神回避の慧悟くん
『神回避の慧悟くん』
人生の転機というものは、部屋の蛍光灯が切れる瞬間のように、いつも突然やってくる。
例えば加美原慧悟くんという少年の場合、それが訪れたのは中学2年生の春だった。
心臓の発作によって、大好きだった父親が他界したのだ。父と母との幸せな三人暮らしが、あまりにあっけなく終わったことがやりきれなくて、慧悟はずっと泣いていた。どうしてもっと当たり前の日常に感謝しなかったのか、どうしてもっと父親と会話できなかったのか、悔やみ続けて泣いた。
父の死から一週間が立つと、慧悟もさすがに泣き止んだ。けれど慧悟は知らなかった。涙の先に、もっと辛く厳しい現実が待っているということを。
父は、加美原家にとって頼れるリーダーであったと同時に、唯一の収入源だった。それが絶たれたということはつまり、事実上一家が一文無しになることを意味していた。母もパートを始めたが、もちろん「贅沢」はできなくなった。
慧悟は本当に、いろいろな「贅沢」を諦めた。
誕生日にプレゼントをもらう、とか。
夏休みに家族で旅行に行く、とか。
高校に進学する、とか。
*
【20時】
十一月ともなると、都内でも夜はかなり冷え込む。慧悟は今日もナイロンのジャンパーを着込んで、身を縮めながら職場である某住宅会社の高層ビルへと出社していた。その姿は傍から見れば、一流企業の本社ビルに入っていく、エリートサラリーマンに見えないこともないかもしれない。
慧悟の今の仕事は、「東海道警備保障」という会社所属の夜間警備員だ。中卒を雇ってくれる仕事となると警備員くらいしか見つからなかったので、他に選択肢はなかった。最初はもちろん苦労した。敬語の使い方すらわからなかった。しかし慧悟ももう務め始めて約三年である。つい先日、ビルの中で十八歳の誕生日を迎えた時には、もう立派な社会人になっていた。
ビルの正面からではなく警備員用の入り口から中へと入った慧悟は、入り口でタイムカードを押す。ロッカーで警備員の制服に着替えると、明確に仕事モードにスイッチが切り替わる。同級生は大学受験と戦っているであろうこの瞬間、慧悟は一人の社会人として、昨日と変わらぬ一歩を踏み出した。
警備室に入るなり、慧悟は同僚たちに声をかける。
「こんばんちわぁーっす。今夜もマジぶち上がって行きまっしょ~」
明らかにチャラさが際立っている慧悟の挨拶に、モニターを見ながら待機していた同僚たちが一斉に振り返った。部屋には三人の警備員が待機していたが、全員七十歳を超えたベテラン揃いである。彼らは慧悟を見るなり、深い皺が刻まれた顔をほころばせて笑った。
一番近くにいた男が最初に声をかける。
「おー慧悟くんいらっしゃい。今晩も相変わらずチャラいねぇ元気が貰えるよ」
「田中さんだってまだまだお元気ですよ。それに俺、もうチャラくないっす。もうあの頃とは違うんすから~」
ふわふわしたトーンで答える慧悟を見て、田中の後ろで事務作業をしていた男は首をかしげた。
「そうかなぁ、私にはチャラく見えるけど。制服改造してるし。いや若い子は存在自体がマイナスイオンみたいなものだから全然好きにしてもらっていいんだけどね」
「あ、佐藤さんこんばんわ。それと、こりゃ改造じゃなくて『着崩し』だって何回も言ったじゃないすか~」
慧悟は制服を引っ張ってアピールする。彼の制服は確かに他の警備員とは異なり、襟元とネクタイが緩められ、帽子には謎のキャラクターの缶バッチが沢山つけられていた。おまけにベルトからズボンにかけては、アクセサリーのチェーンが何本も伸びてジャラジャラ音を立てている。
それを指差しながら、また別の同僚が申し訳無さそうに口を開く。
「来週あたり、職員の慰安のためにサーカス団のパフォーマーの方が来るそうなんだ。僕は慧悟くんの自由なファッション好きだけど、来週のあいだは奇抜すぎる格好は控えたほうがいいよ。パフォーマーの人に間違われちゃうかもしれないから」
