唇が手の甲に触れた瞬間
「しかも火事が起きたのは夜。連絡が来て、村へ到着したのは、結構遅い時間ですよね? そんな時間なのに、わざわざ行動できるのは、本当に勇気がありますし、お優しいと思います。それにレッドウッドではなく、イチョウへの植え替えを提案したのでしょう? イチョウであれば、防火樹になると」
「それは……そうですが、レッドウッドを植えることをすすめたのは、アルモンド公爵家の先祖です。それなのに、それを否定するような発言をしてしまったと、今は後悔しています」
するとカシウスの整った顔が、驚きの表情へと変わる。
「どうしてそんな発想に!? シャルロン様は、立派だと思いますよ。僕なら間違いなく、惚れ直します。その行動力と優しさと、あなたの聡明さに」
これにはもう頬が熱いと感じるくらい、嬉しさと喜びで、全身が震えていた。
誰かに褒められたくて、起こした行動ではなかった。
それでも村長や村人から感謝されれば嬉しかったのだ。
同じように、「よくやった」のたった一言を、伝えて欲しかっただけなのに……。
カシウスは……私が願う言葉を、当たり前のように口にしてくれる。
そのことが、嬉しくてたまらなくて、そして泣きそうになっていた。
「……シャルロン様はどうしてそんなに自己評価が低いのですか?」
「!?」
カシウスのブラックオリーブ色の瞳が、探るように私を見ている。
「シャルロン様の旦那様は、あなたのことを正しく評価してくれていますか?」
これはもう核心をつく一言だったと思う。
正しい評価なんて……してもらえていない。
つい最近までは、結婚したものの、いない者として扱われていた。夫婦らしい関係性は皆無で、同じ離れに住んでいるのに、顔すらあわせることがなかった。食事さえ別々で、会話もなく……。
「夫は……忙しいだけです。忙しくて、私のことまで構っていられないので……」
「それでは僕の質問の答えにはなっていません」
「うっ」と黙り込むと、カシウスはニコッと笑顔になった。
「責めるつもりはないですから。……ただ、ソアールの教育係になってくれたシャルロン様には心から感謝をしています。あなたには幸せになって欲しいと思うのです。いつも笑顔でいて欲しい」
そこでカシウスは胸元から取り出した正方形の小さな箱を開ける。そこにはトリュフチョコレートが二粒、プラリネが二粒、収められていた。
「これはソアールが我が儘を言って、でもこちらの意見を汲んでくれた時、一粒渡すようにしています。でも今日のソアールはシャルロン様の言うことに文句なく従い、とても助かっています。このチョコレートの出番はないかもしれません。良かったら一粒どうぞ」
「よろしいのですか? チョコレートは高価なものなのに」
するとカシウスがクスクスと笑う。
「未来の公爵夫人なのでしょう、シャルロン様は。堂々と召し上がってください」
「……! ありがとうございます!」
カカオパウダーがまぶされたトリュフは、ほろ苦く、でも甘い。
口の中で心地よくとけ、気持ちが盛り上がる。
つい相好が崩れてしまう。
「その笑顔。シャルロン様の笑顔は、とても素敵です。お屋敷へ戻ると、何か辛いことが待っているとしても。僕といる時は、あなたが笑顔でいられるよう、努めます」
貴重なチョコレートをくれたのは、私を笑顔にするためだったのね……!
カシウスはなんて優しいのだろう。
「次回の授業も外出しませんか? ラエル皇国ではラクダレースが人気ですが、こちらの国では馬のレース、競馬を王侯貴族の皆さんが楽しんでいるのですよね? ソアールはまだ子どもなので、賭け事はさせませんが、走る馬を見せたら喜ぶと思うのです」
「競馬! そうですね。私自身、競馬は子どもの頃に数度しか行ったことがないのですが、賭け事より、ジュース売りやお菓子に夢中になっていた記憶があります。きっとソアール皇女も、走る馬を見て喜び、ジュースやお菓子を楽しめると思いますわ。ご案内します」
「ありがとうございます」と言った後、カシウスが少し照れたような表情になり、私に尋ねる。
「この国では、感謝や敬意を示す時、手の甲へキスをすると聞いています。ですがラエル皇国では、握手やおもてなしで感謝や敬意を示すのです。ですが郷に入っては郷に従えと言いますし、試してみてもいいですか?」
そうやってはにかむ姿を見ると、なんだか皇子というより、同い年の幼なじみのようにも思えてしまう。なんだか可愛らしい。
「勿論です……なんて返事をしてから、感謝や敬意を示してもらうのは、不思議な気持ちですが」
要するに承諾してから手の甲へキスをもらうなんて、なんだか恥ずかしいということ。この意図に気づくと、カシウスはますます赤くなっていた。
つい、からかいたくなってしまうが、そこは我慢(?)し、手を差し出す。するとカシウスは捧げ持つように私の手を両手で取る。そしてゆっくり顔を手に近づけながら、瞼を閉じたのだけど……。
まるで唇にキスをされるかのように、胸がドキドキしてしまう。
「……!」
カシウスの唇が手の甲に触れた瞬間。
体に電流が流れたかのように痺れている。最上級のシルク生地が肌に触れたようで、恍惚とした気持ちになっていた。何て唇をしているの、カシウスは……!
ほんのり潤いを感じさせる唇が、手の甲から離れて行くのを、実に残念に感じてしまう。
「これで、合っていますかね?」
照れながら上目遣いするカシウスは、ウォードと違い、妖艶。
ウォードの上目遣いは、いつも不機嫌そうな時ばかりだった。
でも、こんな甘い上目遣いもあるのね……。
「シャルロン様……?」「シャルロンお姉さま、見て~!」
完全にぽーっとしていた私の顔の前に、黒い巨大なザリガニが差し出された。しかも、そのお腹には大量の卵があり、仰天した私は大声で叫んでしまい――。
そんなこともあったが、この日のピクニックは本当に楽しかった。
たっぷりの太陽を浴びたおかげで、帰りの馬車ではソアールと二人、居眠りだ。
でもこの時。
馬車の中なのに。
本当に心から熟睡できた。
ウォードから「夫婦の寝室に来てほしい」と声がかかるかもしれない――毎夜そんな期待ばかりしていたから、眠りは浅かった。
でもこの時の眠りは……ソアールと手をつなぎ、肩を寄せ合い、彼女の体温も感じながらの眠り。誰かの温もりに私は飢えていたのかもしれない。信じられない程、ぐっすり眠ることができた。





















































