古びた館に住む薬師は怪我をした異界の男を拾う
深い森の奥深く、ひっそりと佇む古びた館。
ユマリティはそこで、薬師として静かに暮らしていた。
ある日、森の中で見慣れない傷を負った男が倒れているのを見つけてしまう。
「ひっ」
ビクッとなる。
「こんなところで、一体……」
ユマリティは驚きながらも、男を館へと運び、手当てを施した。
「酷い傷」
男は全身に深い切り傷を負い、意識も朦朧としていたが。
ユマリティは持てる限りの知識と薬草を使い、懸命に治療を続ける。
数日後、男はゆっくりと目を覚ました。
最初に彼の目に映ったのは、見慣れない天井。
心配そうに自分を見つめるユマリティの顔だった。
「ここは……?」
掠れた声で男が尋ねた。
「私の家です。森で倒れていました。酷い怪我でしたよ」
ユマリティはそう答えると、男は自分の体を見下ろし、傷に巻かれた包帯に気づいた。
「お前は……なにを」
「私は薬師です。あなたの手当てをしました」
ユマリティの言葉に、男は深く感謝の意を示した。
「感謝する」
彼の名前はセイリーン・カトゥス。遠い国から来た剣士だという。
「そうなのですね」
しかし、なぜこんな森の中で傷を負っていたのか、詳しいことは話そうとしなかった。
詳しくは聞かない。
お互い、深入りすべきではないと判断。
カトゥスは怪我が癒えるまで、ユマリティの館で過ごすことになる。
意外にも相性がよく、心地よく空間を分け合えた。
言葉数は少ないけれど、彼は礼儀正しく、迷惑をかけるようなことはなかった。
毎日、彼の傷の手当てをし、食事の世話をした。
カトゥスの怪我が徐々に回復していくにつれて、二人の間には静かな交流が生まれた。
「じゃあ、これはなんだ」
「これはマルマルという花です」
ユマリティは薬草のこと、森のこと。
そして、この世界のことを彼に話した。
カトゥスは自分の故郷のことや、旅の話をぽつりぽつりと語ってくれた。
居心地も良く。
悪くはなかった。
ある日、ユマリティはカトゥスに、森で見つけた不思議な花を見せた。
夜になると淡く光る、珍しい花だった。
「これは……?」
カトゥスは興味深そうに、花を見つめた。
「『月影草』といって、治癒の力があると言われています。でも、詳しいことはまだよく分からなくて」
ユマリティがそう言うと、カトゥスは真剣な眼差しで花を見つめ、そっと指先で花びらに触れた。
「この花には、特別な力があるのかもしれないな」
その言葉に、ユマリティは少しドキッとした。
魔力を感じ取れる?
カトゥスは、ただの剣士ではないのかもしれない。
彼の瞳には、時折、鋭い光が宿ることがあった。
なにか、秘密があるのかもしれない。
数週間後、カトゥスの怪我は完全に癒えた。
達成感でいっぱいだ。
彼は立ち上がり、静かにユマリティに向き合った。
「恩に着る。お前がいなければ、おれはもう生きていなかっただろう」
彼の言葉は、重く、そして真摯だった。
感謝の念を強く感じる。
ユマリティは少し照れながら、「気にしないでください」と、答えた。
「おれは、まだやらなければならないことがある。だが、いつか必ず、この恩を返す」
気にしなくていいのに。
カトゥスはそう言うと、背に背負っていた大きな剣を手に取った。
その剣は、彼の体と同じくらい長く、黒く輝いている。
「あなたは、どこへ行くのですか?」
ユマリティは思わず尋ねた。
流石に治ったとはいえ、病み上がりを脱したわけではないし。
カトゥスは少しだけ躊躇した後、遠くの空を見つめて言った。
「まだ、言えない。この世界を少しでも良くするために、おれは戦わなければならない」
その言葉に、ユマリティは彼の覚悟のようなものを感じた。
ちょっとだけ悲しい。
カトゥスは、ただの旅人ではなかったのだ。
別れたくはないが、彼はそもそも進んでいたのである。
別れの時が来た。
カトゥスはユマリティの館の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「本当に、感謝している。お前との出会いを、決して忘れない」
そして、彼は一言、「また会おう」と小さく呟く。
森の中へと歩き出した。
彼の後ろ姿は、すぐに深い緑の中に消えていく。
手を振る体勢のまま、ぼんやりとしていた。
「行ってしまった」
ユマリティは、カトゥスが去った後の静かな館の中で、一人佇んでいた。
しんみりとなる。
彼の残していった、かすかな剣の匂い。
あの不思議な月影草の淡い光が、彼の存在を確かに感じさせた。
カトゥスは、一体何者なのだろうか。
不思議な男だった。
彼は、どんな戦いをしようとしているのだろうか。