「ご注意ありがとうございます、吉田さん。気をつけときますよ~。てゆーか、サーカスが来るんすか? 俺らも見れます~?」
「いや、日中に社内で演技するだけだろうから、我々夜間警備員には縁ないだろうね。でも準備の方は前々からあるらしいから、その奇抜集団と慧悟くんの奇抜制服が被ってごっちゃにされないように、パフォーマーが来る日はカレンダーに丸をつけといてあげるよ」
「あはは、ありやとやっす」
吉田の配慮に、慧悟は明るくお辞儀する。「ありがとうとごめんなさいは、社会においてマジ大切」と、慧悟の心のノートに書いてあるからだ。
――と、このように、慧悟の社会との向き合い方は明らかにズレていたものの、持ち前の明るさと前向きさで、職場ではかなり甘やかされていた。老人たちの多い現場の特殊性もあり、口調は軽いが年長者を敬い、よく働く慧悟は、軽くアイドルのように取り扱われていた――
慧悟は同僚との挨拶を終えると、いつものようにモニターの前の、紫色の座布団が敷かれた席に座る。今までビルの警備員として数件のビルに配置されて来た慧悟だが、どこのビルもメインの仕事はモニター監視だった。何時間も椅子に座っているので、座布団は必須アイテムなのだ。
しかしそんな慧悟を、田中が呼び止める。
「あー、慧悟くんちょっと」
「どうしたんすか~?」
「今日の警備なんだけど、警備システムにメンテナンスが入るらしいから、巡回がメインになると思う。今はモニター映ってるけども、ビルの社員さんが帰ったら半分くらい使えなくなるらしい。そしたら全フロア歩きで確認することになるから」
「マジっすか。でもそういやこのビル、カメラの映像が乱れたりとか多かったっすもんね~。モニターの時刻が狂ってたこともあったし」
慧悟は納得して頷いた。一年前にこのビルに配属されてからというもの、不思議といえば不思議な現象が何度かあったからだ。
「お化けでもいるんすかね~」
冗談めかして言うと、吉田が前のモニターを見つめたまま体を震わせる。
「ちょっと、怖いこと言わないでよ。この歳になってもお化け屋敷とか無理なんだから」
「アハハ、それ多分ビルの警備員向いてないっすね~」
「本当に怖いもの知らずな慧悟くんが羨ましいよジイさんは」
ため息をつく吉田を見て、慧悟はふと思い出す。
「そういや、昔は親に注意されたっけ。『夜ふかしするとお化けに会うよ』って。俺も昔はチョー怖がりだったんで、小学校の頃なんか今頃ヨユーで寝てたっすね~」
ちなみに慧悟の出勤時間は二十時である。
しみじみとする慧悟に、佐藤が尋ねた。
「もう慧悟くんも三年目だろう? 連日の夜ふかしで、お化けには会えたかな?」
白髪頭になっても、少年のような好奇心を覗かせる佐藤に、慧悟は苦笑しながら首を振る。
「いいえ、全然。会えるもんなら会いたいっすけど、俺って、つくづくファンタジーとは無縁なんすよね~」
その声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
【23時】
慧悟はモニターの前から立ち上がると、懐中電灯とチェック用紙を持って警備室を後にした。これから慧悟は、広大なビルの敷地を隅々まで巡回していくこととなる。警備システムが使えないぶん、ワンフロアあたり最低でも一五分はかかるので、ビル全体を巡回するころには退勤時刻が来ているだろう。
まず最初に、慧悟はビルの外の屋外駐車場を訪れた。地下の立体駐車場には常駐の警備員がいるが、地上の駐車場の確認は屋内警備の担当になっていた。
外に出ると、冷たい風とともに、大都会の景色が慧悟を出迎える。日付も変わる時刻とあって、オフィス街に明かりや人通りは少ないが、上空はるかにそびえるビル群の真っ黒なシルエットたちが、のしかかってくるようだった。
胸がつまるようなその息苦しさは、慧悟の抱える現実の重さでもあった。警備員の仕事にやりがいがないわけではないが、時々「同級生たちはどんな青春があるのだろうか」と考えてしまうこともある。そんな時慧悟は決まって、ビルの隙間の狭い空を見上げて深呼吸するようにしていた。そうすると、どうにもならない無力さが気持ちいいほどすんなり受け止められ、他人を恨まなくても、また現実と向き合うことができた。
