31. 遠い昔と今
……昔から、自分は少し変わっているのかもしれないと思うことが度々あった。
お祖母様が仰るには、私は生まれつき体が柔らかく、どんなに幼い頃でも寂しがらなかったらしい。それに、耳が誰よりも優れていて、触覚が敏感だった。生粋の侯爵令嬢のはずが高くて狭いところが好きで、いたずらもよくして怒られた。
これは全て、遺伝ではない。でも、気にしたことはなかった。王妃になる上で不利なものでなければ、なにも問題はなかったから。
「ああ、そういうことだったのね」
全て納得がいった。思い出してしまった。
*
今の私にとって一番古い記憶は、誰も知らない路地裏で、一人ニャーニャー泣いていたことである。
昔の私に名前はなく、クロ、ハチワレ、にゃんちゃん……ノラ、なんて人によって違う呼ばれ方をしていた。
体も大きくなかった私は、都会の縄張り争いから、逃げて、逃げて。気がつけば田舎に来ていた。田舎は縄張り争いがなくて、でもカラスに襲われやすかったり食料が少なかったりした。
『チクショウ、このドラ猫めがっ!』
別に人間が好きだったわけじゃない。何度も何度も痛い目にあった。縄張り争いと同じくらい、人間も恐ろしいものだった。恨んだことも、たくさんあった。
でも、エサをくれる人もいた。そのうち、信用せずに、媚びを売ることが私の生きられる唯一の道だと知った。
『……ガリガリだな。腹が減ってんのか?』
あの時、私にスーパーのお刺身をくれたのは、誰だっただろうか。……そうだ。金髪の、少年だ。珍しかったからよく覚えている。顔はよく思い出せないけれど、いつもどこかに傷を作っていて、自分と似たような雰囲気で、私は心の中で、ワルと呼んでいた。ただ、その割にはいい人で、ちょろかった。少し媚びればすぐにいうことを聞いてくれた。
『かわいいやつだなぁ』
しょうがないから、ペロリと手を舐めてやれば子供らしく喜んでいた。腹を見せてやれば撫でてきた。たまにそのまま匂いを嗅いできたこともあったけれど、まあ許してあげた。
『よぉ、ノラ。お前も雨宿りか?』
バス停で雨宿りしていると、ワルがきた。頬が人間の手の形に真っ赤になっていた。
『そうだ、聞いてくれ。彼女に浮気してるでしょ!! ってビンタされた』
へらりと笑うワル。雨が、強くなってきた。
それは大変ね。……あなたに番がいたなんて意外だわ。いないと思ってた。
『ああ、そうだ。これ買ったんだ。猫ってみんなこれが好きなんだろ?』
ゴソゴソと鞄を漁って取り出したのは、棒みたいなものがたくさん入っている袋だった。ワルはそれを開けると一本取り出して封を切った。
まずは匂いを嗅いで……いい匂い! ペロリと舐めるとマグロの味がした。美味しい!
『うまいか。これ、初バイト代で買ったんだ』
そういえばワルは随分大きくなってしまった。撫でてくる手も、抱き上げてくる腕も、昔とは全然違う。初めて会った時は幼かったのに、もう大人みたい。対して私はどんどん老いて、最近はジャンプがうまくいかなくなってきた。でも、ノラにしては随分と長生きしたわ。
『ん? もう一本欲しいのか? 猫って本当にチュール好きなんだな』
違うけれど、くれるものは全部ちょうだい。
ご飯をくれる人は大好きよ。あなたはいじわるをしないから余計好き。光栄に思いなさい。
『あ、バス来ちまった。じゃあな、ノラ。また明日やるから』
残念だわ……。
ええ、明日があれば、また明日。
ふと、飼い猫のやつと窓越しに話したことを思い出す。人間に飼われれば、ごはんを毎日くれて、ずっと一緒にいられる、なんて。聞いた時は、その首輪の代わりにでしょと鼻で笑った覚えがある。
けれど、後ろ姿を見て思う。
────あなたになら、首輪をつけられてもいいかもね。
雨は余計強くなって、馬鹿馬鹿しい甘い考えに、自分で笑ってしまった。
*
「お、おい。どうして泣いているんだ? 痛かったか? 嫌だったか??」
蘇った前世の記憶に、笑みをこぼす。混乱もなにもせず、記憶はすっと馴染んだ。
「いえ、ただ目に大きすぎるゴミが入っただけです」
みっともなく慌てているエドアルド様を見上げる。ああそういえば、この人もワルと同じ金髪だわ。
前世も今も、私の趣味ってそんなに変わらないのかしら。
「それならそうと早く言え! ほら、見せてみろ! 取ってやるから」
「涙で流しましたから」
「それは意図的にできるものなのか!?」
うるさくて仕方がないので見せて差し上げる。まあ元々そんなものはないけれど。
「ね、大丈夫でしょう? それより、冤罪を晴らす件について聞かせていただけます?」
あーあ、単なる食い扶持の一つとしか思っていなかったはずなのに。どうしてこんなことに。