37. エドアルド様の元婚約者
それはごくごくありふれた日だった。
今日は授業がなくて、朝からエドアルド様の執務室で冤罪に関する書類に目を通したり、サインをしたり。紳士で手入れのされたお髭のチャーミングな側近さんの絶品エスプレッソを飲んだり。
「平和ですね……」
「いや、書類読んだのか?」
「読んでますよ。さすがブライアント王家。全部貴族のせいにして、冤罪の件はうやむやにしようとしてますね」
母国にいる頃、数えきれないほど見た筆跡と下衆なやり口。実際は全ての動きを理解しつつ、王家と教会のつながりのために見過ごしていただけ。冤罪であることを指摘されても、目障りな貴族を消せるから好都合だと。
羽ペンを置いて、エスプレッソをもう一杯飲む。もうすっかりこの苦味にも慣れた。
「まあでも、殿下とアリアさんが頑張って動いているのを、あの国王夫妻と教会が無視はできないでしょうし。平和ですよ」
なにより、この事にエドアルド様が怒ってくださっているのが。濁り切った常識が少しずつ澄んでいく気がする。
「はぁ……ああ、そうだ。手紙が届いてるぞ」
「ゲッ。破り捨てて置いてください」
「そう無碍にしてやらなくても」
あれ以来アリアさんが近況報告と色恋沙汰に関する手紙を送ってくる。今まで散々人のことを怖がっていたくせに。
一応読んでやれば、殿下との接吻で息継ぎが難しいだの、私とエドアルド様はどうしているのかだの、吐き気を催す内容ばかり。
……お熱くてよろしいですね。私とエドアルド様はそんな関係ではありませんので。
「まあいいだろう。ああ、俺宛もあるな。これは珍し……はぁ!?!? 嘘だろ!?!?」
エドアルド様の絶叫に思わず耳を塞ぐ。
なんです、急に。煩いですよ。え、なぜ席から立って? 私の肩をそんながっしり掴んで?
「ノラ、今すぐ子爵家に行って数日過ごしてくれないか?」
目がキマっているエドアルド様。困惑することしかできない私。でも、これだけは言えます。
「嫌です」
そんなめんどくさいこと。今から荷造りするの大変です。ここに来てからお気に入りが増えてしまったんですから。少なくとも枕に鰹節削り機、お皿とか……。
「頼む」
「まず何があったんです?」
「カミッラがくる」
誰です?
いや……確か。
「俺の元婚約者が、だ」
カミッラ・アウストラシア。元々はマーレリアの伯爵令嬢であり第三王子殿下の婚約者。ティエラエールの国王に見初められて、婚約を破棄して王妃となった人。
「その方が何故いらっしゃるのです?」
そんな予定ありませんでしたよね? 手紙を読んでから驚かれたということは私が見落としたわけでもない。
「それがだな……」
ドアをノックする音がした。とりあえず許可をすれば焦った様子のメイドさんが入ってくる。
「カ、カミッラ様がいらっしゃいまして……」
ついにエドアルド様は頭を抱えた。膨大な書類に埋もれていたせいか、それとも手紙が届くのが遅れてしまったのか。どちらにせよ無意味になってしまった紙切れが机から落ちる。
これ、私が読んでいいのかしら。
「とりあえず応接間に案内してくれ」
「あ、いえ、その……」
ヒールの音がする。
ああ、これは……。
後ろから現れたのは、赤髪緑眼、なによりお胸の大きな女性だった。思わず自分の貧相な胸元を見る。なんだか負けた気分がした。
「お久しぶりですわ、エドアルド殿下」
艶やかな声とたおやかな振る舞い。余裕のある笑みで優雅な挨拶をした彼女が、カミッラさんだとすぐに察した。
「あ、ああ。久しいな、カミッラ……」
冷や汗を掻いてるエドアルド様を横目に、もう今更だと拾った手紙を読んでみる。そこには綺麗な文字で随分とめんどくさそうなことが書かれていた。
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親愛なる殿下、
お元気でいらっしゃいますか。私、カミッラ・アウストラシアはティエラエール王国にて過ごしてまいりましたが、この度、夫が不義を働いたため、帰国することに致しました。心苦しい決断ではありますが、今は故国に戻り、静養したいと思っております。
ご多忙の中、恐縮ではございますが、この件についてご理解とご支援を賜れれば幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
カミッラ・アウストラシア
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つまり浮気されたから家出ならぬ国出してきました。受け入れてくださいね、ということですよね?
あまりに唐突すぎて、目を丸くするしかない。
「手紙を読んでくださったようで何よりですわ。それで、そちらの方はどなたですの?」
……ああ、平和が一瞬で崩壊したわ。