9.暴力は敗北しました
自己弁護はしない。私は確かに顔を狙って平手打ちをしようとした。
しかしマリアンとフェリクスは頭一つ分以上の身長差がある。
結果振り上げた掌は彼の肩にダイレクトに当たり、悶絶したのは私の方だった。
「いっ……!」
「お嬢様!」
ビタァンという派手な音と犠牲に赤くなったのは私の掌で、シェリアが悲鳴を上げた。
鍛えられた体ってこんなに固いのか。岩を殴ったようだった。
先程ラウルにぶつかられた時よりも余程ダメージがある。完全に自爆だけれど。
「だ、大丈夫か?」
赤くなった掌をシェリアに擦って貰ってると、フェリクスが心配そうに聞いてくる。
殴られた側が殴った側を案じるのは色々おかしい。
そんなことを考えていると彼はさらにおかしなことを言い出した。
「済まない……俺がちゃんと屈まなかったせいで」
「は?」
一瞬何を言われたかわからなくてシェリアと顔を見合わせる。
私たちの疑問を誤解したのかフェリクスが申し訳なさそうな顔で告げる。
「君は俺の頬を殴りたかったのだろう?なのに俺が考えなしに立ち尽くしていたから……」
「ちょっと待って怖い怖い怖い」
当たり前のようにちゃんと殴られなくてごめんと言ってくるフェリクスに恐怖を感じた。
なのでストップをかける。手の痛みなど気にしている場合では無くなってしまった。
しかし彼に対し何と言って良いかわからない。
聞きたいことは幾らでもある。
先程からちょくちょく歪んだ価値観が見え隠れしている理由とか。
何で私がラウル如きを愛すると思っているのかとか。
何で暴力を従順に受け入れようとするのかとか。
やたら謝りたがるのかとか。
疑問は幾らでもわいてくるが、聞いたら雪崩式に面倒が降りかかってくる予感がひしひしとする。
迅速に円満に離婚したいなら踏み込まない方が賢いと私の勘が告げている。
でもなけなしの良心がチクチクと疼き出す。彼の見え隠れする闇を放置して良いのかと。
いや、いいんだよ。私は離婚して他人になるのだから。
そう言い聞かせてるのにモヤモヤが消えない。
自身の行動を決めかねているとシェリアが私の肩をそっと抱いた。
「伯爵様、お嬢様の手を水で冷やす為に退出しても宜しいでしょうか」
私の侍女の言葉にフェリクスはハッとした顔をして頷いた。
「ああ、そうだな手当をしなければ。そんなことにも気づかなくてすまな……」
許可を出しながら謝ろうとするフェリクスに私は叫ぶ。
「あの! 私の怪我は完全に自業自得なので一切謝らないで下さい!」
「マリアン嬢……」
「貴方はとんでもない侮辱を私にしましたけど、それでも暴力は駄目な行為なので」
「お嬢様……」
それだけ告げて私はシェリアに寄り添われながら部屋を後にする。
でもこれだけは言わなければいけない。振り返って口を開いた。
「でも二度と私があの無職二十七歳を愛したとか言わないでくださいね」
「むしょくにじゅうななさい……」
「私が離婚したいのは心変わりではなく貴方に愛想が尽きたからです、それでは」
私が言い終えるとシェリアが室内にお辞儀をして扉を閉めた。
だからフェリクスがどんな顔をしていたかはわからなかった。