今日も冷たい空気を吸って、慧悟は気持ちをリセットする。駐車場には一台も車がないのを確認したので、今度はビルの外周をライトで照らしながら回っていく。決められた点検箇所を確認していきながら、慧悟は思考を別のことへと変えていた。
慧悟にはいくつかささやかな趣味があった。
例えばその一つは音楽鑑賞で、「メロディアス」という名前のバンドを愛好していた。メロディアスは四人組のロックバンドで、ファンタジックな世界観の歌詞が特徴的なグループだ。ごく最近になって売れ始めたバンドだが、慧悟は無名の頃から彼らを追っていて、そのことを密かに誇りに思っていた。
別の趣味は、中学時代からスマホでやっているソーシャルゲームだ。当時一緒にやっていた同級生たちはすっかり引退してしまったゲームだが、慧悟はちょくちょく課金しながら細々と続けていた。まだ大学入学前の同級生に比べれば慧悟は給料をもらっているので、生活に支障が出ない範囲で、自由にお金をつぎ込めるのが気持ちよかった。
数ある趣味の中でも、一番の趣味といえば、ラジオを聞くことだった。夜間警備員は生活習慣が普通の人とはかけ離れすぎているため、母親に迷惑をかけないよう、慧悟は職場から三駅離れた小さなアパートで一人暮らしをしている。電車の通勤時間、暗い夜道、一人の部屋、そんな寂しい空間を暖かくしてくれるのが、いつでもやっているラジオ番組だった。近頃はオンラインで配信して、時間を選ばず過去放送を聞けるラジオ番組も沢山あるのが助かる。とにかく誰かの話し声や笑い声が聞こえてくるだけで、どれだけ独りが怖くなくなるか、慧悟はよく知っていた。だからラジオはかかせない。
と、そこまで考えたところで、慧悟は少し恥ずかしくなった。改まって趣味を列挙してみれば、みんな現実逃避の方法ばっかりだ、と気付いてしまったからだ。正直に言えば、慧悟は「非日常」に強い憧れを持っていた。自分の運命なんかもうとっくに受け入れているが、それでも誰かがやってきて、灰色どころか真っ暗な日常から自分を救い出してはくれないかといつも考えている。そんなの、中卒警備員の前に現れるはずがないのに。
「うわぁ~、チクショーなに考えてんだ俺……」
自問自答した結果、勝手にダメージを受けて恥ずかしくなるという、たまにあるパターンを食らった慧悟は、もう一度気持ちをリセットしようと空を見上げた。下から見上げるビルの姿は、あいも変わらず四角形だ。
(たまには丸くなったらいいのに~)
くだらない発想が浮かんだ時、目の端になにかが映った。
遥か上空、ビルの屋上より向こうから、なにかが落ちてくるのが見えたのだ。〝それ〟の落下速度は不思議と遅く、最初は大きな布団かなにかが空を舞っているのかとも思われた。
しかし〝それ〟が地上に近付いてきて、ぽつぽつと残されたビルの光に照らされ姿を表した時、慧悟は驚愕に目を見開いた。
「なんだよ!? オイ!」
それは、一人の少女だった。ゆったりとした衣装と、投げ出された長い髪の毛が、夜風に波打ったシルエットを作っていた。
見惚れていうちにも、ゆっくりと、しかし止まることなく落ちてくる少女の様子を見て、慧悟はすぐさま走り出した。
「くそぉ、万年モニタールームの警備員にこんな走らせんなよなぁ~。ッ、間に合うか?」
慧悟は叫びながら、落下地点へと夜道を急ぐ。運動不足と、ジャラジャラのチェーンが足を引っ張るが、それでも走る。どういうわけか落下速度は遅く見えるが、地面に落ちれば怪我をするかもしれないからだ。
息を切らせながら、近付いてきた少女に手を伸ばす。
「間に合えぇー!」
激走の末、少女が道路に接しようかというタイミングで、慧悟はなんとか滑り込むことに成功した。すぐさま体を地面と少女の間にスライディングで押し込み、両手で彼女を受け止める。身につけたチェーンや鍵束がコンクリの地面に擦れ、引っかくような大きな音が鳴り、砂埃が舞い上がった。
