1話 『盲目的な意志と消しゴム』
一端区切りがついたところまで出します。
人生とは、苦痛と退屈のあいだを永遠に揺れ動く振り子である。
何かを欲し、その欠如に苦しむ。だが、いざそれを手に入れたところで救われるわけではない。渇きが満たされた瞬間、今度は欲望によって辛うじて埋められていただけの空白が、こちらを見返してくる。人はその空白に耐えられない。だからまた新しい欲望をでっち上げ、懲りもせず苦痛の側へ身を投じる。満たされるために求めるのではない。ただ、自分の内側にぽっかりと口を開けた虚無から目を逸らすために、欲望し続けるのだ。
十九世紀の哲学者、アルトゥル・ショーペンハウアー。
彼の悲観主義は、若い頃のオレにとって単なる思想ではなかった。あれは世界の表面に薄く塗りたくられた希望だの善意だの進歩だの、努力は報われるとかいう手垢まみれの寝言だのを、爪でベリベリ引き剥がしたあとに露出する、冷たく湿った地肌そのものに見えた。
本屋へ行けば、「明日はきっと良くなる」「夢は叶う」「努力は決して裏切らない」といった、現実を一度もまともに直視したことのなさそうな連中の量産した慰撫の文句が、平積みで読者を待ち構えている。テレビをつければ、薄っぺらい笑顔を貼りつけた連中が、多様性だの絆だの希望だのと、耳触りだけは良い言葉を絶え間なく垂れ流している。だがそんなものは、現実にほんの少し爪を立てられただけで、みっともなく剥落していく安物の化粧にすぎない。
人間は理性的な存在などではない。欲望に突き動かされ、奪い、競い、傷つけ、そのくせ自分だけは善良であろうとしたがる、救いようのない自己欺瞞の生き物だ。社会とは、その醜さを互いに見て見ぬふりすることで、どうにか持ちこたえている巨大な偽装装置にすぎない。ショーペンハウアーの言葉は、その欺瞞をやけに正確に言い当てていた。
だから惹かれた。
だが同時に、オレは彼の結論だけはどうしても好きになれなかった。
欲望こそが苦の源泉である以上、それを鎮め、執着を捨て、静かに世界から退け。
なるほど、論理の帰結としては美しい。実に美しい。敗者の倫理としては。だがオレにはそれが、どうしても敗北の様式美にしか見えなかった。人生は本質的にクソで、世界は本質的に理不尽で、だから降りるしかない――賢い。たしかに賢い。だが、あまりにつまらない。そんなふうに小綺麗に悟って終わるくらいなら、まだ醜く足掻いている方がよほど誠実なんじゃないかと、当時のオレは本気で思っていた。
だからオレは、ニーチェへ向かった。
神は死んだと宣告し、既存の価値を偶像として笑い飛ばし、その暗黒の虚無のど真ん中で、それでもなお生を肯定しようとした危険な思想家へ。
大学時代のオレ――神代湊は、今にして思えば、だいぶどうかしていた。
教授だろうが研究者だろうが、権威の臭いがした瞬間に噛みついた。思想を教養として飾る連中が嫌いだった。哲学は本来、人生を上品に彩るアクセサリーではない。握り方を間違えれば他人も自分も切る刃物だ。そう本気で信じていた。
理論で相手を叩き潰し、議論で教室を凍らせ、周囲からは「秩序を破壊する危険な秀才」だの「将来を嘱望された天才」だのと勝手に呼ばれていたらしい。要するに、面倒くさい変人扱いである。だが当時のオレは、その評価をわりと好意的に受け取っていた。
しかし、その熱も永遠には続かなかった。
研究の世界も結局は、誰の理論をどれだけ引用し、どの権威に気に入られ、どの序列の中で上手に振る舞うかという、ひどく小ぢんまりとしたルールで回っていたからだ。正しいかどうかより、誰が言ったかの方が重い場面を何度も見た。真理を探す場所のはずなのに、実際に行われていたのは、ずいぶん上品ぶった縄張り争いだった。そこに気づいた瞬間、オレの中で燃えていた火は、驚くほどあっさり消えた。
