でも消せなかった。


 嫌われること。

 笑われること。

 浮くこと。

 役割を失うこと。


 いくつか頭に浮かぶ。

 けれど、それだけでは足りない気がした。


 結愛はペン先をもう一度紙へ置く。

 そして、今度は少し時間をかけて書いた。


 私は、正しいから立っていたんじゃない。


 そこで一度、手が止まる。

 喉の奥がひどく乾く。


 でも、書かなければいけない気がした。


 立っていないと、自分がなくなる気がしていた。


 書き終えた瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。


 認めたくなかった。

 もっと高潔な理由で、自分は立っていたと思っていた。

 クラスのために。ちゃんとするために。誰かのために。

 それが全部嘘だとは思わない。

 でも、それだけじゃなかった。


 正しい側に立っていれば、自分の位置を見失わずに済むと思っていた。

 委員長でいれば、自分が何者かでいられる気がしていた。


 それは、思っていたよりずっと情けない。


 結愛はペンを置き、両手で顔を覆った。


 泣いてはいない。

 でも、泣く一歩手前みたいな息の浅さだけが胸に残る。


 正しさは、もう前みたいには自分を支えてくれない。

 役割も、委員長という立場も、そこに隠れていれば大丈夫だとは思えない。

 なのに、それがなくなったあとに何が残るのかは、まだ何も見えなかった。


 部屋は静かだった。

 誰も答えをくれない。

 誰も助けてくれない。

 ただ白い紙の上に、自分の字だけが残っている。


 たぶん、これが崩れるということなんだろう。


 何か大きな出来事で一気に壊れるんじゃない。

 正しい私を支えていたものが、静かに剥がれていく。


 結愛はしばらくその紙を見つめてから、ゆっくりと電気を消した。


 暗くなった部屋の中で、自分がもう前の場所へは戻れないことだけが、ひどくはっきりしていた。

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