衝撃に体を歪めながら、慧悟はお姫様抱っこの形で受け止めた少女の方に目を向ける。だいぶ周囲も明るい場所だったので、今度こそその姿がよく見えた。
その少女は、男子として平均的な背丈の慧悟が、余裕を持って抱えられるくらいの身の丈だった。少なくとも見た目では、小学校高学年から、入学したて中学生くらいの年に見える。しかし彼女がただの女の子でないことは、すぐにわかった。まず目を引いたのは、その服装だ。白地に青く光る糸で装飾された、どの国のものにも見えないドレスには、アクセサリーと思わしき白金の輪っかがいくつか取り付けられ、その輪っかのお互いは青色のしなやかな帯でつなぎ合わされている。さらに、彼女の長い髪はよく見ると色素というものがほとんどなく、白銀に近い色で輝いていた。
異国情緒が溢れすぎている彼女を慎重に揺すり、慧悟は安否を確かめる。
「ちょっと君、大丈夫っすか? 意識あります?」
「うう……」
話かけると、わずかに吐息が漏れ、少女が目を開く。その両目は夜の道のど真ん中でも光って見えるほど、ガラスのような美しさをしていた。
少しあたりを見回した後、少女は口を開く。
「……なるほど、幾星霜の旅ののち、たどり着いたのはこのような場所か」
不思議な音色の声を響かせた後、少女は慧悟の腕を離れ、自分の足で立ち上がった。彼女の足は素足で、少し動くたびに、例の白金のアクセサリーがリンリンと綺麗な反響音を響かせていた。
やがて少女はビルの森を見上げて一息つくと、慧悟の方に振り返る。そこには、年相応の無邪気な笑みが浮かべられていた。
「この私を受け止めたということは、お前こそ、天界に選ばれたということだな。だが、運命のなんと皮肉なことだ。このような少年に全てを託すとは」
少女は大人びた口調のまま、その壮絶な美しさを緩めることなく、慧悟の前へと一歩進み出る。
「まずは自己紹介と行こうか。私は――」
「わかってるわかってる。……自殺しようとしてたんだよね」
大仰な少女の自己紹介を完全に無視して、慧悟はため息をつきながら、制服から無線を取り出した。
「えー本部、本部、至急応答して下さーい。西側の入り口付近で、自殺を試みたらしい女の子を確保しました。……あ、田中さん! 良かったっす、まだいたんすね。いや『これから帰るところだから』じゃねーんすよ~、ほんとに緊急事態なんすから」
早口で無線を飛ばしながら、そこで一度少女の様子を伺う。彼女は鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていた。
「いやいやいや、オマエおかしいだろ。普通空から人が降ってきて、そんな事務的な対応になるか!?」
「『お前』!? 初対面の人に『お前』? そんな言葉遣いしちゃいけません。ったく、最近の義務教育はどうなってるんすかねぇ」
「そういうことじゃない。私は天界から……」
腕を振って抗議してくる少女に、慧悟は深くショックを受けた顔で首を振り、無線に戻った。
「田中さん、やっぱりこの子精神が錯乱してるみたいっす。そういや田中さんお孫さんとかいましたよね、どうやって小さい子と接すればいいんすか? まだ十八歳の俺には難しすぎるんすよ~」
「だ・か・ら、話を聞けと……」
「ごめんね、俺で良かったら話は絶対後で聞くから。とにかく、生きることを諦めたらマジで駄目。なにも選択肢がなかった俺と、まだ若い君とでは、未来の輝きがチョー違うんだから」
「オマエさては、私が飛び降りを図ったと思っているな。いや、私もこちらの世俗にはあまり詳しくはないが、少なくともこんな勘違いをされる可能性があるとは誰からも言われなかったぞ!」
「そうだよね。人生のやり方なんて、誰も教えてくれないんだよね……」
「オマエ話聞けよ!」
そうこうしているうちに、その場には警備室から応援が到着していた。無線を受けて駆けつけてきた田中と吉田は、少女を見るなり声を上げた。
