17.緑の石
マレはその日、着替え終えたリーマの衣類を片付けるため、部屋を訪れていた。
脱ぎ終えた寝間着や、シャツがベッドやソファに点在している。洗うものはひとまとめにしておけば、メイドが持って行くのだ。
部屋の主、リーマは外出している。従者は必要ないと言われ、屋敷で待機となったのだ。
見送りを終えて、さて着替えの片付けをと、リーマの自室を訪れたのだが。
ベッドにあった寝間着を持ちあげた所で、コロリと何かが足元に転がり落ちた。
──なんだろう?
屈んで拾い上げる。指でつまみ上げたそれは、緑の石がはめ込まれたカフスだった。
石を留める銀の装飾部分は、黒く変色しているが、波のように石を包み込む細工が美しかった。石はサファイアだろうか。
今までリーマが身につていたのを見たことがない。それに、かなり質が落ちるのがマレでも分かる。
──なぜこんなものが?
辺りを見回したり、手にした衣類を確かめてみたが、それは片方のみで。対となるもう一方は見つからなかった。
古びたそれは、かなり時間を経たものだと分かる。とにかく、こうなるまで持っていると言うことは、きっと大事なものだろう。
それとすぐに分かるよう、ベッド脇のローテーブルへ置いた。
「マレ、洗濯ものはまとめましたか?」
「はい! ただいま」
執事が声をかけてきたため、すぐにその存在を忘れてしまった。
午後になってリーマが帰宅し、夕食用に支度を整えていた時、それを思いだした。
はっとしてローテーブルを見たが、そこにはなにもない。リーマがその様子を見咎める。
「──どうした?」
「いえ…。その、朝、ここで古いカフスを見つけてそこのローテーブルに置いたのですが──」
するとリーマがそっけない口調で。
「ああ、あれか…。捨てようとして、忘れていたものだ。君がみつけたのか?」
「はい。衣類をまとめていた時に…。でも、捨てるにはもったいないですね? 銀の細工がとても綺麗でしたから」
確かに黒ずんではいたが、磨けばきっと美しい細工が蘇るはず。しかし、リーマはふんと鼻先で笑うと。
「…あんなもの。価値の低い安物だ」
「そうですか…」
すると、リーマは何を思ったか。
「欲しければお前にくれてやる。…好きにするといい」
そう言うと、ベッドの傍らの脇机の引き出しから、件のカフスを取り出してこちらに放ってきた。慌ててそれを受け取るが。
「いいえ! いただけません。かなり時間が経ったもののようですし…。大事にされていたのではないですか?」
リーマは肩をかすかにぴくりと揺らしたが、それも一瞬の事で。
「…大事になど。捨てる機会を失くしていただけだ。いらなければ、君が処分しろ」
「で、でも──」
「おい。支度にどれだけ時間をかけるつもりだ?」
「は、はい!」
慌てて残りの支度にとりかかった。
それで、その件はうやむやとなった。手の中に残ったのは、サファイアの嵌った銀のカフス。
その夜、ベッドサイドに腰掛けたマレは、それを差し込む月の光にかざしてみた。
キラと輝き優しい光を放つ。ひとつしかないのなら、ネックレスにでもかえればいいか。
そうしてから、もう一度、リーマに返してみようと思った。それくらいなら、たいしてお金はかからない。
明日、リーマお抱えの宝石商が出入りする。その時に頼んでみようと思った。
✢
そんなある日、書斎の片づけを執事から頼まれたマレは、散らばった本を書架に戻していた際、壁側に本が一冊、落ちているのに気がついた。
まるで本に押しつぶされるようにして、押し込められいる。よく見れば本ではなく、日記のように見えた。
「よっと…」
いくつかの本を取り除いて、埃にまみれたそれを拾い上げる。出てきたのはやはり日記だった。
