前夜譚
迷いの竹林は、月の光で薄く照らされていた。
夜は妖怪の活動時間。人間にとっては月の光は薄明りだが、夜に馴染んだ妖怪には、竹の葉の先まで煌々と照らされて見えるという。昼間は里の人間が茸や山菜を採っていても、夜に竹林を歩く命知らずはいない。竹の葉が風にそよぐ音に交ざって、獣の遠吠えや、得体のしれない唸り声が聞こえていた。
そんな中を、一人の少女が歩いている。
妖怪ではないが、純粋な人間を名乗るにも疑問が残る、老いることも死ぬこともない蓬莱人。
藤原妹紅は、赤いもんぺの腰に両手を差し入れたまま、永遠亭に向かっていた。
*
月の姫の住む屋敷、永遠亭が近づいてくる。
足を進めるにつれて、胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。昼間に里の人間に道案内をしたり、診療所の使い兎に届け物を渡したりするときは、門を見ても何も感じないのだけど。夜になると話は違う。
夜に屋敷を訪ねるのは、仇敵のかぐや姫──蓬莱山輝夜を殺すためだった。相対して弾幕を撃ち込むのが体に刻まれているから、何かを考えなくても、夜に永遠亭に向かうと胸が熱くなり、指の先まで温かくなる。
体があいつと撃ち合うためにできてるみたいだ、と妹紅は自嘲した。
以前に輝夜に見透かされて、せっかちな鳥だとからかわれたことを思い出し、手のひらを振って風に当てた。深呼吸をしても熱は冷めず、かえってよく燃えている気がする。
ひとつ息を吐いて、屋敷の裏口に向かったところ、赤と紺の衣を着た女の姿があった。
普段ならこの辺りで輝夜と落ち合うのだが、輝夜の姿はなく、裏門に八意永琳がたたずんでいる。こっちが来るのを予測したかのように、背中を伸ばして静かに立っていた。
「今夜も来たのね」
「ああ」
永琳のことは少々苦手に思っていた。明らかな敵意こそ感じないが、纏う空気が清澄すぎて、何を考えているのか読み取れない。里の人間に道案内をしたり、診療所に手を貸したりするのは良いとしても、夜に関わり合うのは気が進まない。仇敵の従者だからなおさら気が重い。
「悪いけど、姫は応対できないわ。月の障りで静養しているの」
告げられた言葉も、余計に興を削いだ。
「……は?」
「そういうこと。来るなら日を改めて」
「……ったく。前もそんなこと言ってたよな」
月の障りという言葉は聞き覚えがあった。前にも門前払いを食った記憶があるが、目当てにしていた相手が出てこないのは、どこか釈然としない。
「出て来ないなら、もういい。また出直すって伝えといてくれ」
そう言い残して、妹紅は背を向けた。
*
燻る熱を持て余しながら、妹紅は来た道を引き返す。
月の障りとはなんなのか。深く問う気にはなれなかった。そもそも月の民には、地上の人間とは違った風習が多い。輝夜が姿を見せず屋敷に籠っているのなら、もしかすると、月の満ち欠けに合わせて身を慎む習わしかもしれない。
そんな理由で戦いを避けられるとしたら、月の姫とはいいご身分だ。
無駄足を運ぶのも癪だから、帰り道で妖怪でも退治しようと思ったのだが、こんなときに限って竹林は静まり返っていた。
家に戻った妹紅は、火のない囲炉裏の前に座り込んだ。
このまま寝ようかと思ったが、体に残った熱が煩わしくなって、立ち上がって戸を開ける。竹の葉が途切れるところまで歩いていき、輝夜に火の弾を撃ち込むのを思い浮かべながら、自分の体を焼いた。
火柱が収まって、意識を取り戻したときには、体の中はひんやりと静かになっていた。顔にかざした手の甲が赤く焼けたようになっていたが、少し眺めている間に元に戻り、痛みも引いていった。
そのまま家に戻り、囲炉裏のそばの壁に寄りかかって眠りについた。