「えっ……自殺未遂……の子? この子が?」
「なんか、うん、僕の予想とちょっと雰囲気違ったかもしれない。これってもしかしなくても、この世界のヒトじゃないんじゃ……」
どこかの誰かと違い、少女から放たれるあまりのオーラを見抜いて怯み初めた二人に、慧悟は首をかしげる。
「お二人ともなにを言ってるんすか。俺らが救わずに、誰がこの子を救ってあげられるんすか。どうやってセキュリティを突破したのかはわかんねーけど、こんな若い身空で飛び降りて来るなんて、相当な事情があるに違いないっす。でもま、とりあえず警察と消防お願いします」
『違う、天界の危機なんだ!』などと、わけのわからないことを言って暴れる少女を押さえ込みながら、慧悟は深く頭を下げる。それを見た田中と吉田は、これ以上の理解を諦めたのか、
「本当にいいんだね。なんか慧悟くんにとってとんでもないチャンスを不意にしちゃってる気がするんだけどいいんだね!?」
と、念押ししながら、少女を警備員室の方へと連れて行ったのだった。
夜道には、老人二人に両サイドを挟まれて、捕まった宇宙人のように連行されながら、叫ぶ少女の声がずっと鳴り響いていた。
「おい、本当に覚えていろよ人間! あとでどうなっても知らないからな!」
一方、残された慧悟は、落とした懐中電灯を拾ってから、冷静に次の巡回場所へと向かっていた。
――あの少女は「どうなっても知らない」とか言っていたが、それを言うなら、もう俺の人生はとっくに〝どうにか〟なっている。
そんなことを考えながら。
【24時】
慧悟は着々と屋内フロアの巡回を進めていた。
あんなことがあった後だが、慧悟の足取りは軽かった。不足の事態ではあったものの、少女のことを受け止められたのが嬉しかった。
(俺はあの女の子の命を救ったんだ~)
慧悟は誇らしい気分で、鼻歌まで歌いながらフロアの巡回と、機材の点検をてきぱきと進めていく。オフィスビルの警備員の仕事量は現場によってかなり差があるが、今晩の仕事量は間違いなく今までで一番だった。というのも、こうした大きなビルの場合、監視カメラが使えないと巡回がかなり大変なのだ。普段は監視カメラをカバーするようにフロア全体を眺めればいいのだが、今回ばかりはそうはいかない。しかも、万が一侵入者が潜んでいて、それを捕まえられなかったら、巡回担当に百パーセントの責任が降り掛かってくるのは確実だ。いつもお世話になっている同僚の老人たちのためにも、慧悟は猫の子一匹見逃さない覚悟で、隅々まで懐中電灯で照らし出した。
地上二十階建てのビルのうち、年齢的に階段を登るのが大変な十階以上を任せられていた慧悟は、その調子で十階、十一階、十二階と終わらせ、十三階のフロアへと入った。このフロアの特徴は、フロアの半分奥側がまるまる倉庫スペースになっていることだった。逆に手前の部分は普通に社員の机が密集しており、その一角には「情報課」という看板がかかっている。つまりこの十三階は、会社全体の資料を倉庫に入れて管理するための場所だった。
機密文書に彩られた物々しい場所ではあるが、フロアの半分が倉庫になっているため、巡回の時間も半分で終わる。さっさと見回りを終わらせて、後は立ち去るだけという段階になった時、ふとある場所で慧悟の目が止まった。
「あのランプ、緑だったっけ?」
視線の先にあったのは、倉庫の入り口についているランプの光だった。それは倉庫内に入るための鉄扉のノブの真上にある小さな小さなランプで、確か倉庫のセキュリティの動作状況を表していたはずだ。気になったのは、ランプが暗闇の中で「緑色」に煌々と輝いていたことだった。慧悟の記憶では、いつもはそのランプは「赤色」に光っていたはずだからだ。
ただライトの色が違うだけだが、それは深刻な可能性を示してた。なぜなら、倉庫の扉は厳重に閉まっているのが常であり、その色がいつもの「赤色」のランプだとすると、現在の「緑色」のランプは、その真逆。つまり、機密文書や重要な荷物の入った倉庫が、開けっ放しになっている、という状況を表しているかもしれないからだ。
