59. 大事な人がいるから
一月は過ぎるというように、いつのまにか過ぎてしまって、実家に帰る日が迫っていた。
「じゃあ、行くか」
「……はい」
怖い。この安心する場所から、あんなところに行きたくない。そう思ってしまった自分に嗤う。
いつのまにこんな弱くなったのかしら。
「大丈夫ですよ、私達はここであなたの帰りをお待ちしておりますからね」
小船に乗る直前、ロッソ夫人に背中を押された。触れた手が温かい。
「ええ、行ってきます」
船の中で空を見れば、晴れていて。柔らかな日差しを浴びて息を吐いた。
国外追放された時とは別のルートで帰る。港から船に乗り、大陸部の船着場へ行く。
「あいつもたまには役に立つな」
「一応あれでもエド様と同じ王太子殿下ですからね」
殿下に話を通していたことで、アンジェライトの関所はすんなり通れた。馬車に乗り慣れていないエド様は少し面白い。マーレリアには馬車はなく、船やゴンドラしかないから。
「さて、ここからは危険だな」
「何があろうともお守りします」
野盗がいるようなアンジェライトには本来、大勢の護衛を連れて来た方がいい。けれど、なるべく目立たないようにということで、今回は少数精鋭。トマスさんに至っては馬車の中にいる。
幸いにも何事もなく、田舎の準男爵領や少し栄えた子爵領を通り抜けて、侯爵領に入る。しばらくすると邸宅の外壁が見えた。
「ついたな」
「ええ……」
何一つ変わっていない庭園。屋敷が、酷く大きく見える。
まるで、昔……初めて、一人で父母に会った時のように。
……幼かったある日、お祖母様が一人で行ってはダメと仰っていた、本邸に住む、父や母というものに興味が湧いて。
ちょうど馬車から降りてきたお父様に駆け寄った。
『誰だっ!』
怒鳴り声に、体が固まった。自分でも驚くほど小さな声で『エレノアです』と答えた。するとお父様は大きく舌打ちをして、
『なぜここにいる。王妃教育はどうした。我が家のために学べ。恥をかいたら許さないからな』
と吐き捨てるように行って、去っていった。なんだかわけがわからなくて、足をもつれさせながらも別邸に帰ろうとした。
『あら、どなた?』
途中で香水とタバコが合わさった酷い匂いのやつれた女性がいた。とても美人で、それでいて醜かった。呆然と見上げていると、最初は柔らかかった雰囲気は次第に変わり、頭を押さえてぶつぶつと呟き始めた。
『私は浮気なんてしていない。あの人が浮気をして、許さない……、許さない!! ああどうして。なんで、あなたは……!』
そうして私の肩を掴んで揺さぶった。一刻も早く、ここから逃げなければならないと悟った。隙を見て潜り抜け、後ろを見ずに走った。あれがきっと、母なのだとわかっていながら。
『ノラ!!』
お祖母様は途中まで迎えに来てくれていた。抱きしめられて、私は安堵感からボロボロと泣き出した。怖かった。あれは人間なのかと、本当に家族というものなのかと。心臓がバクバクと音を立てた。体が震えた。足の感覚がなかった。ただ、お祖母様の体温だけが頼りだった。
お父様は見たことがあるだけだった。お母様は病気だと教えられていた。
……狂った人の恐ろしさを初めて知った日だった。
手が温かい。気が付けばエド様が握ってくれていた。
「震えていた」
……大丈夫。私は今、一人ではない。
馬車から降りれば、執事長が出迎えにきていて、そのまま応接間に案内される。
敷内も、変わらない。ただ、階段の側に飾られている一族の肖像画のところ。そこにあった私を描いたものはなくなっていた。
誰かはわかっていないようだけれど、エド様がついてきたのが予想外だったのか、珍しく屋敷がざわついていた。
応接室のソファに座る。少ししてドアが開いた。
「お父様、ただいま戻りました」




