26.湯あみ
その後も、穏やかな日々が続いた。
朝、起きて身支度を整え、パンとスープ、サラダの簡素な朝食を取り、それが一段落したら、掃除と洗濯。時間があれば庭の手入れ。
それらが終わると小休止。
昼食後も似たようなものだ。
庭の手入れは楽しい。幾つか薬草にもなる草花も見つけた。それらを手入れしていれば、時間はあっと言う間に過ぎていく。
午後はその薬草を摘んでいた。摘むとツンとした、でもさわやかな香りがする。
そうして、ふと顔を上げれば、丈のある野草に囲まれる中、鼻先を蝶がかすめ飛んでいった。
──のどかだな。
判決が下りるなど、嘘のようだった。このまま、穏やかな日々が続くのなら良かったのに。なぜかリーマとなって罪を負い、処罰されようとしている。
白い小さな花が、目の前で風に揺れていた。
──ここにサイアンがいたなら。
無理な願いとわかっていても、つい、そう思ってしまう。
ここは、あの実家の薬草畑で、いつもの様に、手入れに夢中になっているマレに、いい加減、休めと声をかけてくるのだ。
そこへ腰を下ろし空を見上げた。自然とあの子守唄が口をついて出る。サイアンが歌ってくれた唄。
大人になっても、時々ベッドで歌ってくれた。歌詞もない鼻歌だったけれど、それで十分だった。
この先、どんな試練が待っていても、サイアンと過ごした日々は、誰にも奪われることはない。あの記憶さえあれば、どんなことも乗り越えて行ける。
──サイアン…。
そこへ、膝を抱えうずくまっていれば。
「リーマ様? いかがなされました?」
突然、背後から声をかけられた。顔を起こすと、黒髪の青年が心配そうにこちらを見下ろしている。
「ブルーナ…。ごめん、何でもない。大丈夫だよ」
言って急いで立ち上がろうとすれば、足元が揺れた。
「っ」
「リーマ様!」
ブルーナが腕を差し出す。どうやら目眩を起こしたらしい。急に立ったのが良くなかった。その腕につかまって、事なきを得る。
「…ありがとう。ブルーナ…」
「無理はなさらないように。今日はもうこの辺で…」
「そうだね。今日はやめておくよ…」
横に置いていた籠を取り上げると、ブルーナに支えられる様にして、裏口から室内に戻った。
「いったい、何にそんな夢中になっていらっしゃったんです?」
「そこに薬になる野草があってね…。つい、夢中になって摘んでいたんだ。湯船に浮かべると身体が温まるんだ。ブルーナ試してみて」
手にした籠いっぱいに摘まれた葉を見せる。スッとするいい香りがした。ブルーナは籠を受け取ると。
「…いい香りです。そんな薬草があったのですね」
「うん。見た目はぱっとしない地味な植物だから、見落とされがちだけど…」
「詳しいのですね?」
「あ…うん。その──マレに…」
「マレ? …あの、ラクテウス家の?」
「…彼に、教わったんだ」
咄嗟についた嘘だった。
「そうですか…」
ブルーナは黙って、何事か思案している様だったが。マレは籠の葉に目を向けながら。
「布の袋か、無いなら布に包んで、お湯に浮かべてみて」
「わかりました。早速、リーマ様の湯船に浮かべましょう」
「僕はいいよ。この量で一回分だもの。今日はブルーナが試してみて。僕は疲れたから、軽く浴びるだけにするよ」
「ですが──」
「遠慮はいらないよ。僕は…もう、人にかしずかれる様な人間じゃないんだから。お湯を浴びたら、僕は部屋で少し休むよ。夕食はいつもより遅めで。量も半分でいい。パンとお昼のスープの残りだけで十分だから。──じゃあ」
ブルーナの腕から手を離すと、壁を手摺がわりにつたいながら台所へと向かう。そこにはストーブにかけられたケトルに湯が沸いていた。それを浴室に運ぶのだ。
身体がなまりでも乗せられているかのように重かった。やはり、この身体にあまり負荷はかけられないらしい。
──庭の手入れくらいでこんなになるんじゃ、な。
よほどなまっていたと言う事だ。リーマとして屋敷にいた時も、たいして身体を動かすような事はしてこなかったし、そんな状況になることもなかった。マレでいたときは、そんなことはなかったと言うのに。
──慣れればもう少し楽になるんだろうけれど。
慣れるころには、ここを離れることになるのだろう。ため息交じりに息を吐きつつ、ストーブにかけられたケトルに手をかけた。軽く持ち上げたがかなり重い。
「ん…っと」
両手で持ち上げようとすれば、背後から伸びた手がそれを持ち上げた。ふわりと軽くなって、咄嗟に傍らに現れた影を見上げる。
「ブルーナ…」
「無理はなさらずに。これは私が持っていきましょう」
「…ありがとう。ブルーナ」
「いえ…」
言うと、ブルーナは片手で軽く持ち上げたそれを浴室へと運んでいった。広い背中が頼もしく目に映る。
✢
ブルーナはもともと従者というわけではないらしい。前に尋ねると、もとは騎士団に所属していたのだと話してくれた。
それ以上は話したくなさそうだったため、尋ねはしなかったが。なにか事情があって離れたのだろう。
慣れない仕事をどうして引き受けたのか。上官の命令で仕方なくそうしているのか。
この仕事を引き受けるために、辞めたわけでもないだろうに。
酷い噂しかない、扱いにくいリーマの面倒など、この仕事に慣れたものでも引き受けたいとは思わないだろう。
本来なら専用の下僕やメイドがつき、監視に数名の兵士がつく。それをすべてブルーナ一人が引き受けたのだ。
──押し付けられたのかもしれないな。
多くは語らないブルーナだが──それも監視も兼ねていると思えば仕方ない──人がいいのはよくわかる。彼のためにも、早くこの仕事から解放してやった方がいいのだろう。
