その後 3.子守唄
その日は朝から霧りが出ていた。まだ冬の気配が濃い春先によく起こる現象だ。
クレーネー王国を出て七年。マレは当初予感していた通り、温暖な海の傍の街へと移り、そこに住み始めていた。
移り住んでからは三年となる。二年はルボルとエクラの故郷に滞在していた。
借りた家は小高い丘の上、周囲を林に囲まれた中にある。それでも、木立の間からは海が見えた。テラスからもそれは見えて、食事を取りながら眺める事もできる。
温暖な地方とは言え、冬はそこそこ気温が下がった。春が近づくと緩むが、朝晩はまだ肌寒い。とは言っても、薄いショールが一つあれば事足りたが。
「マレ、手紙だ」
買い出しから帰宅したブルーナが、両手いっぱいの重い荷物をテーブルに置くと、手紙を差し出してくる。
リーマの身体はあまり丈夫ではないため、力仕事はブルーナが一手に引き受けていた。
手紙はいつも街の商店で預かってもらっていて、買い出しの時に、まとめて受け取る。だから、届いていても、悪天候や用事がほかにあると後回しとなって、かなり遅れて受け取ることもままあった。
けれど、それで問題があった事はない。急ぎのものは、別便で届けてくれるようになっているからだ。
「これ──」
差し出し人を見て、マレは動きを止める。署名にサイアン・ラクテウスとあったからだ。
言ってから顔を上げると、こちらを見つめるブルーナと目があった。
「…読んだ方が早い」
「──うん」
言われてマレは急いで手紙を開く。内容は、自身とアロの近況と、マレ達への気づかい。後は──。
「──来るって…」
「誰が? いや。──まさか?」
「うん。アロと──サイアンが…」
アロはサイアンの従者だ。数年前、見習いから正式に従者となったのだ。青の騎士団の団長となったサイアンは、この国に用務があり、城へ寄った帰り、立ち寄るらしい。
手紙に書かれている日付から四週間は経っていた。街の商店にはもう少し前に届いていたのかも知れない。手紙には、書いてからすぐに立つと書かれていた。
ここは王国クレーネーからは徒歩ならふた月。騎乗なら飛ばして半月。ゆっくり来ればひと月。サイアンは騎乗だが、アロが一緒なら飛ばす事はないだろう。
──それなら到着は──。
「いつ頃、到着すると?」
「…それが…。多分、今ごろには──」
「今ごろ?」
ブルーナも思わず聞き返してきた。と、タイミング良く誰かが玄関の扉をノックする。
──まさか。
マレは慌てて玄関へと向かった。
「──はい」
恐る恐る扉を開ければ──。
「マレ!」
日に焼けた顔に満面の笑みを浮かべた少年が、マレに飛びついてきた。
身長はすっかりマレを追い越している。濃い栗色の髪が頬をくすぐった。それに、懐かしい匂いに気づく。サイアンが使っていた、あのクリームの香りだ。
「……アロ?」
「そうだよ! ──会いたかった…! って、忘れていないよね?」
小首を傾げて見下ろしてくる。
「忘れてなんかいないよ…。──それより、顔を見せて。──ああ、大きくなったね!」
マレは自分を見下ろす少年を、眩しく見つめた。
かなり凛々しく美丈夫に育った。力強く明るい容姿は、血の繋がりなどないのに、どこか父ルボルを思い起こさせる。
マレはその頬に触れながら。
「──なんか、嬉しいな…。あの、アロがこんなに立派になって…」
「もう、あれから七年だよ。大きくなって当然! ──って、俺より。ほら──」
そう言って、背後を振り返る。すると、その背の向こうにひどく懐かしい姿をみとめた。
「──サイアン…」
「久しぶりだな…。──マレ」
金糸の髪が陽を浴びて輝く。サイアンはそう言うと、笑んで見せた。
✢
その後、お茶の準備を整えたブルーナは、街を案内するとアロを外へと連れ出した。二人きりになるよう、気を利かせてくれたのだろう。
マレはブルーナが用意してくれた白磁の茶器を並べ、サイアンの為にお茶を淹れる。
──まるで、昔に戻ったみたいだ。
薬草入りのお茶は昔と同じだが、配合は少し変えている。ブルーナ用だ。
ブルーナは幼い頃、喘息を患っていた様で、気管支が弱い。その為、喉の炎症を和らげる薬草が入っているのだ。
