第三章 2022年 120万のカメラ
冬を越え、木が新たな衣をまとうようになった頃、澄華はサンプリング会社の説明会に臨んでいた。サンプリングとは、ビラやティッシュ、試供品を街頭で手渡す業種のことだ。説明を受けるだけと油断していたから、黒く焼けた営業マンの男に意気込みを問われるとは思わなかった。
「応援していたアイドルがビラ配りをしていたことで知りました。目線を合わせて時にはしゃがんだり、配布物が風に飛ばされても捨てられてもめげずに配る彼女たちを見て、勇気をもらい、やりたいと思ったからです」
「雨の日も関係なく、カッパ着てやるけど、覚悟はできてますか?」
「はい」
迷いはなかった。履歴書も渡している。接客の経歴も見ていて、シフトが減ったことは言わなくても察せられるはずだ。給料受け取り口座と簡単なビデオでのレクチャーを受けた。募集メールの通知が他のメールに埋もれずにするべく、仕事専用の新しいメアドを作った。案件の一覧を見せられて早速仕事を入れた。
クライアントに日時が指定されており、誰かしら働かないといけないことが決まっている。翌日、欠員が出た、N駅の現場で業務を開始した。整体店の新規オープンの広告入りティッシュを配っていく。
「こんにちは。Vストレッチです。新規キャンペーンで四月一日まで全メニュー30%オフです。よろしくお願いします」
「ありがとね。助かるわ」
澄華は道路を舞うように、声をかけた。上手くいくことばかりではない。
「お姉さん、可愛いから二枚もらってあげるよ」
銀髪のウルフカット男が声をかけてきた。
「一枚しか駄目なんです」
やんわりと断る。
「お姉さん、アイドル?」
「違います。服装見れば分かるでしょ。道路使用許可取ってますから」
「ノリ悪っ。つまんね」
周囲からスマホを向けられたのを見たからか、男は逃げていった。気を取り直して、目元に笑みを浮かべる。楽しそうに配っているのが通行人に分かるようにすること、電車が走る中でも隣の会話が聞こえる程度の音量に抑えることを意識した。勤務後、腕、太もも、膝とそこらじゅうが痛んだ。真梨は比べものにならないくらい、カロリーをステージで消費しているのだろう。欠員を示すメールを待って勤務した日もあった。3日から1週間前に仕事が決まる場合が多いため、当日欠勤の場合、給料を上げざるを得ない。その結果、日給が500円から1500円上がる。時間が遅いと、日給が1000円上がるという謎システムのおかげで、新卒一年目の給料に近いくらいにはもらえた。春休みは現場から離れて、新たなバイトに明け暮れた。
炎上が功を奏したのは、紗英にとって思わぬ誤算だった。ツーショットではなく、メンバーのソロショットを初見の客の特典にすると、皆城が明言したおかげか、写真を撮るのが上手い人が集まるようになった。本格的なカメラやチェキカメラを持つ人まで現れた。練習台にされても苦にならない。そこまでは良かった。しかし、レギュレーションにないものを求める声がちらほら上がるようになった。写真やチェキを自分で撮りたいという客が現れたのだ。通常、ソロショットは拓実さんがチェキを撮ることになっている。ファンは撮れない。20秒間、動画の撮り放題はあるのだが、静止画のメニューはない。紗英は特典会の終わりに、ファンに向けて呼びかけた。
「特典会の静止画の写真取り放題、前向きに検討します。待っていてください」
異例の事態だ。ライブ終了後、皆城が運転する車内で、真梨は窓に頭がつきそうなほど、首を左に傾げている。寝ていそうだ。隣の琴音が言った。
「さっきの話、何枚も連写して隠されたらどうするの?」
「メンバーがチェックすればいいんじゃない?」
「時間かかって回転が悪くなりそう」
信号が赤になり、皆城が後ろを振り返った。
「二人とも、しつこくて嫌な客はいない?」
皆城は毎回、心配してくれている。確認を欠かさない。
「いなかったです」
「ライブのときは写真撮影が自由なのに、モヤモヤするって言われて粘られたくらい」
紗英はその方のアカウントを皆城に送った。皆城は何かを打ち始めた。
ライブ中の静止画撮影は、2020年から最後の一曲のみ可能だったが、2022年春、全曲撮影可能になると、ドルマリのZでアナウンスされた。就活中はどうしても、ライブから足が遠のいた。オンラインでの説明会と面接続きで、リングライトを煌々と灯していたし、画面との距離、顔の影が濃くならないような画角調整など、自分をいかによく見せるかの毎日だった。就活を通して、アイドルの苦労の一端を知れた気がする。投稿内容は、バラエティ寄りの動画ではなく、清掃ボランティアの様子を映したものやASMRといった当たり障りのないコンテンツに変わっていた。何の因果か、フロアの勢力図も、一変した。澄華が譲られそうになった最前列や居座っていた二列目は、それより後方のエリアと二倍以上の価格差になり、レンズを構える者や、サビでひたすらジャンプする『マサイ』が陣取る指定席と化した。その中に、ひときわ目立つ存在がいた。くたびれたカーディガンを着た、どこにでもいそうな中年女性の大きなカメラに目を奪われていると、背後から懐かしい声が聞こえた。
「おう。久しぶりだな」
「もしかして、会長ですか?」
「覚えていてくれて嬉しいよ。だいぶ仕事も落ち着いて、来てみたくなったんだ。無事、就活は終わった?
