お飾り妻
あの日、チャーチャに肩を支えられ、バスルームへ向かい、顔についていた煤も涙も全部、洗い流した。でも煤は一度落とせばお終いだったけど、涙は次から次へと溢れ出てくる。
悪役令嬢は、断罪と婚約破棄を回避できたら幸せになれると……と考えていたけれど、そうとも限らないようだ。
でもここでこの状況を嘆き、泣き続けるのはやめよう。もし断罪も婚約破棄も回避できていなかったから、私は屋敷に引きこもり、社交も出来ず、忘れられた存在になるところだったのだ。しかも生涯独身確定だった。それが今は若奥様と言われ、将来公爵夫人になる身。しかも出しゃばった真似をしなければ、放置されるだけで済む。
それならば観劇をしたり、演奏会を聴きに行ったり、ウォードの望むお飾り若奥様を演じようではないか。
そう決意してからは、気持ちが楽になり、オペラを見たり、演劇を見たり、オーケストラの演奏を満喫するようになった。観劇の後は、レストランで好きな物を食べ、シャンパンを開け、ほろ酔いで帰宅し、何も考えずにベッドに倒れる。
夢も見ず、ウォードから夫婦の寝室に来てくれと言われる――なんて期待もすることがない。花嫁修業でいろいろ身に付けた知識やスキルがあったが、そのほとんどを活かすことがなかった。
ただ、外国語のスキルのおかげで、異国の友人が増えた。上流階級ならではの会話術で、遊学に来ていた異国の皇子とも知り合った。
異国の皇子ということで、私の周囲にいる男性とは、趣が違う。
黒髪に近いダークブラウンの髪、瞳はわずかに深緑色を帯びたブラックオリーブ色。肌は前世の日本人に似た色をしている。そして前世でトーブと呼ばれている、砂漠の民の民族衣装をアレンジした服を着ていた。それはゆったりとした白の貫頭衣であり、腰の黄金が飾られた革製のベルトが、アクセントになっている。
そんな異国の皇子らと食事をし、笑い、お酒を楽しむ。ドレスを仕立て、宝飾品を揃え、美しく着飾り、街へ繰り出す。
異国の皇子に連れられ、退廃的な雰囲気のお店に行くと、そこではシーシャ(水タバコ)が楽しめた。体に害があると分かっている。だが気持ちが享楽的になっており、シャンパンを飲んだ後ということもあり、シーシャを初めて吸ってしまった。
大声で笑い、さらにシャンパンを飲み、そして――。
「若奥様!」
チャーチャに起こされ、自分が異国の皇子に抱かれるようにして、その胸にもたれていることに気づいた。シーシャはローソファに寝そべるようにして吸引していたのだ。そしてそのまま少しの時間、眠っていたと気づく。
「帰りましょう、若奥様。こんなこと、若奥様らしくありません!」
グレーのドレスを着たチャーチャが、黒い瞳を潤ませ、私を見上げた。
その目を見ると、心臓がドキリと反応する。
私は……何をしているのだろう、と。
こんなことをしたかったわけではない。
こんな状態を続けては――ダメだ!