気づけば、全部どうでもよくなっていた。
闘争も、真理も、超人も。
残ったのは、働かなければ死ぬという、なんとも夢のない現実だけだった。
だからこそ。
そんなオレみたいな絵に描いたような自堕落な人間が、政治家や財界人の子息が集まる名門私立・聖叡学園の教員に採用されたのは、どう考えてもこの世のバグである。人事部は一度まとめて脳ドックを受けた方がいい。
ただ、一つだけ思い当たる節はあった。
採用決定の直前に呼び出された、あの学園長との面接だ。
*
学園長室に足を踏み入れた瞬間、オレはこの学校の本質をだいたい察した。
必要以上に広く、必要以上に豪奢で、そのくせ品性よりも権威の演出にばかり熱心な空間。教育機関というより、権力が自分の正当性をそれらしく飾り立てるための舞台装置だ。高価な調度品や大仰な絵画が、ここには知性や品格が確かに存在しますよと必死で主張している。本当にあるなら、そこまで必死に飾る必要はない。
そんな部屋の中央、重厚なマホガニーのデスクの向こうで、この学園の頂点に君臨する石神蔵乃は、採用面接の真っ最中だというのにポータブルゲーム機を両手で握りしめ、親の仇みたいな勢いでボタンを乱打していた。
「あんたねえ、学園長。履歴書の志望動機欄なんざ半分以上ネットのテンプレ丸写しだし、何なら応募したこと自体オレは忘れてたんだけど。そんな無気力の権化みたいなやつをホイホイ最終面接に呼び出すなんて、この名門校の採用担当はちょっと目が腐ってんじゃねえの」
「むむ? 書類にはちゃんと目を通したぞ。まあ、文字を読むとすぐ眠くなるから、だいぶ流し読みじゃがな」
重厚なオフィスチェアに「ちょこん」と収まっているその女は、見た目だけなら中学生でも通りそうだった。小柄で、童顔で、全体的にちぐはぐだ。だがそのちぐはぐさを笑うより先に、オレはまず思った。
――この学校、やっぱり根っこの方から狂ってる。
「んんっ、あーっ! クソ、この雑魚キャラなんでそこで無限湧きするんじゃ腹立つ!」
「知らんがな。そんなことよりオレはさっさと帰って、近所のスーパーで半額シールが貼られる前の唐揚げ弁当争奪戦に参加したいんだが。面接終わっていい?」
「待て待て、あと五分……いや三分でこのステージをクリアする! しかしこのボスの隠し弱点ルートが見つからん……よいか湊、アクションゲームにおける真の正義は、とりあえず壁を殴り、怪しい背景をジャンプで突くことにあるのじゃ! とぉっ、ていやっ! そこじゃあ!」
「……本気で帰りてぇ」
ピコピコ、ズシャアアア、という甲高い電子音が、無駄に広い室内に虚しく響きつづける。
やがて、オレが皿の煎餅をすべて平らげ、渋い茶の最後の一滴まで飲み干した頃。
デロデロデ〜ン……↓
という、どう聞いても敗北を馬鹿にしているとしか思えない気の抜けたファンファーレが鳴り響いた。
「よぉしコンティニューじゃあ!」
「さっさと面接しろ!!!」
石神は、そこでようやくゲーム機を閉じた。
ふはは、と悪びれもせず笑い、机に置いてあった漆黒の扇子をバサリと開く。
その瞬間だった。
さっきまでゲームに夢中になっていた「だらしない童顔の女」の目から、緩んだ光が、潮が引くようにすっと消えた。
「――履歴書がコピペだなんて、そんな些末な問題はどうでもいいのじゃよ。人間なんぞ、書いた文字より魂の臭いの方がよほど正直じゃ」
空気が変わる。
声色は変わらない。だが部屋の温度だけが、一度に数度下がった気がした。抜き身の刃物みたいな視線が、まっすぐオレの喉元へ突きつけられる。