革張りの背表紙。開くと丁寧な文字が書き込まれている。かなり時間の経ったものらしく、紙は黄ばんでインクの色も変色していた。
『〇月〇日 今日のリーマ様は機嫌がよくない。いつものように、注意しても言う事をきかない。どうしたものかと、悩む──』
『◯月○日 今日は幾分、機嫌が良くなったようだ。外へ連れ出したのが良かったらしい。半日ほど近くの湖畔で過ごした。どうやら、先日、街へ買い出しに行ったのだが、その間、ひとりにされたのが悲しかったらしい。次からは丁寧に説明しようと思う』
──って、これ。
慌てて表紙に戻って、なにか書き手の手がかりがないかと探す。が、表にはなく、裏に返した所で、ようやくサインを見つけた。
そこには、消えかかった文字で『アラン・オードラン』そう書かれていた。
もう少し読もうと、ページを開きかけた所で、ヒラリと何かが床に舞う。
拾ってみれば、茶ばんだそれは、写真だった。今見えているのは裏面で、『リーマ様と共に』とある。
表に返せば、屋敷をバックに、成人男性と幼い子供の姿が写し出されていた。
もちろん、子どもはリーマだ。幼くとも面差しは今と変わらない。そして、もう一方、リーマの肩を抱くように身をかがめている男が。
「…アラン?」
ふと肩に置かれた手に目が行く。シャツの袖に、見覚えのあるカフスを見つけたからだ。
「これは──」
見間違えるはずはない。例のカフスだ。白黒の写真では色は分からないが、石の形も周囲を覆うシルバーの装飾も同じ。
──あれは──彼の持ち物だったのか。
関係を見るからに、従者だろうか。下僕だとここまで仲良く写真に納まることはないだろう。
この男のカフスを今まで持っていたリーマ。それが何を意味するのか。
ただ、今現在、このアランはいない。辞めたのか、それとも──。
ここで考えても、答えはでなかった。それでも、後生大事にカフスを持っていたのは、特別な思いがあったのではと思える。
マレはその本をそっと懐に忍ばせ、部屋へ持って帰った。書架の奥へ落ちていたのだ。誰もその存在を覚えてはいないだろう。
もう少し、先を読んで見たかったのだ。
✢
数日後、一日の仕事を終え、地下の部屋にいた執事にあいさつに行ったついでに、アラン・オードランの名を告げて、彼は誰かと尋ねてみた。
すると、執事からは期待通りの答えが返って来た。
「はい。確かにリーマ様の幼少期、従者としてアラン・オードランはお仕えしておりました。リーマ様も懐かれておいででしたが…。一身上の都合により、辞職いたしました。──それで、彼がなにか?」
──やはり、従者だったんだ。
「あ、いえ…。その、書架に写真が落ちていたので。リーマ様と写ったものだったので気になって…」
先ほどの写真を執事へと差し出す。日記のことは話さなかった。すると、その眉が僅かに動いた様に見えたが、
「…どちらかに混じっていたのでしょう。私が受け取っておきましょう」
柔らかく微笑む男の写真は、執事の手に渡った。
「あの…、この他にリーマ様が懐いた従者は?」
「…いえ。後にも先にも、あれほど懐かれたのは、彼だけだったでしょう」
「そうですか…」
唯一、親しかった従者。その男の持ち物だったカフス。今、それはマレの手にある。
仕事を終え、自室に戻ったマレは、そのカフスをランプの光にかざして見る。
小さな細工。緑の石。すでにネックレスへと変えられていた。宝石商が急ぎ手配してくれたおかげだ。
リーマは、アランがいなくなってからも、大事に持っていた。嫌っていたなら、あり得ない事だ。すぐさま捨てていたことだろう。
──それをしなかったってことは。
捨てようと思っていたと言うより、むしろ捨てようと思っても捨てられなかった、が真実の気がした。
──リーマ様はやはり、アランの事を?