そもそもがただの記憶違い、という線はあまり考えられなかった。なにしろ慧悟はこのビルを今までに何百回と巡回しているのだ。各フロアにある机の数から、フロアに置かれた置き時計の角度まで、全て正確に覚えている自信がある。
結局、慧悟はフロアの中央まで引き返し、確かめてみることにした。鉄扉のノブに手をかけて、思い切り捻ってみる。
「……えっ?」
なんと、扉は何の障害もなく簡単に開いた。いくらメンテナンス中とはいえ、扉のロックまで外すとは、さすがの慧悟も思わない。明らかな異常事態が発生していた。
急いで倉庫の中を覗き込もうとすると、扉の内側付近が、何やら金色に発光していることに気がついた。目を凝らしてみると、
「――――。」
なにやら古代文字のようなものがまばらに書いてあり、その一文字一文字が蛍のようにぼんやりと発光しているのがわかった。それらの文字は神秘的に煌めきながら、倉庫の奥まで、ずっと続いていた。
息を飲みながら、慧悟は文字の後を視線で追う。そしてその先、倉庫の中央付近に目をやった時、慧悟は悲鳴に近い声を上げた。
「誰だあんたっ!?」
視線の先に、一人の男が立っていることに気がついたのだ。そこは会社の文書が収められた、大きな書棚と書棚のあいだの空間で、さっきの文字から出る光の十倍も強烈な光源があり、その中央で彼は下を向いていた。
突然の不審者に、慧悟はすぐさま男に駆け寄る。近付いて見ると、それは魔法使いのような厚いローブを纏った老人だった。
「おいおいおーい! ここは関係者以外立ち入り禁止なんすよ~! てゆーかどうやって入って来たんすかおじいさん」
手を振って声をかけると、老人は一言。
「非力な人の子の小僧が邪魔をするな。そこで儂の悲願達成を見ていろ」
冷徹に言い放って、また下を向いてしまった。一瞬こちらを向いたその顔は、北欧人のように彫りが深く、それがまた異様だった。
注意した不審者に逆に凄まれて慧悟は驚いたが、逆になにをそんなにありがたがっているのかと彼に習って下を見てみる。
「――☆――☆――☆――」
……一言で言えば、それは「魔法陣」だった。円形や四角形、多角形を組み合わせた複雑な図形の陣の上に、入り口からずっと続いていた例の古代文字がびっしりと書き込まれている。
もう一度慧悟が顔を上げた時、老人も動き出した。腕を振り上げ、魔法陣に向かって振り下ろす。
「――――! ――――!」
聞いたこともない、どこの国の言語だかわからない呪文が彼のしわくちゃな口元から放たれると、すぐさま魔法陣に変化があった。
どおん、という強烈な炸裂音とともに、もうもうと煙が立ち登ったのである。
突然のことにひっくり返りそうになった慧悟だったが、すぐに自分の職務を思い出して煙の中へと、怒声とともに突っ込む。
「ちょっと、さすがにこれはナシよりのナシの犯罪行為っすよ。おじいさんが誰だか知らないけど、警察呼んじゃいま……」
しかし煙を突っ切り、奥へと踏み込んだ慧悟は、その先の景色を見て言葉を失った。
そこには、二つのシルエットがあった。
「ついに成功したぞ! 世界線を超え、ついに儂は崇高にたどり着いたのだ!」
一人は、そう言ってなぜか狂気乱舞するさっきの老人。
そしてもう一人は、魔法陣の中央に立っていた。
「我を呼び出したのは、お前たちか……?」
地鳴りのような響きの声を響かせたのは、一人の女性……に見えた。彼女は、体は間違いなくグラマラスな婦人の肉付きをしているのだが、衣服としては、鎧にも鱗にも見える、硬質ななにかを身にまとっていた。身長は二メートル近くはあり、顔は爬虫類と人間のハーフのような、動物的で筋張った造形をしていた。極めつきは、頭部から二対の立派な角が生えていたことである。
ひと目で「悪魔」という言葉が連想される存在と、その召喚者を目の当たりにして、慧悟はようやく理解した。
(そうか、この人たちは……っ!)