──じきに判決が下りる。
そうすれば、自由になるだろう。
すでに月の半ばを過ぎている。その日が刻々と近付くにつれ、気持ちが沈み、恐怖に身体がすくむ。
覚悟はしたとは言え、やはり『死』を目の前に突きつけられると、その思いが強くなった。
知らずにそれを迎えるのと、知って迎えるのと。どちらがいいとは言えないが。
後者の方が準備はできる。世話になった者に礼を言い、死後も迷惑をかけない程度に、身の回りの整理もできる。
──今は、そのどちらもできないな。
礼も言えなければ、マレでいた頃、やりかけていたものすべて、放り出したままだ。
薬草の畑はどうなっているのか。サイアンもそこまで面倒は見切れまい。管理人に見てもらっているかもしれないが、中には扱いの難しい薬草もある。きっと枯れているだろう。
なにもかも中途半端で。なにより、サイアンに何も伝えられなかったのが悲しい。
あなたとの日々があるから、今、こうして穏やかでいられるのに。
浴室に向かうと、ブルーナがすっかり湯あみの準備を整えていてくれた。
洗い場に置かれたたらいには丁度いい温度のお湯と、横にはつぎ足し用のお湯の入った手桶も置かれている。
その中に先ほどの薬草を少し入れたのか、いい香りが浴室中に漂っていた。思わずその香りを胸いっぱいに吸い込む。
「ありがとう。ブルーナ。全部用意してくれて」
「いえ。…確かにいい香りがしますね」
ブルーナは視線を湯へと向けた。笑顔で頷くと。
「そうでしょ? これを嗅ぐといつもすっきりとするんだ。それだけで疲れが吹き飛ぶようで…」
「…リーマ様のお屋敷でもそうされていたのですか?」
「──えっと、うん…。そうだね。マレに、進められて……」
また、適当な理由をつけて答えた。
実際はラクテウス家にいた頃の話だ。リーマの家でそれをしたことはない。
従者でいた時も、当初はひと月の予定だったため、そこまで用意できなかったのだ。
なにより、リーマはすでに使っていた高価な入浴剤もあり、その辺の薬草で作ったものなど出番ではなかった。
ブルーナは知らないからと、つい、地のままでいるが、リーマの噂を耳にしていたなら、違いを感じているのかも知れなかった。
リーマほどの位のものが、その辺の野草を使ったり、詳しくなったりなどすることはないのだ。
──でも、これもあと少しだから。
せめて最後のこの時は、心はマレでいたかった。ブルーナはタオルを湯で濡らしだしたのを黙って見ていたが、
「…背中だけ、お拭きしましょう」
「そんな、いいよ。申し訳ない…」
「気になさらず。手も届きにくいでしょうし、今日は特にお身体も辛そうですから…」
確かに身体は重い。それにせっかくの申し出を断るのもどうかと思い。
「──うん。じゃあ、お願いするよ」
「では…」
ブルーナはたらいに浸したタオルを引き取ると、それを絞る。その間に着ていたシャツを脱ぎ脇へ避けると、横にあった丸椅子に腰かけた。
リーマの肌は本来、病的なほど白かったのだが、自分が外へ出るようになったせいで、首筋や腕は、うっすらとは言え、かなり日に焼けてきていた。以前より健康的にはなったのかも知れない。
座ったマレの背へ、蒸したタオルが置かれる。いい香りと湯気が、フワリと辺りに漂った。
少し熱いくらいのそれは心地いい。上から下へ丁寧に拭き取る動きに、思わず目を閉じる。
──気持ちいいな。
ふと、サイアンを思い出す。
風邪を引いて寝込んだ時も、同じように世話をやき、身体を丁寧に拭いてくれた。
思わず涙が滲みそうになって、慌てて汗を拭くふりをして、それを指さきで拭う。
拭き終わったブルーナが声をかけてきた。
「身体がお辛い様なら、ほかもお手伝いしますが…」
「ありがとう。でも、もう十分だよ。後は自分でできそうだから。下がっていいよ」
「──わかりました」
なにか言いたそうにしながらも、ブルーナはそう応じると、浴室を後にした。
──なにを言いたかったのだろう。
考えても何も浮かばない。
湯が冷めないうちに、急いで身体を拭いた。その間中、薬草のさわやかな香りがずっと漂っていた。
✢
──やはり、おかしい。
浴室を出たブルーナは、扉をしめて思う。
この扉の向こうの主は、あきらかに聞き知っていた人物と異なっていた。
単なる見せかけではない。リーマはこんな風に、下のものを気遣う様な人間ではないはずだ。
──それに。
なにを感じたのか、涙を浮かべていた。
人の優しさに触れたせいなのか、もっと別の理由があったのか。
想像していたリーマとはまったく異なる。
ましてあの様な状況で、自分に迫らないと言うのも意外だった。
──以前、そんな事はしないと言っていたが。
それを頭から信じていたわけではなかった。
自分としてはどうでも良かったが、ブルーナ自身、それなりに他人から認められる容姿だとは自覚している。
そのせいで、女性からのアプローチも多かった。亡き妹に言わせれば、宝の持ち腐れで。地味な性格が災いして、その魅力を半減させていると言われていたが。
リーマは見目が良ければ、誰かれ構わず誘い、手を出していたと言う。現に彼の周りにいた護衛官は皆、リーマと関係を持たされていた。同僚からもその話しを聞かされていたのだ。
それを知っていたため、ある程度かまえていたのだが、今のリーマにその気配はまるでなく。はなから頭にないようだった。
誘惑してくるようなら、それなりの処罰を与えようと決めていたのに。
──いったい、どういう事だ?
