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2.竜の墜ちてきた日

 ある世界に都市があった。広大な砂漠のただ中にあって他に類を見ぬほどに発展した、交易の要衝たる大都市である。

 都市には十万を超える人々が暮らしていたが、しかしそのすべてが権利を有する市民であったわけではない。繁栄のおこぼれにありつこうと流れ着き物陰に棲み着いた、そうした浮浪者や物乞いも少なくはなかった。


 ここにいる母娘もその一例だった。

 幼い娘と、こちらもまだ少女めいたあどけなさを残した母親。知らぬ者の目にはおそらく姉妹としか映らぬだろう。


 娘を産んだ時点で母親はすでに物乞いで、また彼女自身生まれた時からそうだった。生まれついての物乞いである母親はしかし、娘にはコーデリアという貴族風の名前を与えた。

 愛する娘が、いつか貴族のような豪勢な食卓にありつけますようにと。

 そしていつか娘が死んだなら、そのときは貴族様のように火によって葬られますようにと、そんな願いを込めて。

 貧しさを越えて貧しい日々の底で、それでも母は全身全霊で娘を愛し、また娘も母を愛していた。


「ねぇコーディ。ほら見て、煙がお空にあがっていくよ」


 時折、母娘は連れだって丘を登った。

 丘を登り、城壁の内側にあがる煙をそこから眺めた。


 火葬の煙だった。



   ※



 都市に繁栄をもたらすものは、交易だけではない。

 三重の城壁の最深部に築かれた、神聖な火葬場。これこそが都市の心臓だった。


 その世界において、火葬は貴族の特権であった。

 平市民は焼かれぬまま棺に入れて埋葬されるのが通常で、生前に特別の功績をあげるか多額の金銭を国庫に収めたものだけが死後その体を荼毘に付される。

 市民未満の物乞いの身ともなれば、骸は野晒しに捨て置かれるのが当然である。


 死して後、人は土に帰る。しかし火によって弔われた者だけは例外だ。

 火によって焼かれた体は煙となり天に昇り、雲の上にある楽土へと受け入れられる。

 貴族、平市民、そしてその下の最下層民……それら身分の別無く、誰もが死と弔いの神話を信じている。

 信じていて、だからこそ人は金銀の輝きや宝石の煌めきと同様かそれ以上に、火葬を夢見る。焼かれて煙になることに思いを馳せる。


 卑賤な身分の汚い親子は、暇さえあれば丘の上から煙を眺めた。

 壁の内側で焼かれた誰かが、永遠を約束された天の国へと昇っていく光景を。



 コーデリア十歳のある日、空から竜が落ちてきた。

 都市に。その火葬場に。



   ※



 その竜はひどく傷ついていた。遙か遠くの大地で欲に駆られた人間の軍勢から攻撃を浴び、守り暮らしていた土地を奪われ、命一つの他にはすべてをなくして逃げ飛んできたのだ。

 だが、その命もすでにあらかた失われていた。

 生命の最期に、哀れな竜は本能的に火を求めた。

 火の温もりを求め、残された力を絞って翼を打った。


 飛翔した先には火葬場を有する砂漠の都市があり……そして、その上空で竜はついに絶命した。

 巨大な亡骸は、都市の心臓たる火葬場めがけて墜落する。


 そこで死んだことに竜には悪意などない。落ちた先に存在したことで都市に罪などない。

 誰にも悪意も罪もなく、しかし、それでも地獄は産み落とされた。


 竜の巨体に押しつぶされて死んだ、これが最も幸福な者たちだった。爆心地たる火葬場に居合わせた数十名は速やかに圧死し、それが為にその後の阿鼻叫喚を味わわずに済んだのだから。

 墜落からわずかに数秒後にはもう、竜の骸は呪いを撒き散らしはじめていた。

 恨みを宿して死んだ竜の遺骸が噴出させる、高濃度の呪詛と熱波。それらはたちまちのうちに都市に充満した。

 風よりも疾く街路を駆け抜けて、触れた物には火をつけ、触れた者からは命を奪った。


 都市はたちまち死と災いの巷と化した。


 

   ※



 あちこちに死が横たわっている。そちこちに死体が横たわっている。

 そして死は、この母娘にも食指を伸ばした。


「お母さん! お母さん!」


 コーデリアが母親に呼びかける。倒れた母親に縋って、呼びかけ続けている。

 その母親の唇が、『逃げて』と動いた。

 声はない。母親はもはや声を発せない。


 なぜなら母親は死にかけていた。


「やだ! やだぁ!」


 悲鳴が、呻きが、絶叫が幾重にも折り重なる地獄の街角で、少女の涙の声がそこに唱和する。

 コーデリアの涙が勢いを増した。

 母親を愛していたから。そしてその母親がもう助からぬとわかっていたから。


 そんな娘の頬を、母親の手が撫でた。

 汚れた手で娘の頬を撫でながら、母親の唇は再び『逃げて』と動いた。

 あるいは『生きて』と。

 そして、それっきりもう二度と動かない。


 なぜなら母親は死んでいた。



 母親が動かなくなっても、娘はその場を離れようとしなかった。

 呼吸と心臓が止まって十分と経たぬ内に、母親の骸には早くも(ハエ)がたかりはじめていた。


 横たわっていた死体たちが起き上がりはじめたのも、ちょうどその頃だった。

 蘇り、ではない。

 死者は依然として死んだまま、歩く死者として徘徊をはじめたのだ。

 徘徊し、まだ死んでいない誰かを見つけるや仲間に引き入れんとして牙を剥いた。


 その様子を遠目に眺めながら、コーデリアの小さな胸に恐怖がこみあげる。

 死への恐怖ではなかった。襲われ殺されることへの恐怖では。

 少女が恐れたのは、愛する母親があの歩く死体の群れに加わってしまうことだった。


 だから、気がつけば祈っていた。

 祈りを捧げる対象は、しかし神ではない。


「ハエよ……ハエたちよ……」 


 神にではなく、母の骸にたかる蠅と(ウジ)にコーデリアは祈る。


「どうか母さんを送ってあげて。手遅れになる前に、まだ間に合う今のうちに、どうか母さんを食べ尽くして……」


 それから再び、少女は泣く。

 誰にも弔われない母に、葬送の涙を流す。

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