それだけ慕っていた従者は今いない。何があったのだろうか。
マレは手の中にネックレスに収めたそれをそっと握り締めた。
✢
しかし、アラン・オードランの行方は意外な所から知れた。執事と同じくらい長く務める厩番が教えてくれたのだ。
リーマが外出し暇ができた為、仕事を終えた後、産まれたばかりだと言う、仔馬を厩へ見に行った際の事だった。
この厩番は、唯一、この屋敷で人らしい表情を見せる人物だった。
マレが柵に寄りかかり、まだ足元のおぼつかない、仔馬を眺めていれば。厩番の男は藁を寄せていた手を休め。
「昔、そうやってリーマ様も仔馬を見ていらしたよ。あの頃は本当に可愛らしかった…」
「リーマ様が?」
厩番は大きく頷くと。
「よく懐いていた従者がいてね。アランと言って、いつも彼と一緒でね。──けれど、アランがいなくなってからは、とんと来なくなってな。そのうち、アランが亡くなって…。リーマ様はすっかり、心を閉ざされてしまって──」
「亡くなった…?」
「そうだよ。不幸が重なったんだ…。辞めたのだって、あれは勘違いが原因だと思ってる…」
「何があったんですか?」
すると、厩番はため息をついたあと、手にしていたフォークに腕を預け。
「アランがリーマ様を襲ったと言うんだ。けど、アランはそんな奴じゃない…。リーマ様を本当に可愛がっていて…。しかし、その事件が原因で辞めさせられ、結局、湖に身を投げたんだ」
「身を…」
「よくリーマ様を遊びに連れて行った湖だ。ここから直ぐにある。──ある朝、岸に流れ着いていたんだ…。あれは悲しい出来事だった…。あれがきっかけで、リーマ様はすっかり変わられて……」
あとは言葉を濁し、首を振る。その後のリーマの所業は、皆が知っている。言うまでもないのだろう。
──湖。
アランが連れて行ったと書いてあった湖だろうか。
話しの内容を察するに、リーマが以前に処分した従者と言うのは、アランの事だったのだろう。
──わざとはめたと言っていたけれど。
何が行き違ったのか。
アランは言うに及ばず、カフスの件といい、リーマもきっとアランを大切に思っていたはず。
何があったのかは分からないが、そこに、リーマの複雑な感情を見た気がした。
✢
その後も、リーマとの間になにかある、ということはなかった。
日々、淡々と朝の支度を手伝い、リーマのその日の予定が終われば、帰ってきたリーマの支度を整える。
リーマはただ黙ってされるがままになっていた。その日身につけるものは、先に執事が用意していた為、迷うことはなく。
たまに、気分で身に着ける装飾品を変えることはあったがその程度で。無理難題を言われることもなかった。
その日の支度には、件のルビーが選ばれた。ルビーの赤が血の色の様に輝いて見える。それをいつものように、リーマの胸元のスカーフへ留めていれば。
「それは父上が、私の為に作り直したものだ」
「…このルビーが、ですか?」
「母上の持ち物だったらしい。それを加工して私でも身につけられるようにと。以前、それを盗み出そうとした愚かな従者がいてな──」
思わず息を飲んだ。確かに、愚か者だ。バレればどうなるか。
「かなり劣るものを似せて作り、僅かに目を離したすきに取り替えたのさ。知らぬものが見ればわからなかっただろうが、私も執事もそんなもの、直ぐに見破る。捕らえて拷問すれば吐いた。──盗んだとな。奴はそのまま死んだ」
「……」
スカーフを整えていた手が思わず止まる。
「ルビーは奴が家族から送ってもらっていた本の中に隠されていた。ルビーの大きさに切りぬいてな。数日後には、辞めて家に帰る予定だった。その時に持って帰るつもりだったのだろう。大人しく従順な男だったが、バカな男だった」
そうして、リーマはこちらに目をむけると。
「悪事を働く奴は、たいてい、善人ぶっている…。おまえもその口か?」
「私は、そんなことはいたしません…」
「ふん。今のところは、だろうが。まあ、お前はとにかく、大人しくひと月ここで過ごすことだろうがな。──だが、そうはいかない…」
リーマの目が鋭く冷たい光を放つよう。サイアンとの事を指しているのだろう。どうしても手に入れたいらしい。
「…なぜ、サイアンを? それは──サイアンが目立つ存在なのはわかります…。でも、無理やり自分のものにした所で、心がなければ、手に入れていないのと同じでは?」
すると、リーマは黙り込みマレを見返してきた。
「…君は学習能力がないのだな。私の気に障ることを言えばどうなるか、分かっているのだろう? 今は手を出さないが、出せるようになれば、すぐにでも処罰できる」
「…そうして脅して、力で排除ばかりしていては、いつか跳ね返ってくるのでは?」
「──さて。王子にたいして歯向かえるものなど早々いないからな。みな、その前に滅んでいる。──今の所はな」
すべて支度を終えると、リーマはふっと意地の悪い笑みを浮かべ。
「人の心配より、自身の心配をしたらどうだ? 今晩、面白いものをみせてやる…」
リーマの冷たい笑みに、恐怖を覚えた。