慧悟は魔法陣の手前に立っている老人に近づくと、その肩を強く叩いた。
「誰かと思ったら、サーカス団パフォーマーの方だったんすね!」
その一言に、老人も、魔法陣の悪魔も同時に首をかしげる。
「は?」
「ぬ?」
お構いなしに、慧悟は彼らに笑顔を向ける。
「いやぁ、こんなバリ素晴らしいパフォーマンス見せられたら、もうなんも言えないっす。いや俺も、同僚からパフォーマーの方たちが近々準備に来るとは聞いていたんですけどねぇ、まさかこんなすぐだとは」
そう、慧悟は彼らが超常的な存在だと疑う前に、別の解釈にたどり着いてしまっていた。
出勤した時に吉田が言っていた、
『来週あたり、職員の慰安のためにサーカス団のパフォーマーの方が来るそうなんだ』
という言葉を思い出し、老人と悪魔っぽい女性がそのパフォーマーだと結論付けたのだ。
倉庫の中の異様な景色を目の当たりにしながらニコニコする慧悟に、老人がさすがに眉を潜めて尋ねる。
「小僧は、この場が恐ろしくはないのか?」
「いや全然。さすがにしょっぱなは異世界の出来事かと思いましたけど、パフォーマーの方々だとわかったら圧倒的に感動が勝ちますよ。でも確かにこの倉庫の中なら、誰にも見られずに練習できるっすね~。あ! でも安心して下さい、俺絶対誰にもこのこと言わないの約束できるっす。口硬いんで」
「お主、よく他人の話を聞かないタイプだとか言われたりせんか?」
「いや全然。むしろ聞き分けいい子だって、近所でも評判でしたけど」
「もうよい……」
老人は諦めた様子で顔をそむけた。慧悟はそれを「練習を再開したい」というプロの意思表明だと捉えて、気を利かせて倉庫から出ていった。
『儂がお主……大悪魔ウルチャロに願うは、この事象世界における第二次魔導戦争の再現である……』
背後から聞こえてくる妙に気合の入った演技に内心感動しながら、慧悟は次のフロアへと急ぐ。もちろん、手にした点検用紙には「異常なし」と、力強くチェックマークをつけておいた。
【1時30分】
十七階までの巡回がスムーズに終わり、慧悟はかなり順調なペースで仕事を進めていた。しかし十八階への階段を上っている途中に、慧悟の心にはふつふつと疑問が持ち上がっていた。
(そういば今日、緊急事態起こりすぎじゃね?)
思えば、最初に出会った自殺志願者の少女がどうやってビルに侵入したのか、十三階の倉庫にいたパフォーマーが、そもそも倉庫のセキュリティをどうやって突破したのか、慧悟には何もかもわかっていないのだ。
生まれた疑問は、カーペットに水をこぼした時のように、じんわりと広がっていく。そして慧悟はついに、廊下の途中で足を止めた。
(もしかして、俺が気がついていないだけで、このビルでなにかとんでもないことが起きているんじゃ……?)
思わず慧悟は来た道を振り返る。今からでも戻って、通り過ぎてきたことを確かめるべきではないかという考えも、段々と首をもたげてきた。
(てゆーかどうして、俺はビルの階段を登ってんだ?)
考えすぎで、ついには哲学的な問題に行き当たってしまったかと思われた。が、その瞬間、慧悟の頭に電流が走った。
「そうだ! 今日は警備システムのメンテナンスが入ってんだったぁ~」
深夜の廊下のど真ん中で、慧悟は哲学的問題に超絶シンプルな回答を見つけてしまった。すると、そうか、そういうことか、と、彼の脳内で勝手に理解が進んでいく。
――あの少女が屋上に入れたのは、屋上を施錠しているロックが外れていたからだ。なぜならメンテナンス中だから。そしてあのパフォーマーが倉庫に入れたのも、ロックが外れていたからだ。なぜならメンテナンス中だから。それに俺が階段をひたすら登っているのも、メンテナンス中のせいでエレベーターが使えないからだ!