「終わりました。解放感がすごくて」
「すごいで思い出したけど、あの、おばさん。最近よく見るんだよ」
誰よりも大きいフィルムカメラを手にしている。脇にある手すりにもたれかかりながら、松島が諦めたように肩を落とした。
「機材だけで総額120万だってさ。夫が高給取りらしい」
おばさんは時田と言うらしい。澄華は家賃を支払うのでも手一杯で、バッテリーの寿命がきて最新のスマホに変えたばかりなのに。住む世界が違う。女性ファンがちらほら見える。数えると三人ほどいる。ASMRで増えたのかと澄華は邪推する。ライブが始まると、時田の両隣にいたオタクが一人分の距離を取った。まるで、芸能人が現れて周囲が道を自然と開けるような動きだった。センターで真梨が指ハートを作った。澄華は一瞬だけ、スマホ越しに真梨と目が合った。横に動くのもままならない。背伸びをして見上げてもキノコのような頭が並ぶばかりだ。両脇にあるテレビモニターを見上げる。澄華の少し右、おばさんのカメラに視線が吸い寄せられていた。紗英も琴音も例に漏れず、手前のカメラやマサイの前に目線を送っているように見える。金を持った時田のカメラやオタクが捧げるペンライトの束に向かって、手招きしたり笑顔を投げかけている。
目を逸らした。メジャーアイドルが、神席を引く運の強さで決まるなら、地下アイドルは、どれだけ金を積めるかで決まる。徳を積んだかなんて関係ない現実が眼前に広がり、スマホの画面を見た。スマホの画面には真里の横顔が映っていた。視線が自分から逸れていく。どこか気の抜けた瞬間を捉えていた。若さも、真摯な気持ちも、120万の機材の前では無力だった。澄華は画面を押す指を止めた。
梅の蕾が真紅に色づきはじめた頃、澄華は松島にメッセージを送った。
〈先輩、カメラの練習相手になってください〉
澄華は新品のデジタルカメラを購入した。松島に購入するカメラの種類を相談した結果、小型カメラで手を慣らしてから、ワンランク上の一眼レフを購入した方がいいと答えられたからだ。土曜日に約束を取り付けて、ライブが始まるまでの時間、お互いを撮り合うことにした。雑居ビルがひしめく中に、ぽつんと噴水のある公園を見つけた。朝八時という早い時間なこともあって、犬の散歩をしている若い女性がいるだけで、ほぼ貸切状態だ。噴水の前に松島が立つ。二、三枚撮影して、松島に見せた。
「ズームして良いと思うな。ライブの席、最前列じゃないでしょ?」
「カメラ極められたら挑戦してみようと思って」
半分は嘘だ。カメラより軽いスマホでさえ、手が震える。最後に、松島に一縷の望みを託したかった。
「どこが分からない?」
「分からないところが何か分からないです」
「そこからか」
「スマホと一緒でズームできるんですか?」
「レンズの横のWはワイドで、Tで被写体を大きく写せる。よく使うのはTだ。後ろのエリアからだと、頭と頭の合間から推しの顔がちょこんと出たときを狙って、拡大すればいい」
「ワイドパンツは、広がるパンツだから。その逆で覚えますね」
「独特な覚え方だな。まぁ、もう一回やってみよう」
言われた通り、Tを押し続けて拡大する。松島が近づくに従って手が震えた。
「手ブレか。僕が相手でも緊張するのか。肩に力入りすぎてるのかな。リラックスしよう」
松島は、自分が撮るはずの時間も澄華の練習に充ててくれた。その後もみっちり2時間半、写真を撮り続けた。