様々な疑問が、ユマリティの心に湧き上がったけれど、彼の力強い眼差し。
最後の「また会おう」という言葉が、胸に小さな希望の灯をともした。
信じねば。
いつか、きっとまた会える。
共に行きたいと言えなかった分、信じる。
その時まで、ユマリティはここで薬師として。
実力を得ようと。
静かに、強く生きていこうと心に誓う。
カトゥスが教えてくれた月影草の秘密を、いつか解き明かしたいと思った。
カトゥスが森へ去ってから、数日が過ぎた。
あっという間なような、長いような。
館の中は、以前にも増して静かになったように感じる。
寂しさがあるのだ。
彼の存在が、ほんのわずかな間だったとはいえ。
ユマリティの日常に、小さな変化をもたらしていたのだと気づかされた。
ある朝、ユマリティはいつものように薬草を摘みに森へ入る。
(一人で過ごすことにいつ、慣れるのかしら)
日が昇り始めたばかりの森は、清々しい空気に満ちている。
二人で過ごしてから、一人に戻るのはかなり大変だ。
ため息を吐く。
鳥のさえずりを聞きながら、目的の薬草を探していると。
ふと、見慣れた黒い影が視界に入った。
「まさか……」
ユマリティは息を呑んだ。
大きな木にもたれかかり。
腕を組んで眠っているのは、紛れもなくセイリーン・カトゥスだった。
なぜ、彼はまだここにいるのだろうか?
そっと近づいて声をかけると、カトゥスはゆっくりと目を開けた。
彼の瞳は、寝起きで少しぼんやりとしている。
「おはよう……ございます?」
ユマリティは戸惑いながら声をかけた。
カトゥスはユマリティを見ると、小さく頷いた。
「ああ、おはよう」
「あの……どうして、まだここに?」
ユマリティの問いに、カトゥスは少し困ったような表情を浮かべた。
迷っている?
「少し、考えがあってな。まだ、完全に旅立てる状況ではない」
具体的な理由は語らないものの、カトゥスがまだこの場所に留まるつもりだと知って、ユマリティは内心ほっとした。
嬉しくて。
彼の存在は、いつの間にかユマリティの心の中で、小さな安らぎとなっていたのかもしれない。
それからというもの、カトゥスはユマリティの館に、まるでそこに住むのが当たり前のように滞在するようになった。
特に何か手伝うわけではないけれど。
時折、ユマリティが森で採取した薬草の名前を教えてくれたり、危険な場所を教えてくれたりした。
何もしないのは、こちらの領分に配慮してくれているような気がする。
彼の知識は豊富で。
ユマリティが知らない植物や、魔物のことをよく知っていた。
ユマリティは、カトゥスの存在に殆ど慣れていく。
最初は戸惑いもあったけれど、彼の静かで落ち着いた雰囲気は。
ユマリティの生活に、穏やかなリズムをもたらしてくれた。
二人で食事をすることも増え、時には、他愛ない話で軽く笑い合うこともあったほど。
ある日の夕暮れ、ユマリティは庭の手入れをしていた。カトゥスはいつものように、縁側に腰掛けて、空を眺めている。
「カトゥスは、故郷に家族はいないのですか?」
ふと、ユマリティは彼に尋ねた。
そもそろ少しは、聞いておきたいと思って。
カトゥスは少しの間、沈黙した後、静かに答えた。
「……いない」
その短い言葉には、どこか寂しげな響きがあった。
恥ずかしくなる。
聞くべきではなかったと。
ユマリティはそれ以上、深く尋ねることはできなかった。
夜になり、二人は囲炉裏を囲んで座っていた。
ユマリティは摘んできたばかりの山菜を煮込み、カトゥスは持っていた干し肉を焼いている。
いい香りが漂う。
パチパチと燃える火の音が、静かな館に響く。
「この世界には、色々な力を持つ者がいるんだな」
カトゥスが突然、そう言った。
ユマリティは顔を上げ。
「ええ、魔法を使う人もいるし、特殊な能力を持つ人もいます。カトゥスの故郷も、そうなのですか?」
カトゥスは、少し考え込むように目を伏せた。
「おれの故郷は……少し、特殊な場所だった。力を持つ者もいたが、それ以上に、抑圧されていた」
彼の言葉は僅かだったけれど、ユマリティはそこに深い悲しみのようなものを感じた。
その背後にある悲劇を垣間見てしまい、俯く。
カトゥスが戦わなければならないと言っていたのは、故郷の状況と何か関係があるのだろうか。
心配をしてしまいそうになる。
それからしばらくして、ユマリティはカトゥスが剣の手入れをしているのを、目にするようになった。
淡々と。
人気のない庭の隅で、彼は黙々と剣を振るっている。
その動きは洗練されていて、無駄がなく、まるで舞踊のように美しかった。
(彼は、生きてくれるかな?)
