花人・二
男女が騒がしい人の列から外れて闇を潜る。
それは、駆け落ちをする男女の姿。人知れずして振り返りもせずに走る二人。照らすのは花火の光であった。
愛しい人の顔を包む可憐な手は小刻みに震えていた。返事をするように日に焼けた手が上から覆う。
「今世で結ばれぬのなら来世で───」
震える声での言葉。
「お雪──お前とならどこまでもついて行くさ」
二人は恐る恐る抱きしめ合うと荒れる川に身を投げ出した。言葉を交わさずとも最後は最愛の人へ口付けをしたのだった。
桜の木がまだ葉桜にならない頃、文に読み耽る。
毎日、二人で二百通は読んだとしてもそれを超えて届く文の量。これを読んでは本家の者が出向く仕事と分家のする仕事、さらにその他の者と振り分けていく。
簡単に言うならば本家は美味しいがその分、難しい仕事をする。
分家は少し面倒な仕事ではあるが、本家の者がするまででもない事。
その他の者は、ざっと言うなら雑用係だろう。
それでも指南役は今後の人事不足を見通して経験は積ませたいらしく、実績などから才能のある人物、意欲のある者には本家や分家の仕事も振り分けているようだ。
「こんなにも文が来るとは!まさか妖怪怪異が現れない日は無いのか?!」
「そんなこと考える暇があるなら仕事をなさい。と、言いたいところですが自分もいい加減に飽きてきましたし息抜きに出かけましょう。」
着物を替えてまでやって来たのは遊郭である。
夜は華が豪華絢爛と咲き誇るが、まだ黄金色の顔がある今はなにも色っぽい雰囲気などはない。
こんな時間帯じゃ盛るもなにも無いだろうに。指南役はどうするのだろうか…。いや、もし、色欲魔なら常時であるか?
「蛍よ、ここでは私のことを若旦那と言いなさいね」
耳元で指南役に囁かれた。自分の考えが思わず顔か、口かに出てしまったのかと焦る。しかし、指南役は私が一人焦っている理由がわかっていないようで一安心。心の中でそっと胸を撫で下ろす。
「了解です。」
今は昼見世の時間ではなく、夜の準備で遊女達が急いでいる時間帯だ。
指南役はいったいどんな用事でこんな場所へ来たのだろうか。どうも考えが読めない。
「あぁそうだ。貴方これで簪の一つでも買ってきてください」
そう言いながら二歩後ろを歩く私に投げてきたのは小銭袋だった。
袋の中でぶつかり合う金属の音は、小さい巾着にずっしりと入っている証拠である。こんなに沢山の銭を託されたところで私が趣味の良い簪を買ってくるとは限らない。ただ、高いだけで微妙な簪を買ってくる可能性だってある。
ポツンと立つ私を置いて去って行こうとする指南役の背中に駆け寄る。
「あの、若旦那様が女性に渡す簪でしたらご自分で選んだほうがよろしいかと。それにそちらの方が喜ぶのではないでしょうか。」
「違いますよ。あなたのその、好き勝手にさせてる髪をどうにかなさいと、婉曲に言ったつもりだったんです」
場所も場所なのだからてっきりどこかの遊女への贈り物を買わせに走らされるものだと考えてしまった。それにしても遠回しにも程があるだろと、文句の一つでも言いかけた言葉を唾と一緒に飲み込んだ。
「そうでしたか。お気遣いいただきありがとうございます。私だってこんな鳥の巣みたいな髪は嫌なのでどうにかしたいのですよ。なんかないですかね」
「そうですね…。なら、いっそのこと全て剃り落とせば問題解決ですよ」
私を坊主にでもさせたいのか!
「それも良いですが髪が生えるうちは生やしておきたいので、有り難く簪に使わせていただきます。」
床屋に連れてかれるより先にそそくさと赴くままに足を運ばせる途中、突然として後ろから衝撃を受ける。初めて来る場所の街並みに心奪われていた私は衝撃でよろけたが倒れずに持ち堪え、振り返る。
そこには尻もちを着いて腹に手を当てる若い女が居た。乱れた髪の間から菖蒲色の潤んだ悲壮に満ちた瞳を覗かせている。きっと孕んでしまった遊女だ。
「そこのアンタ助けておくんなまし!じゃないと親子共々死んじまうよぉ…」
その女性が私の着物の裾に縋り付いて泣きじゃくる。どうすれば良いのかと困惑していたところ、女の髪が鷲掴みにされていた。すると女は剥がされて投げられた。二、三回転がると倒れたまま動かない。この一連をした男はゆっくり近づいて行く。
「ここまで食わせて育ててやった恩を仇で返すのか!?この恩知らず、恥知らずめ。お前にはまだ借金があんだからその分だけでも稼いでもらわなきゃ誰が肩代わりするのか知ってんだろ。」
楼主らしきその男が鬼のように真っ赤な顔と剣幕で逃げ出した女を力任せに顔だけは狙わずに、腹部を蹴る。唸る女の声は痛々しさを物語り聞くのも堪えがたい。
後から来た男衆が頃合いを見計らうと、急いでその場から女性の体を持ち上げてそのまま去っていく。
「おい!見世物じゃねぇ、さっさと失せろ」
その場に居合わせたほぼ全員が我に返って急いで逃げ出す。
あぁ、嫌なものを見てしまった。
店側からすれば女は入れ替わってく商品であるが、女側からすれば一時的な生きていく最後の術だろう。果たしてここから逃げ出しても、籠の鳥が逃げ出したところでその先にはなにがあるのか。思わずそう考えてしまう。
私は牛歩ながらも歩き出す。一歩足を踏み出すと足裏に違和感があり、確認するとあの遊女が落としていっただろう簪が平打簪がちょうどそこにある。拾って軽く土を払うも、これをあの楼主のところまで届ける気にもならなくて静かに懐にしまった。
「まさか貴方はそれを使うつもりですか。いわく付きですよソレは」
知った声の方向を見ると知った顔の人物がゆらゆら歩いている。