サイアンはそれをひと口、飲んだあと。
「──昔と同じだが──少し、違うな…。微かに甘い味がする…」
「うん、そうなんだ。…ブルーナが喉が弱くてね。それにあうように変えてあるんだ」
「そうか…。──変わるものだな…」
サイアンはお茶を見つめながら答える。それは、お茶の事ばかりを指しているのではないと分かっていた。
「そうだね。──もう、あれから七年だもの…」
マレは自分の分も淹れると、テーブルを挟んで斜め向かいに座った。テラスへと続く扉は開け放たれている。そこから、甘い花の香りと潮風が流れ込んできた。
陽が出たおかげで、すっかり暖かさを取り戻している。サイアンはお茶の入ったカップを置くと、改めてこちらへ向き直り。
「…今更だが──私は謝らねばならない。リーマと思い込み、ひどい仕打ちをしてきた…。──すまなかった」
「そんな! 謝らなくていいよ。…当たり前だもの…。僕は──『リーマ』なんだ。サイアンがああしたのも、当然のことだよ…」
サイアンに始めて叩かれた時の痛みが蘇ったが、それも今は思い出の中へしまわれている。
「君がそう言っても、私は自分を許せない…。幾ら憎い相手とは言え、感情に任せすぎた。そのせいで、真実を見ようとしなかった…。それができたブルーナは、大した人物だ。マレを──愛する資格がある…」
「資格なんて、そんな…。今、僕がこうしていられるのは、サイアンが大切にしてくれたおかげだ。──サイアンがいたから、僕はひとり切りにならなかった…」
──リーマの様に。
ひとり、放っておかれることなく、サイアンが向き合い、愛情を注いでくれたから、今のマレがある。
──サイアンが、優しく接してくれたから──。
『これからは、一緒に寝よう? ね? 僕がずっと傍にいるから。──大丈夫だよ。マレ』
柔らかく微笑む、幼いサイアンがそこにいた。
「──マレ?」
サイアンが向かいから声をかけてくる。気がつけば、涙がこぼれていた。
「……ごめんっ。──なんか…」
昔を思い出してしまった。
慌てて手の甲で拭うが。衣擦れの音と共に、サイアンが席を立ち、マレの足元に片膝をついた。マレはサイアンを見下ろすかたちになる。
サイアンは膝に置かれたマレの手を取ると。
「──マレ。私はどんな時も、マレを思っている。姿が変わって、昔のように触れる事が出来なくとも、心は変わらない。……心だけは、ずっと傍にいる…」
「……サイアン」
「君がほかの誰かを愛しても、それごと、君を愛そう。…私はいつもここにいる」
そう言うと、マレの胸へもう一方の手を当てた。そこから、温もりが伝わる。
「──っ」
「──だから、泣かないでくれ。マレ。悲しむことなど何もない…」
「サイアン…!」
思わずサイアンの首すじに抱きついていた。
──僕の半身。あなたがいなければ、僕は生きて来られなかった。
サイアンも腕を回し、抱き返してくれる。本当は──抵抗があるだろうに。
「マレ…。君がどんな姿だろうと、もう気にしない。──もっと早く、その事に気がつけば良かった…」
「サイアン…」
マレは顔を起こす。サイアンは苦笑して見せると。
「逃がした魚は大きすぎる…。──マレ、愛している…。どうか──幸せに…」
そう言ってから、もう一度、強く抱きしめられた。
✢
しばらくそうしていたが、どちらともなく腕をとき、互いに顔を見合わせ笑いあって。
後は庭を眺めながら、今まであった事をぽつりぽつりと語りあった。
それは、静かでとても穏やかな時間だった。
「マレ! はじめて海を見たよ!」
賑やかな声と共にアロ達が帰って来た。
背後を振り返れば、満面の笑みのアロがこちらに駆けて来るところ。その向こうにブルーナがいる。
「アロがはしゃいでな。どんどん海の中へ入って行くから、止めるのが大変だった。──おかげでずぶ濡れだ」
ブルーナはそう言って、濡れた髪をかきあげる。
「まだ、春先なのに? ブルーナ、アロ。お湯を浴びてきて。ストーブにお湯が湧いているから。風邪をひくよ!」
マレは急いで乾いたタオルを取りに行き、それを二人に渡すと背を押した。アロは不満げに。