ここに来てからと言うもの、その繰り返しだ。憎むべき相手なのに、その要素が見つからない。
──決して、許せる相手ではないのに。
ブルーナは作った拳を握り締める。
その脳裏には、婚約をしたのだと嬉しそうに報告してきた妹クラルスの姿があった。
両親が流行り病で次々と亡くなってから、兄妹ふたりで貧しくとも何とかここまでやってきた。
ブルーナは騎士団へと入団し、クラルスは侍女として王宮に入った。
そして、近所で商店を経営していた幼なじみと婚約する。真面目な青年で、幼い頃からよく遊びまわっていた仲で。本当に幸せそうだった。
なにもかも、上手く運びだしたというのに。
突然、クラルスは第四王子リーマの屋敷へと配置換えとなったのだ。
どうやら欠員が出たらしく。その穴を埋めるため、何事もそつなくこなすクラルスが目に止まり、抜擢されたのだ。
いい噂は聞かない王子だった。ただ、給金は破格のもので。結婚も間近に控えたクラルスは、少しでも今後の生活に役立てたいと、その仕事を引き受けた。
──それで、この結果だ。
ブルーナは自室に戻り、机に置かれた櫛に目をむけた。
歯の所々に欠けがある、よく使い込まれたそれは、持ち手に花模様の彫刻が施されている。亡き母の形見だった。それをずっと大事にクラルスは使い続けていた。
その日、クラルスは、明日に休養日を控え、心が浮き足立っていた。久しぶりに婚約者に会えるのだ。数日前には同僚や執事へその報告をしたばかり。どんなに押さえても表情が緩むのは仕方のないことで。
赤いバラの花を活け、それをリーマの部屋へと運んだ時のことだった。
リーマはその日、外出予定だったのを、体調が良くないからと自室で休んでいた。
クラルスはやや緊張した面持ちで、同僚と共に花を運んでいった。ノック後にリーマの返答を得てからドアを開ける。
リーマは窓辺に近いソファにもたれ休んでいた。手には本がある。
こちらに気付いてはいるだろうが、まったく気に留めていないようで。軽く会釈し、いつもの定位置の花瓶台へ置いたところで。
「その花は嫌いだ。下げろ」
「──はい。わかりました」
背中に飛んできた声に、ろくに振り返らずにすぐに花瓶を手にした。
と、振り返った先、もう一人の侍女が声をかけられた事に気を取られ、そこに立ったままだったのだ。
お互いに気づかず、ぶつかってしまい。結果、花瓶は床へと落ち割れた。散乱する赤い花弁と割れた欠片、水びたしになる絨毯。
おろおろとする同僚に素早く指図し、直ぐに片付けたが。作業も終わるころ、一部始終を見ていたリーマが。
「…たしか、お前か? 婚約したという侍女は」
「はい…」
ほうきと塵取りを手に、そこに立ち尽くす。もう一人の侍女に至っては、バケツを手に顔を真っ青にしたまま、ぶるぶると震えていた。
「確か──護衛官の中に、おまえを好いていると言う奴がいたぞ。おまえの相手は商人だとか? そいつはやめて、私の護衛と結婚するといい。王子付きの騎士だ。いい暮らしができるぞ」
「…もったいないお話ではありますが、私は、もう、決めておりますので…」
「口答えか? その絨毯、どれ程の価値があるものだと思う? それに、私の静寂を邪魔した。──それなのに、その態度か?」
「……」
おもわず口をつぐむ。と、リーマはふっと笑み、白い指先を顎に当てると。
「──今夜にでも奴と会うといい。呼んでおいてやる。おまえにかなり執心していたからな?」
「……はい」
その場を収めるためにも、そう返事をするしかなかった。
そして、その後、妹は男と会った納屋で乱暴され、失意のまま命を絶とうとした。
なんとか一命をとりとめたが、その時の怪我がいえず、結局命を落としたのだった。