「お主は欧州の名門大でニーチェを齧って悦に入るだけの学生ではなかった。思想を飾りにせず、学術界の腐った権威の喉笛に噛みついた反逆の獣じゃ。そんな猛獣が、すべてを投げ出して隠居気取りになりながら、よくもまあ極東の私学などに応募してきたものじゃな」
「待遇欄を時給換算したら、そこらの外資より高かったからに決まってんだろ」
「金で猛獣は飼えるかのう」
「檻には入る。芸をするかは別だ」
「ほぅ。やはり檻の自覚はあるか」
オレは冷めた茶を啜り、鼻を鳴らした。
「オレは資本主義に飼い慣らされたただの犬だ。労働に対してカネが見合ってりゃ、そこがどれだけ腐った見世物小屋だろうが、檻の中にだって入ってやる」
「見世物小屋、とな」
「猿山だろ。違うのか」
石神は愉快そうに口元を吊り上げたあと、扇子を閉じた。
「お主に担任を持ってもらいたいのは、二年二組じゃ」
「ハズレくじか?」
「前任の真面目な男はな、生徒たちの作り出す『見えない同調圧力』という毒気に当てられた。学級崩壊と呼ぶには静かすぎ、平穏と呼ぶには歪みすぎた、あの異様な静寂を前にして、自分の無力さを責めつづけた結果……二ヶ月前に胃潰瘍と鬱を併発して辞めた。あそこは、生半可な正義感を持った教師から先に削り殺される教室じゃ」
同調圧力。カースト。沈黙。
誰も騒がないくせに、空気だけが人を殺す教室。なるほど、胸糞が悪い。
「誰も逆らわん。誰も騒がん。だが、ひとたび空気から外れた生徒が出ると、教室じゅうが示し合わせたようにそいつを『いないもの』として扱い始める。殴りもせん。罵りもせん。ただ、存在ごと削っていく。実に上品で、実に陰湿じゃ」
「胸糞悪さの補強ご苦労さん」
「しかしお主は、空気を読まぬだけではない。空気を読めぬふりをして、もっと下品な本音を引きずり出す顔をしておる」
「褒めてんのか、それ」
「半分はな。残り半分は災害指定じゃ」
石神の目が、わずかに細くなった。
「この学園は少しばかり『優秀であること』を求めすぎた。だからあぶれた連中は、薄っぺらい順位だの空気だのに自分の生存権を預けて、互いの視線で互いを縛る家畜の群れになっておる。そこへ、お主みたいな空気をまったく読まぬ異端の石を放り込めばどうなるか。まあ、わしなりのささやかな社会実験よ」
「社会実験、ね。胸糞悪いな」
「そうか?」
「人を壊す実験ってのは趣味が悪い。せめて壊れるなら、自分の意思で壊れろって話だ」
「ほう」
「見えない圧で削るのが一番腐ってる」
オレは煎餅の欠片を指先で払ってから言った。
「先に言っとくが、生徒の更生だの悩み相談だの、そういうカウンセラーじみた真似をする気は微塵もない。定時上がりは絶対。残業一分で別途時給五千円よこせ。給料分だけ板書して、給料分だけ適当に流して、とっとと帰る。そこんとこ、夜露死苦」
「かっはっは。上等じゃ。期待しておるぞ、ツァラトゥストラの落とし子よ」
「その二つ名やめろ」
「では契約成立じゃな。手始めに、そこに落ちておるわしの消しゴムを拾ってくれんか」
「自分で拾え」
「嫌じゃ。学園長は拾わぬ。拾わせる側じゃ」
「最低だな」
「教師という仕事も、案外そんなものじゃぞ。教室で誰かが落としたものを、見て見ぬふりできん阿呆から順に拾わされる」
「採用面接の締めに夢のないこと言うな」
「安心せい。二年二組では、消しゴムより厄介なものがようけ落ちておる」
「今から辞退ってできる?」
「できん」
机の脚のそばに転がっていた白い消しゴムは、妙に小さく、妙にみすぼらしく見えた。
オレは深々とため息をつき、それを拾った。
たぶん、最初からそういう話だったのだ。
この狂った名門校では、誰かが落としたものを、見て見ぬふりのできない間抜けから順に拾わされる。
――そんな頭痛のする面接の末に。
オレはこの狂った名門校の教壇に立つことになった。