「大丈夫だよ。これくらい──」
「だめだめ。潮風は案外、冷えるんだ。ブルーナ、すまないけど、アロの面倒を見てくれるか?」
「もちろん。──ほら、アロ、こっちだ。いつもは従者をしているんだろう? 聞き分けがないのはらしくない」
「えー…」
ぶすっとしたアロに今度はサイアンが。
「アロ。ブルーナはかなり優秀な従者だった。──話しただろう? 言うことはよく聞いて、見習うといい」
「サイアン…。それって、俺はまだまだってこと?」
「ブルーナと比べれば、だ。伸びしろは十分ある」
「あーもー、まだまだってことかぁ~」
アロは情けない声を上げたあと、観念してすごすごとブルーナについて行った。マレはその背を見送ったあと、
「アロはいい子に育ったね」
「ああ。二人でいる時は、敬語はなしにしている。普段はもっとしっかりしているんだが、甘えられる環境に気を許しているんだろう。──アロを見ていると、時々、マレの幼い頃を思い出す…」
「似てる?」
「──似ている。まっすぐなところが。一緒にいると、心が明るくなって、安らぐ…」
その言葉に、マレはサイアンを見返す。口元には柔らかい笑みが浮かび、眼差しも和らぐ。
──これって。
マレは後は何も言わず、そんなサイアンを見つめていた。
アロとサイアンがここにいられるのは三日ほど。その間、宿を取るつもりだったのをやめさせ、家に滞在してもらった。
賑やかな夕食と長めの歓談を終えて、寝る段になると。
「マレと一緒に寝たい!」
アロがマレの腕をつかみせがむ。まるで子どもの頃に戻った様だ。
「いいけど…」
サイアンと同じ部屋にする予定だった。マレはサイアンを見る。
「ブルーナがよければ、好きにするといい」
ブルーナも、頷いて。
「俺はサイアン様と一緒でいい。積もる話しもあるだろう」
「ありがとう、ブルーナ。──じゃあ、お先に。アロ、部屋はこっちだよ」
そうして、アロを部屋へと案内した。
窓の下に置かれたベッドからは、夜空がよく見える。そこだけは譲れず、潮風が入って寒いのでは? と言うブルーナを押し切って置いたのだ。後で理由を話すと、ブルーナも納得してくれたが。
アロと二人、そこへ寝転がる。
「わぁ…! 星がよく見えるね」
「だろう? …昔、住んでいた家が、そうだったんだ。同じにしたくてね…」
「お父さんと過ごした? 薬草園のある?」
「そうだよ。薬草園は、まだあるの?」
アロは頷くと。
「ある! それと──サイアンから聞いたよ。マレに起こったこと…」
「──そう。アロは信じられた?」
「うん。だって…マレはマレだ。どんな過去があったって、変わらない。大好きだよ!」
「…アロ」
「同じ様に、サイアンも好きなんだ。──マレへのそれとはちょっと違うけど…」
「──それって、恋人になりたいって…こと?」
「……ん。サイアンの中でマレが一番だってわかってる…。わかってるけど、それでも好きなんだ」
アロは薄暗がりでもわかるほど、顔を真っ赤にしてそう口にした。アロはまだ幼い。けれど、あと数年もすれば青年だ。
思いが真実であれば、年齢など関係ないだろう。
マレは先ほどのサイアンを思い浮かべながら。
「──アロ」
「なに?」
「いつか──心が決まったら、その思いを伝えるといい。黙っていてはダメだよ? …きっと、サイアンは応えてくれる」
「でも…」
「大丈夫。サイアンにはきっと、伝わるから」
もし次に、同じ様に思うものが出来たなら、今度こそ、サイアンは手放さないだろう。それだけは、はっきりしていた。
「…わかった。そうする…」
マレは傍らのアロの頭をくしゃりと撫でると。
「サイアンには押しの一手だ。──思いが真剣ならきっと応えてくれるよ」
「…うん!」
アロは戸惑う様な表情を見せていたものの、最後には元気よく返事を返した。
──あなたには、光がよく似合うから。
アロを思うサイアンは、昔と同じ、光をまとっているように見えたのだ。
✢
別室。客間のそこへサイアンと共に、ベッドを並べたブルーナは、ふと傍らからの視線に気づき、顔を上げた。
ベッドの脇に置かれた机の上には、燭台に灯されたロウソクの炎が揺れる。
