寺子屋にて
寺子屋の戸は少し開いていて、授業をする声が聞こえていた。
内容までは聞き取れないが、慧音が里の子供たちに歴史を教えているらしい。少し思惑が外れた気もしたが、昼間に授業をしているのは別に不思議ではない。
授業中に呼びつけるわけにもいかないので、裏手に回って待つことにした。
表通りに寺子屋の玄関があり、裏手が慧音の私宅になっている。授業のない日に招かれて、昼を一緒に食べたこともあるし、泊めてもらって布団を並べて眠ったこともあった。
敷地の石段に座ると、授業の声がわずかに聞こえてきた。
授業をする側はともかく、正座して話を聞くのは眠くなりそうだ、と思う。かつて慧音は、忘れ物や居眠りをした生徒には頭突きをすると話していたが、どこまで本当なのかは怪しいところだ。
妹紅は指先を擦り合わせて、火がつくかどうか試してみた。
──やっぱり、出ない。
彼女にとって、火をつけるのは歩いたり喋ったりするのと同じだった。煙草を吸うときや、家の囲炉裏に火を入れるとき、手順を考えるまでもなく指先に火を灯した。
しばらく指先を眺めた後、諦めて膝に手を置いた。
授業はなかなか終わらず、教室からは時おり子供たちの声が聞こえてきた。問題は何も解決していないが、竹林を抜けてきた疲れと、ここなら妖怪に襲われないという安堵もあって、いつの間にか瞼が重くなった。
*
「妹紅」
名前を呼ばれて、はっとして目を覚ました。慧音が隣にかがんで、こちらの肩に触れていた。
「久しぶり。待たせてしまいました。来ているのは知っていたんですが、補習があったので」
妹紅は寝ぼけた頭を振って、起き上がった。
「いや。こっちこそ、勝手に上がりこんで……ちょっと居眠りしてた」
慧音は「中に入りましょう」と家のほうを指した。
頷いて後ろを歩きながら、丁寧語は使わなくていい、と言ってみる。慧音の癖なのか、第一声は丁寧語を使ってきて、少し話すうちに言葉がほぐれてくるのだ。こちらとしても、丁寧語でないほうが話しやすかった。
妹紅の言葉に、慧音は「じゃあ遠慮なく」と答えた。
*
私宅の一室で、慧音が煎茶を淹れてくれた。
妹紅は正座をして湯呑みに口をつけながら、腰の据わりが悪く、何度か足を組んでは崩した。先ほどまで眠っていたこともあって、体の怠さはいくらか和らいでいる。
「今日の授業は妙に居眠りが多くてな。順番に頭突きをして起こしていったよ。妹紅も眠そうだったし、昼は眠くなる時間なんだろうな」
慧音の話を聞きながら、ここに来た用件を思い出す。ずっと世間話だけしていられたらと願ったが、ここに来たのは相談をするためだ。
「それでだ。わざわざ裏手で待っていたんだから、何かしら用があるんだろう」
そう促されて、妹紅は用件を口にした。
腹から血が出続けて、体に違和感があり、いつもの火も使えない。めったにない状況なのでどうしようかと思っていた、と。
机を挟んで座った慧音は、妹紅のほうを向いて話を聞いていたが、ふと「立って」と言いつけた。妹紅が立ち上がったところに、慧音が歩み寄る。
「見せてもらうよ」
「え、あの……」
戸惑っている妹紅の服に手をかけて、裾をまくった。痣や傷のない、滑らかな肌があった。
慧音は服の裾を持ち上げて腹を触りながら、訝しげに問い掛けた。
「血なんか出てないじゃないか」
「……そこじゃない。もっと、下」
妹紅の言葉に、慧音は首をひねった。
「毒茸に当たったのかね。何か心当たりは」
「茸は最近食べてないし、特に心当たりはない。しいていうなら……二日前の晩に輝夜とやり合って、腹を貫かれた」
「腹を?」
「ああ。左のほうから斜めに、右の腰まで。傷は塞がったけど、その辺りが痛い気がする。あと……右足の骨も折れた。でもそれはもう治ってるし、たぶん腹とは関係ない」
慧音は手を額に当てた。
「ほかには?」
「手の指も何本か折れたかな。指はもう治ってるから、今回のとは関係ない。あとは、岩に頭を叩きつけられた」
