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25.戦略的撤退

　アルマ姉さんの言葉に前伯爵夫人は一切反論しなかった。

　何故なら何も言わずふらりと倒れたからだ。

「大奥様っ！」

　彼女の体が地面に触れる前に執事が抱きかかえる。

　前伯爵夫人は彼の腕の中で目を閉じてぐったりとしていた。

　情けないことだが私は慌ててしまった。目の前で人が倒れるなんて初めての経験だったからだ。

「えっ、たっ、倒れっ、きゅ救急車……！」

「落ち着きなさい、マリアン」

　アルマ姉さんが静かに言う。彼女の冷静な様子に私も徐々に落ち着きを取り戻した。

　よく考えたらこの世界に救急車は存在しない。

　しかし何故前伯爵夫人は急に倒れたのだろう。貧血だろうか。

　私が考えていると執事がこちらを再度睨んできた。

　彼女を突き飛ばした犯人を見るような目だ。

「伯爵夫人室は大奥様が三十年以上過ごされた思い出の場所ですぞ、それを壊すなど恐ろしいこと仰ったせいで……」

「つまり私のせいで前伯爵夫人は失神したというの？」

　責めるような執事に対しアルマ姉さんは淡々と返す。

　それが気に入らないのかアーノルドは益々顔を赤くして騒いだ。

「それ以外に理由があるというのですか！」

　私としてはそんな理由で気絶するということ自体が信じられない。

　扉を壊したくない為に気を失った振りをしているだけではないかとさえ正直疑っている。

　しかし前伯爵夫人の顔は確かに青褪めていて、演技とは思えなかった。

　だけどここまで繊細な性格でよく男児二人を育てられたと思う。

　いや貴族なのだからそこまでつきっきりで子育てしなくていいのか。

　だとしてもラウルみたいな息子が居て、ここまで神経が細いなら毎日気絶してそうだが。

　アルマ姉さんは何を考えているかわからない表情をしている。

　前伯爵夫人は目を覚ます気配がない。

　医者を呼ぶか病院に連れて行くべきではと私が言い出そうとした時に姉が口を開いた。

「なら彼女が気を失っている間に扉は壊した方が良いわね」

　アルマ姉さんの発言に執事が愕然とした。顎が外れそうなぐらい驚いている。

「あ、貴方には人の心というものが無いのか？！」

「あるから言っているのよ、だって何度も気絶させるのはお可哀想でしょう？」

「こ、この部屋は大奥様にとって思い出深いもので……」

「だったら鍵の管理もその大奥様がしっかりしておけば良かっただけの話です」

「管理はしていました、しかしラウル様が……！」

「勝手に奪われて使われている時点で管理されていないということです、話にならないわね」

　基本執事の目を見て話しながらもアルマ姉さんが何回か私の方を見る。

　その意味を少し考えて私はこの場から去ることにした。

　当然逃げる意図ではない、公爵家の馬車に戻り一旦実家に戻るのだ。

　そしてシェリアに伯爵夫人室の鍵の行方を訊く。

　彼女が持って来ていたならそれを手に伯爵邸に引き返せばいい。

　もし実家にも鍵がないなら男性の使用人を何人か連れて伯爵邸に戻る。扉を壊す為だ。

　私は歩き慣れた廊下を一人で歩く。執事の声が徐々に遠くなる。

　私があの場から去ったことに気付いていないようだ。

　他の使用人とは擦れ違わない。

　偶然なのか、巻き込まれたくなく隠れているのかの判断は難しかった。

　そのお陰で誰にも呼び止められる事無く伯爵邸の玄関まで辿り着く。

　しかし私がそこから出ようとした途端、勝手に玄関扉が開いた。　