瑠璃色の世界
朝、耳に鳴り響く電子音で目が覚める。
大学四年生になって二ヶ月。
受講する講義の数も減り、卒業研究のために大学に通うのは週に三日ほどで、それ以外の時間は、すっかり慣れた一人暮らしの生活を静かに送る日々が続いている。
台所にある電気ポットのスイッチを押し、湯を沸かす。
リビングに向かい、一人暮らしには大きすぎるテレビを付けると、背広姿の男性が真剣な面持ちで語りかけていた。
どうやら朝のニュース番組のようだ。
下のテロップには黒の太文字で「通り魔、児童らを殺害」と書かれており、昨日、通学中の八歳の子供達が通り魔に刺され死亡したという、忌々しいニュースだった。
八歳といえば、ちょうど小学二年生ぐらいだろうか。
その頃は、悩むこともなく、ただ好きなことをして過ごしているだけで十分だったように思う。
おそらく、人生で最も純粋に楽しさを感じれていた時期だったのではないだろうか。
きっと彼も、当時の僕と同じように、ただ学校へ向かっていた。
昨日母親の目を盗んで進めたゲームの続きを思い浮かべたり、放課後に遊ぶ約束をした友達と何をしようか考えたり、あるいは、今日の給食の献立はなんだろうと想像したりしながら。
これから先、たくさんの悩み事を抱えて成長していくはずだったのに、そのどれにも当てはまらない予期せぬ結末を迎えてしまったのだろうか。
人の持つ価値観が違うばかりに、争いや事件は日々絶えない。
取り上げられるニュースは、どれも陰鬱としていて、今日も世界のどこかで、戦争に苦しみ怯える人々がいる。
そんな中、僕といえば、卒業研究が滞りなく終わるのか、無事大学を卒業して、社会に適合した大人になれるのか——そんなちっぽけな心配事を抱えているにすぎない。
カチッと音がしたことに気がつき、台所へ戻る。
引き出しからコーヒーのドリップパックを取り出し、マグカップにセットして湯を注ぐと、白い湯気が静かな空間でほのかに揺らめきだした。
窓の外に広がる今日の空は、光の欠片もない曇天だった。
つい最近まで、照りつけるような暑さに嫌気がさしていたというのに、その苛立ちを宥めるかのように、白い雲が日常を覆いだす。
もうすぐ梅雨の季節だ。
ふと時計を見ると、約束の時間が迫っていたので、僕は飲みかけたコーヒーを机に置き、出掛ける支度をした。
平日だというのに、最寄りの駅に近づくにつれ、人が多くなる。
今朝のニュースを気に病む様子の人など一人として見当たらない。
それは一見、当たり前のようにも思えるが、もしそこに目を向けるなら、むしろ異様な光景にも映る。
小走りで向かった待ち合わせ場所には、白いワンピースを身に纏い、薄化粧を施した、誰もが思わず振り返るような美少女が、静かに佇んでいた。
「ごめん、待ったかな」
「全然、今来たところ」
今日も相変わらず、愛想の欠けた表情のない顔している。
「似合うね」
僕が少し勇気を出して放った言葉に、彼女は紅潮する様子もなく、切長い目を少し下に向け、「そう?」とだけ呟いた。
「可哀想だよね」
向かい合わせの座席に腰をかけた目的地までの電車の中、話題は今朝のニュースだった。
どうやら彼女も今朝の訃報を目にしたらしいが、同情する言葉を放つ彼女の表情からは、幼くして命を奪われた小さな子供を憐れむ気持ちは、微塵も感じられない。
「刺された子供もそうだけど、その両親はひどく悲しんだだろうね」
誰よりも愛し、大切に育て、成長していく姿を間近で見てきた親の気持ちは、きっと僕らには計り知れないだろう。
「その悲しみは、やがて復讐心に変わってしまうだろうか」
「さあね」
僕の言葉に対し、彼女は抑揚のない声で、勢いよく流れていく外の景色を見つめながら、ぽつりと言う。
「君は泰然としていそうだ」
「それって嫌味?」
「さあね」
僕が冷やかすようにそう言うと、少し不服そうな表情をこちらに向けたが、下げた眉をすぐに戻し、彼女はまた車窓を眺めた。
「だって、世界の色を変えることはできないもの」
淡々と放つ彼女はいつもに増して美しく、そしてどこか儚く思えた。
降りた駅はとても立派とは言えない、素朴で小さな駅だったが、それでも多くの人が見られるのは、これから向かう先が有名だからだと推測した。
彼女とのデートは毎回、行き先を交互に決めており、今日の目的地は彼女が選んだ場所だった。
そのため、僕はこれから訪れる場所を知らなかった。
少しずつ大きくなってゆく期待を胸に、彼女の背を追う。
すると、大きな公園のような場所にたどり着いた。
車も通れるくらいの道路には、犬と散歩をする人や、スポーツウェアを着てランニングをする人もいる。
並木道に沿って歩いていくと、目に飛び込んできたのは、壮大なネモフィラ畑の景色だった。
大きな風車を取り囲むようにして、花弁に灯した瑠璃色が、見渡す限りの一面に広がっている。
「すごい」思わず感動が溢れる。
気がつくと、今にも雨が降り出しそうだった雲はいったいどこへ行ったのか、空は青く澄み渡り、太陽は照りつけることもなく、その花の海に優しく降り注いでいた。
「君に花を愛でる趣味があったとはね」
「たまにはこういうのも、いいじゃない」
砂埃がつかないように、スカートの裾をそっと撫でながらしゃがんだ彼女は、スマートフォンのカメラを開き、目の前のネモフィラを撮影していた。
「綺麗だね」と彼女は薄く微笑む。
その笑顔は可愛らしさとは程遠い、艶やかで美しい表情だった。
綺麗——確かに、その言葉に尽きる。
こんなにも美しい光景を前に、憂鬱な表情をする人などいないだろう。
きっと誰もが勇気や自信を胸に抱く。
心配することなど何もない、きっと全て上手くいく。
世界はこんなにも綺麗なのだと。
穏やかな風と幸せそうな笑顔だけが、花の香りと共に舞っている。
それは何にも変え難い、確かな安泰だった。
世の中を脅かす出来事は日々絶えず、悲しみや憎しみがこの世界から消えることはない。
しかし、子供が通り魔に襲われようと、アメリカが再び白人主義国に生まれ変わろうと、大地震が日本列島の半分を海底に沈めようと、変わらず明日はやってくるのだ。
そんな日々を、人々が平和と謳う限り。