ユマリティは、彼の剣術に見惚れてしまうことが何度かあった。
ある日、手入れを終えたカトゥスに、ユマリティは思い切って尋ねてみた。
「カトゥスは、本当に強いのですね」
カトゥスは少し驚いたようにユマリティを見て、小さく頷いた。
「まあな。生きるためには、強くなければならなかった」
彼の言葉は、またしても苦悩が滲むものだった。
その奥には重い過去が숨んでいるように感じる。
季節は移り変わり、館の周りの景色も変わっていった。
ユマリティは相変わらず薬師として森に通い。
カトゥスは時折、ユマリティの採取に付き合ってくれた。彼の知識は、ユマリティの仕事にとって大きな助けとなった。
心の中に隙間があったと知れる。
いつの間にか、カトゥスがこの館に住み着いてから、数ヶ月が経っていた。
彼の存在は、ユマリティの日常の一部となる。
彼のいない生活が、想像できなくなっていた。
ユマリティは、カトゥスに対して、単なる同居人以上の感情を抱き始めていることに気づいていた。
手を頬に当てる。
彼のクールな外見の下に隠された優しさや、時折見せる憂いを帯びた表情が、ユマリティの心を惹きつけていた。
いけないと心が制御をする。
カトゥスはいつか、この場所から旅立ってしまうだろう。
それは、わかり切っているではないか。
彼の目的は、この館で静かに暮らすことではないはず。
(長く、居てほしい)
ユマリティは、その日が来るのが怖いと感じていた。
そんなある日、ユマリティは森の中で、今まで見たことのない奇妙な紋様が刻まれた石を見つけた。
好奇心が止まらない。
興味を持ったユマリティは、その石を館に持ち帰り、調べてみることにした。
悪い癖のようなものなのかも。
帰ると彼も居たので、声を張る。
その紋様についてカトゥスに尋ねてみると、彼は驚いたように目を見開いた。
「それは……古代の魔法文字だ」
カトゥスの言葉に、ユマリティは心音がドキッとした。
この静かな森の奥に、そんな貴重な魔法の痕跡が残っているとは。
「この紋様は、何を意味するのですか?」
ユマリティはカトゥスに尋ねた。
自分にはわかりっこない。
カトゥスは真剣な表情で石を見つめ、ゆっくりと答えた。
「これは……禁じられた魔法に関わるものかもしれない」
彼の言葉に、ユマリティは背筋がそわわっとなるのを感じた。
持って帰るのは、ダメだったかもしれない。
カトゥスが、この世界で戦おうとしているのは。
もしかしたら、このような魔法に関わることなのかもしれない。
詳しいということは、関連がありそう。
その夜、カトゥスは珍しく、自分の過去について少しだけ語ってくれた。
「実はな」
彼の故郷のこと、そこで何が起こったのか、そして、彼がなぜこの世界に来たのか。
それは、決して簡単な話ではなかったけれど、ユマリティは彼の言葉に耳を傾け。
彼の抱える痛みを感じようとした。
「必要なんだ、これが」
カトゥスの話を聞くうちに、ユマリティは彼が背負っているものの大きさを知った。
(それなのに、私の寂しさを感じ取ったから)
そして、そんな彼が、ユマリティのそばにいてくれることの奇跡のようなものを感じた。
「カトゥス……もし、何か私にできることがあったら、言ってください」
ユマリティは、精一杯の勇気を振り絞って言った。
彼は、少し驚いたようにユマリティを見つめ。
かすかに微笑んだ。
「……その時は、頼るかもしれないな」
その言葉は、ユマリティにとって何よりも嬉しいものだった。
寄るべのない人間は、彼だけではない。
ユマリティは、カトゥスと共に、この世界で生きていく覚悟を決めた。
支えたい。
いつかくる試練を、共に乗り越えていきたいと。
いつの間にか住み着いていた彼は、ユマリティの人生にとって、もうすっかり、かけがえのない存在になっていたのだから。
一人の館は、あまりにも静かすぎた。
⭐︎の評価をしていただければ幸いです。