チャーチャに支えられて、お店を出て、馬車に乗り込む。
私がお酒を散々飲むので、チャーチャは馬車に水を用意してくれていた。水筒の水を、ゴクゴク飲んだ。鼻孔や喉に残る、シーシャの甘ったるいフレーバーが、少し緩和される。
「チャーチャ、ごめんなさいね。私がこんなんだから、辛い思いをさせたわよね」
「いえ、そんな。ただ、若奥様がこうなったのは、若奥様だけのせいではないと思います」
チャーチャは常に私のそばにいるから、全部分かっていた。
ウォードとは、肉体関係が一切ないことも。
ウォードが私を愛していないことも。
ウォードと私が、愛のない結婚であることも。
「ありがとう、チャーチャ。あなたがいてくれたのが私の唯一の救いだわ。……もう、こんな生活はやめる」
「若奥様……!」
そして私は決意する。
私に愛のない結婚なんて無理だ。
こんな結婚、終わらせないと……いけない。
翌朝。
チャーチャのおかげで二日酔いにもならず、少し顔がむくんでいるくらいで、ちゃんと目覚めることができた。顔を洗い、ドレスへ着替える。
襟、袖、裾が白のレースで飾られた立襟のロイヤルパープルのドレスを選んだのは、これが私の勝負服でもあったからだ。瞳より濃い紫色だが、これを着て、髪をローポニーテールにすれば、凛とした印象を与えることができる。
朝食を終えた私は、チャーチャに頼み、公爵家当主補佐官ワイリーに部屋へ来てもらった。
「おはようございます、若奥様」
黒みを帯びた青い髪に紺色の瞳のワイリーは、今朝も礼儀正しく挨拶をしてくれる。ワイリーはウォードの右腕のような存在だった。ウォードが私を相手にしていないのだ。ゆえにワイリーだって、私に冷たい態度でも許されると思うのだけど。
ワイリーはいつも誠実に対応してくれる。そして昨日までの退廃的で享楽的な生活を送る私に、何度か声をかけてくれた。それはこんな風に。
「若奥様、最近、顔に疲れが出ているようです。……お酒ばかりでは、体も疲れてしまいます。たまにはゆっくり紅茶を飲んで、休まれては?」
そんな風にやんわりと外出を控え、離れでゆっくりすることをすすめてくれたり。
「この時期、温室にあるナイトクィーンが美しく咲く姿を楽しめます。今晩あたり、また咲くと思いますよ。ぜひお楽しみになってみては?」
つまり夜は離れで過ごし、そして温室へ足を運んでみてはと提案してくれたのだ。
私はこの提案を、内心ではとても喜んでいた。
それなのに「ええ、そうね。ありがとう」と上辺だけの返事をして、街へ繰り出していたのだ。そんなヒドイ対応をしたにも関わらず、ワイリーは変わらず、律儀な対応してくれていた。
「ワイリー、おはようございます。急に呼び出してごめんなさい」
「いえ、そこはお気遣いなく。……何かございますか?」
「ええ。私、ウォードと話したいの。忙しいのは分かっているわ。でもどうしても時間を作って欲しいの。これまでこんなお願い、一度もしたことがないでしょう。後生だから叶えて欲しいの」
私の真剣な表情にワイリーの顔つきが変わる。一瞬、怒ったのかと思ったら、違った。
「若奥様、その願い、賜りました。必ず時間を作るようにしますので、少しお待ちください」
「ありがとうございます、ワイリー。とても助かるわ」
紺色の瞳を細め、ワイリーが微笑んだ。
なんだか心から和める表情だった。
安堵してワイリーを見送った後は、両親に手紙を書いた。するとそこに逆に手紙が届く。でもそれは両親からの手紙ではなく、異国の皇子からだった。昨日、挨拶もせずに私が姿を消したので、心配してくれたようだ。挨拶はしたかったのだけど、あの時点で皇子も爆睡していたから……。というのは言い訳だ。お詫びの手紙を書かないと。
さらにもう一通、手紙が届いているが、随分と封筒が安っぽい。
迷惑メールならぬ、悪戯の手紙かと思った。
誰ですか、こんな封筒で手紙を送って来るのは……。
そう思ったことを撤回する。だって手紙をくれたのは、クーヘン村の村長で、中には子ども達が描いた絵も添えられていたのだ。そして手紙に書かれていたことは……。
『若奥様へ
先日は村まで訪ねてくださり、ありがとうございます。
復興は進み、新しい家の建設も進んでいます。
公子様がすぐに予算を割り当て、援助してくださったおかげです。
若奥様といい、公子様といい、いい領主に恵まれました。
子ども達が若奥様に渡して欲しいと絵を描いたので、同封させていただきます。
追伸:イチョウは三月~四月に苗木を植えるといいそうです。
それまでは広場も通りも寂しくなりますが、あと少しの辛抱。春を待ちます』