盲点
ウォードの診察を終えた、かかりつけ医、ヘッドバトラー、ワイリー、そして私は応接室へ向かった。チャーチャは従者と共に、ウォードに朝食を出し、身支度を整えるのを手伝いつつ、様子を見守ってくれている。
ウォードが記憶喪失と分かった直後、私は自分の言動を振り返り、叫び出したい気分に駆られていた。だが私のあの言動を目の当たりにしたのは、いつものウォードではない。だから叫ぶのを我慢し、すべきことをした。
すべきこと、それはヘッドバトラーを呼び、朝食の用意とかかりつけ医を連れてくるよう頼むこと。
こうして慌ただしく、皆が動き出す。
ウォードはかかりつけ医の診察を受け、その間に私は身支度を整えた。その際、ヘッドバトラーは先程、伝書鳩を飛ばしたと報告してくれた。これでアルモンド公爵夫妻にも、ウォードの件が伝わる。
昨晩、早馬を出すことも考えたが、あいにくの雨で、道もぬかるんでいた。しかも雨風がそれなりにある状態で早馬を出すのは、危険だ。危篤――であれば、早馬を出す必要もあった。だが目立つ外傷はなく、ただ眠っている状態に近い。ならば明朝天気の回復を確認し、伝書鳩を飛ばそうと、ヘッドバトラーと話していたのだ。
結果として、ウォードが目覚め、少し記憶喪失になっているという最新情報を盛り込んだ手紙を用意できた。この手紙をアルモンド公爵夫妻に向け、送ることができたのだ。
「話を聞く限り、一定期間の記憶を失っているというより、まだらに記憶を失っているように感じます。幼い頃の記憶を思い出そうとすると、覚えていることは覚えている。けれど、全く忘れてしまったこともある。それに近い状態です」
応接室のソファに腰を下ろし、紅茶を一口飲むと、かかりつけ医はそう切り出した。
「それは一過性のものなのでしょうか? つまり時が経てば、徐々に思い出せるようになるのですか? それともずっと失ったままなのでしょうか?」
ワイリーが少し前のめりで尋ねるのは当然だ。
ウォードが担っている執務、商会経営に、記憶喪失は、大きな影響を及ぼす可能性がある。
「これはばかりはなんとも言い難いですね。こういった記憶に関する問題は、本当にケース・バイ・ケースなんです。ただ、ひょんなことで、記憶が蘇ることもあります。これは民間療法にも近いのですが、ご本人が思い入れのある物や人がそばいると、記憶が蘇りやすいこともあるとか。試してみてもいいかもしれません」
「何か先生で治療できることはあるのですか?」
私が尋ねると、かかりつけ医は腕組みをして困り顔になる。
それでもこんなアドバイスをしてくれた。
「治療は、あの頭のたん瘤ぐらいでしょうか。記憶についてはなんとも。例えば新しい物事を覚えることができない、となれば、いくつかの療法が提唱されています。それを試すのは手でしょう。ですが忘れた記憶を取り戻す……こちらは難しいです。若旦那様に関して言うなら、外傷はないわけですよ。体については健康そのもの。これまで通りの生活をすることが、記憶の回復につながるかもしれません」
するとワイリーが安堵した表情で尋ねる。
「ではこれまで通りの生活で、執務を行っても?」
「ええ、それは問題ありません。ただ、思い出せないこともあり、本人が自己嫌悪を感じるかもしれません。そこは必ずサポートしてあげてください。思い出せないことを責めずに」
こうしてかかりつけ医は、ウォードには何も処方せず、ワイリーに薬を出し、そして自宅へと帰っていった。
エントランスホールで、ワイリー、ヘッドバトラー、私の三人は今後の方針を軽く話すことになる。暖炉の前に置かれたソファに座り、私から口火を切った。
「かかりつけ医によると『ご本人が思い入れのある物や人がそばいると、記憶が蘇りやすいこともある』と言っていましたよね。そうなるとワイリーやヘッドバトラーであるアルバートは、ウォードのそばにいた方がいいと思います。それに『これまで通りの生活をすることが、記憶の回復につながるかもしれません』とも言っていたので、本人に確認し、執務も再開していいのではないでしょうか」
「分かりました。ウォード様は仕事人間でしたので、何もしないことがストレスになりそうです。執務をこなすことで、昔の勘と共に、記憶も戻るかもしれません。若奥様はこれまで通り、皇女様の教育係として、お出かけになりますよね?」
「そうね」と答えようとすると、ヘッドバトラーが「あの……」と声をあげた。「どうしました?」と私が尋ねると、彼は気遣うようにこちらを見た。
「若旦那様が事故に遭ったことは、既に今朝のニュースペーパーにも掲載されています。恐らく、この後、方々からお見舞いの方が訪ねてきたり、手紙や花も届いたりするでしょう。そこの対応は若奥様がされた方がよいかと」
これには「……!」となる。すっかり盲点だった。全く考えていないことだ。何せ身近な人が事故に遭うことが、これが初めてだった。
「記者には、若旦那様が目覚めたこと、少し記憶に混乱があることは伝えます。それでも世間に事故のインパクトは、しばらく残るでしょう。勿論、皇女様の教育係として、契約があると思うのです。ですがそこで若奥様が、皇女様と外出されているとなると……」
「ありがとう、アルバート。あなたの言う通りだわ。それは世間体が悪すぎる。そこにちゃんと配慮できず、ごめんなさい」
素直に謝罪をすると、ヘッドバトラーは優しくこう言ってくれる。
「こんな事態、初めてのことですから、見落としがあって当然です。わたしは年老いている分、経験を積んでいます。だから気づくこともできました」
そこで柔和な笑みを浮かべると、こう続けた。
「……実はアルモンド公爵は、結婚されて間もない頃、落馬され、腕を骨折されたのです。ですが本当に怪我はその骨折のみで、後はピンピンされています。公爵自身も奥様に『私のことは気にせず、劇でもオペラでも観に行って構わんぞ』とおっしゃいました。奥様は『ならば』とお出かけされたのですが……。方々から批判の声があったのですよ」
なるほど。既に体験談があったのね。当事者は気にしていないことでも、周囲が気にするのは前世でも今生でも同じ。貴族社会は特に噂好きだから、気を付けないと。
「そう言っていただけると、少し安心できました。お見舞いの手紙は、私の方で対応します。それぐらいなら、妻という立場の私がやっても、いいですよね?」
ワイリーを見ると「そうですね。そこはウォード様に、きちんとお伝えしておきます」と微笑んでくれた。きっとまた、ウォードのことを説得してくれるに違いない。
「そして教育係の件。ソアール皇女には、お見舞いの名目でこちらに訪問してもらうよう、お願いします。刺繍をしたり、図鑑を見たり。そういったことをして、外出はしばらく控えます。お見舞いの方がいらしたら、勿論私が対応いたします」
こうして話はついたので、それぞれが動き出すことになる。私は部屋に戻り、カシウスとソアールに手紙を書き、両親にも知らせようと思った。ワイリーとヘッドバトラーはウォードの元へ、まずは向かうことにした。
こうして部屋に戻り、早速手紙を書き始めると、チャーチャが戻って来た。と思ったら……。
「ウ、ウォード! どうして、なぜ!?」





















































