3.燃やされず弔われぬすべての死者たちのために
コーデリアは目を逸らさない。
少女は母親を正真正銘に愛していて、しかし母親の死体が解体されていく様から、片時も目を離さない。
そうすることにより虫食みの速度があがると、そう信じて。
少女の願いを聞き届けたかのように、蠅たちは異様な速さで数を増した。
真っ黒に蝟集して死体を覆い尽くし、やがて母の姿をコーデリアの視界から消した。
母親の無惨な末路を娘には見せまいとする、そんな蠅たちの優しさを少女は感じた。
「……蠅さんたち、ありがとう……さぁ、早く、急いで……」
コーデリアは祈り、蠅たちは虫食む。
やがて、母の死体は骨だけを残してこの世から消え去った。
弔いは完遂された。少女の愛した母は動く死体とはならずに済んだのだった。
「……ありがとう……ありがとう……」
いまや凄まじい数に膨れ上がった蠅たちに、コーデリアは涙を流して感謝した。
一体のゾンビが彼女に目を付けたのは、そのときだった。
若い男の死者だった。
それが死因だったのだろう、半壊した顔面に獰猛な笑顔を浮かべてゾンビは少女に駆け寄る。
走力は死してなお健在だった。コーデリアが気付いた時には、すでに逃げ切れぬほどに距離を詰められていた。
そうして少女が死を覚悟した、そのとき。
――ブァン。
羽音がして、蠅たちが空中を揺らめいた。
そして。
――ブァァァァァン!
黒い嵐が疾走した。
蠅たちは異様な荒々しさでゾンビに殺到した。
火の剣幕、怒りの剣幕であった。
それは、あたかも巣を守らんとする蜂のような。
あるいは、娘を守ろうとする母親のような。
母親の死体と同じように、コーデリアを襲ったゾンビも骨だけを残して消えた。
役目を果たした蠅たちはコーデリアの元に戻り、じゃれつくように肌にまとわりついた。
その瞬間に、理解は少女を貫いた。
これは母なのだと。母の死体に群がり母の死体を糧に増殖した蠅たちは、紛れもなくあの母の生まれ変わりなのだと。
蠅になって、私のところに戻ってきてくれた。
少女は再び泣き崩れた。
しかし今度のそれは、悲しい涙ではなかった。
母に再会した嬉しさと、蠅となってまで自分を守護してくれる母の愛を噛みしめて、コーデリアは喜びの涙に打ち震えた。
※
「ねぇ母さん。ねぇ、母さんたち」
コーデリアは蠅たちに話しかける。生前の母に話しかけるように。
都市は地獄と化して、母親には死なれ、しかし少女は幸せだった。
なにしろ彼女には母親がいる。愛する母が、蠅に転生してまで自分を守ろうとする母がいる。
生きていた時の百倍も、千倍もいる。
「ねぇ母さん、母さんたち。この都市の人たちには、ずいぶんいじめられたね。汚い母娘と蔑まれて、犬猫よりも下に扱われた。私はさ、あいつらを憎んだよ。殺してやりたいほど憎んだよ。でもね……」
言いながら人差し指を立てると、すぐさま一匹の蠅がそこに止まった。
生きていた頃もこうだったなとコーデリアは思う。寂しくなって手を繋ぎたくなったら、いつでもこうして繋いでくれた。
ああ、やっぱり母さんは母さんだ。蠅になっても母さんだ。
「でもね、母さんたち。殺したい人たちは、もうみんな死んじゃった。死んで、ゾンビになっちゃった。火葬されるどころか土にも還れず、死んでも死ねずに彷徨い続ける……それはでも、なんだかすごくかわいそうだよね」
蠅たちが『ブァン』と羽音で応じる。
母の相槌にコーデリアは嬉しそうに微笑んで、だから、と続けた。
「だから私、あのゾンビたちを葬ってあげようと思うんだ。死んでも死ねないあの人たちを、私がきちんと死なせてあげるの。ねぇ母さんたち、手伝ってくれる?」
ブァァァァァン!と盛大な羽音があがった。
もちろん! と、そう娘に応じて。
※
そのようにして少女の戦いははじまった。
それは暗闘で、そしてそれは弔い合戦だった。
都市に暮らしていた十万の人々は、いまや十万のゾンビへと変じた。死してなお彷徨う哀れな死者たち。
そんな彼らを見つけるや、コーデリアはまず気付かれぬよう慎重に近づき、十分な距離を詰めたあとで大きく相手を指差した。
黒い嵐はすぐさま従順に巻き起こった。
少女の号令一下、蠅たちはゾンビに殺到して腐肉を貪りはじめる。後にはただ骨だけが残った。
これがコーデリアの葬送、虫食むことによる弔いであった。
とはいえ、いつでも首尾よく行ったわけではない。
なにしろ都市には死者が溢れていた。一体で孤立した死者であればまだしも、複数体が群れている状況などはしばしば手に余った。
素早く限界を見極めて、不可能と思えば即座にその場を離れる。
そうした判断力は場数を踏むごとに培われたが、虫食むはずが逆に餌食になりかけたということも一度や二度ではない。
戦いは常に孤軍奮闘で、しかしコーデリアが孤独を感じることはない。
少女には母がいた。生きていた時の百倍も、千倍もいた。