「──サイアン様?」
「…いや。その──マレは元気に過ごしているのだなと思ってな…」
ベッドサイドに腰を下ろしたサイアンは、視線を床へと落とした。
「──はい。その後、体調を崩すこともなく。…アロやサイアン様の話はよくしています。──嫉妬を覚えるくらいには」
その言葉に、サイアンは苦笑する。
「嫉妬しているのは、私の方だ。──すっかり、マレは君に夢中なのだからな」
もちろん、冗談でそう口にしているとわかっているが。
「マレを知って、嫌うものなどいません。マレも誰もが好きで、また、誰にでも好かれる──。なので、目が離せません」
「その気苦労はわかる…。それをしなくていい分、楽になったのだろうが──。正直、後悔はある」
その言葉に、ブルーナはサイアンへ鋭い視線を投げかける。サイアンもまた、ブルーナを見返した。一瞬、空気が張り詰めるが。
サイアンは首を振って笑うと。
「──今さら、二人の間に割って入るつもりはない。そんな事は、マレが望まないからな…」
「…マレが望めば、その気があったと?」
「否定はしない。──だが、みごとにそんな邪な思いは打ち砕かれた。マレが今、思うのは君だ。…残念だが仕方ない。──当然の結果だ」
サイアンはどこか淋しげな微笑を浮かべ、ベッドに横になる。
ブルーナは灯されたロウソクの炎を吹き消したあと。
「もし──あなたがマレを取り戻しに来たなら、決闘を申し込むつもりでした…」
そう口にすれば、僅かな間のあと。
「──そうならずに済んで良かった…。マレを──頼む」
サイアンはそう言うと、衣擦れの音と共に寝返りを打って、こちらに背を向けた。
サイアンとて、もしマレが揺れるようなら、そうしようとしていたのかも知れない。
──しかし。
マレは揺らがなかった。
ブルーナは小さく息をつくと、同じくベッドに横になり、後は静かに眠りについた。
アロはサイアン共に日々楽しく過ごし、三日後、またクレーネーへと帰って行った。
「寂しくなるな?」
家の前で二人を見送ったあと、ブルーナがそう声をかけてくるが。
「うん。──けど、また来るって言っていたし。次はラーゴおじさんも連れてくるって。おじさんにもサイアンから話したんだって…。なんか、段々と昔に戻って行くみたいだ」
「…そうだな」
ブルーナの視線は、過去を追うように遠くへ向けられ、その後、伏せられる。その横顔に一抹の寂しさを読み取って。
マレは二人の去った方向を見つめながら。
「──でも、僕はアロとサイアンが幸せならそれでいいんだ。昔は昔。今の僕にはブルーナがいてくれるから、ちっとも寂しくないよ?」
そう言って微笑めば、ブルーナは面食らった顔をして見せたあと、苦笑して。
「…マレには、勝てる気がしない」
そう言って、背後から抱きしめて来た。その腕は温かく、二度と手放せないものだと思った。
──サイアンと同じ様に、僕もまた。
「サイアン!」
十八歳となり、成人を迎えたアロは、その日、自身を祝う晩餐のあと、サイアンを呼び止めた。
サイアンと二人、涼みに庭先へ出た時のこと。庭にはマレの薬草園から株分けした草花が競って咲き誇っている。
「…どうした?」
二人だけの時は、名を呼んでいいと言われている。それを許されているのは、ここにいる者の中ではアロだけだ。
ゆるくウェーブを描く金糸の髪。白磁の様な肌。蒼く澄んだ湖面の様な瞳。
マレが──愛した人。
「サイアン、俺──!」
急に吹きつけてきた強い風に、負けじと声を張り上げて思いを伝えた。
白い花びらが舞う。
サイアンは目をわずかに見開いたあと──。
「──私もだ…」
そう言って、春の陽射しのように、柔らかい笑みを浮かべた。
子守唄がきこえる──。
誰が歌っている?
──ああ、この声は──。
長い眠りについていた、濡羽色の髪を持つ青年は、目を覚まし声の主を探した。
唄がやみ、ひとりの青年が振り返る。
こちらに向かって、手を差し出してきた。懐かしい微笑みと共に、優しい眼差しを向けてくる。
──迎えに来たのか。…アラン。
頷く青年の手を取って、ともに歩き出す。
──今度こそ、この手を離さない──。
ー了ー