慧音は顔をしかめて、話を遮った。
「……もういい。散々やられたってことは、よく分かった」
「やられただけじゃない。こっちだって、あいつの喉を裂いてやったんだ」
「それこそ腹とは関係ないだろう」
白けた返答に、妹紅は少し口を尖らせた。夜の交戦は自分の意思でやっていることで、人に褒められる行為ではないのだが、ときには戦果を誇りたい気分のときもある。
慧音が座り直したので、妹紅もそれに従った。
「心当たりがないって言ってたけど、多すぎて整理するのもひと苦労だ。喧嘩のしすぎで腹の中がよじれたんじゃないか?」
「そんなことはないと思うけど……」
歯切れの悪い返事をすると、慧音は湯呑を両手で包んで、真面目な顔でこちらを向いた。
「妹紅。私は医学には詳しくないし、正直こっちの手に負えない。火が使えないってのも気になってる。体のことは薬師に診てもらったほうがいい」
里の人間の不調ならともかく、蓬莱人を診られる薬師がどこにいる。
そう口を開きかけたとき、慧音の言葉が続いた。
「永遠亭に腕のいい薬師がいるだろう」
その言葉に、息が詰まった。
──嫌だ、と思う。
「夜に竹林を歩くのは危ないし、今からじゃ日が暮れてしまう。今晩はうちに泊まっていけ。明日は授業もないから、永遠亭まで一緒に行こう」
「……あそこは行きたくないんだ」
慧音の提案には悪意がまったくない。それが分かるからこそ、続きを聞くのが苦になった。
「あの薬師は人間も妖怪も診るそうだし、妹紅だって道案内で出入りしてるから、場所はよく知ってるだろう。具合が悪いなら、ちゃんと診てもらったほうがいい」
確かに里の人間を案内しているし、診察室までついていったり、薬の箱を運び入れたりもした。それでも、患者として訪ねるのは話が別だ。輝夜の耳に入るかもしれないし、友人がついてくるのも居心地が悪い。
それに、不調の正体が明確になって──例えば、自分の根本にある何かが壊れていて、もう火を使えないし、二度と蘇生もできないと告げられたら。一体どんな顔をして、その話を聞けばいい?
*
結局、首を横に振って、立ち上がった。
「今日は帰る。今から帰れば、日が暮れる前に着くはずだ」
「妹紅」
「人の布団を汚すわけにいかないしな」
「何を気にしてる。布団ぐらい、洗えば済む話だ」
「……永遠亭には、明日ちゃんと行くよ」
そう言い残すと、踵を返して、戸口から外に出た。友人の寂しげな表情が頭の中でちらつく。
逃げるように家を出たのは、親切を受け入れる強さがなかったからだ。
*
外は商店が立ち並び、呑み屋の主人が「酒」と書いた木札を出していた。朝早くから働く職人や商人は、日が出ているうちに仕事を切り上げて酒を呑み始め、夜が遅くなると妖怪の客が増えていく。壮年の男が数人、戸口をくぐって呑み屋に入っていった。
緩衝地帯の里を抜けて、竹林に入った。里のざわめきと炊事の煙が遠くなっていき、慧音の寝室をふと思い出した。
──前に泊まったとき、橙色の灯があって、布団を並べて眠ったんだった。
懐かしさにも似た感情に、胸の奥が苦しくなる。
そのうちに日が暮れて、竹林に夜が訪れた。今から帰れば間に合うなんて嘘だった。暗くなるのは分かっていたのだ。
耳を澄ませて、唸り声が聞こえたほうを避けながら、妹紅は鉈を握って歩き続けた。
家の近くまで来たとき、背後でがさりと物音がした。
振り向いた瞬間、黒い四つ足の塊が跳ねて、こちらに飛び掛かった。反射的に鉈を振るうと、鈍い衝撃が腕から肩に返ってきた。何度か刃を振るって、塊の輪郭が溶けるように崩れたところで、鉈をつかんだまま走り出した。
家に駆け込んで戸を締め、妖怪除けの護符に目をやると、崩れ落ちるように座り込んだ。
鉈の刀身には黒い液体がこびりついていて、鞘は途中で落としたらしい。何を斬ったのかも分からないまま、とりあえず鉈の手入れだけを済ませ、壁に寄りかかって目を閉じる。
──明日は、永遠亭に行かないと。