慧悟はもやもやとしていたものが晴れた気分で、颯爽と十八階フロアの入り口の扉に手をかけるのだった。とにかく強引に解釈をつけて納得してしまうのが、彼の一番の短所だと気づくこともなく。
十八階は、会議室が密集しているフロアだった。
ひと部屋ひと部屋、会議室の入り口のドアを開いていき、慧悟は中を懐中電灯で照らして様子を確認していく。他のフロアと比べ、火の元や機械類が少なく、ただの広いだけの会議室は、このビルの中でもトップクラスに見やすい場所だった。そのため十分もあればほとんどの部屋の見回りが終わる。
やがて慧悟の目の前には、フロアの突き当りにある最も小さな会議室だけが残されていた。
これで最後か、という気分で、気軽にドアノブに手をかける。もう百回も捻ったそのノブは、今日も同じ力ですんなりと開いた。
のだが、
扉を開いた瞬間、慧悟の両目に強烈な光が飛び込んできた。
「んんっ?!」
すっかり夜に慣れた目を激しい光で突き刺され、しばらく慧悟は視力を失った。あたりの全てがチカチカと明滅し、何度もまばたきをしなくては、襲い来る光に耐えられない。
そしてやっとのことで目がなれてきた時、慧悟の目の前に広がっていたのは……あり得ない景色だった。
真っ先に飛び込んで来たのは、朝日に照らされた、青々とした高原だった。もちろん、ここは真夜中の大都会である。しかしその会議室の扉の向こうには、確かに朝の光に包まれた、まばゆい大自然の光景が存在していた。ドアの輪郭に縁取られた四角い空間の奥に、異世界が顔を出していたわけである。
これにはさすがに、普段からあまり驚かない慧悟も度肝を抜かれた。何度確認してみても、目の前には異世界の高原があり、その向こうにはおぼろげだが見たこともない文明の町並みや、高い塔がそびえているのがうかがえた。
もはや慧悟が非日常に直面してしまったという事実は、もう反論のしようもない……と、思われたが、そこで折れる慧悟ではなかった。
(あぁ……きっと俺バカ疲れて夢見てんだ……)
あからさまな異世界を前に、慧悟が疑ったのは自分自身だった。とりあえずドアを閉めて、体操座りでその場に座る。目を閉じて、慧悟はしばらく体を休ませた。
そうしているあいだ、慧悟は自分の体調についてじっくり考えることにした。警備員という職業は、昼夜問わず仕事が入る。夜間警備員として半月過ごした後、すぐさま昼間警備員として残りの半月を働くということもざらにある。そうすると生活習慣はガタガタになり、段々と体が壊れていく。そんな生活を続けていたら、会議室のドアの向こうに異世界が見えてしまっても仕方がないというものだ。
息を整えて再び目を開くと、まばゆい光はどこかへ消え去り、オフィスの廊下は静かな闇に浸かっていた。慧悟はまず一つ安心すると、もう一度ドアノブに手をかける。
「頼むっ、もう出てくんなよ~」
祈りながら、慧悟は一気にドアを開け放つ。
その先には……いつもと変わらぬ、つまらない会議室の景色があった。やはり、さっきのは慧悟の見間違いだったらしい。
心から安堵して、慧悟は会議室のドアを閉める。
「はぁ~。……休み取ろ」
ぽつりと呟いてから、慧悟は身を翻して十八階を後にした。途中、念の為にもう一度会議室を見たが、謎の光も異世界の景色も、もうどこにも見えなかった。
【4時】
十九階を軽く終わらせ、最上階の二十階へと登っている途中のことだった。ふと腕時計に目をやった慧悟は、思わず目を丸くした。
(え、もう四時!?)
時計の針は、確かに「4」を指しているのだが、それは慧悟の時間感覚から、大幅に逸脱した時刻であった。
立ち止まり、慧悟は落ち着いて今までの行動を逆算してみる。
(まず、十七階が終わったあたりはまだ一時半頃だった。その後、十八階で少し足止めを食らったけど、どんなに長く見積もってもフロアにいたのは三十分くらい。そしてさっき、十九階は体感十五分くらいで順調に回ったから、現在時刻は遅くとも……二時十五分あたりのはずなんだけど……)
しかし、現在時刻は何回確認してみても四時だ。どう見ても四時なのだ。
腕を組んで、慧悟は考える。
(なんか……時空歪んでね?)
――もし時空が歪んだとしたらいつだろうか。一番考えられるのは、例の会議室の前で目を閉じて休んだ時に、二時間近くうとうとしてしまったという可能性だ。しかし当然、そんな爆睡したらどんなに疲れていても気がつくはずだ。いや、それで逆に気付かなかったらなにか病気を疑った方がいい。
(もしかして、あの異世界は本当にあって、その影響で時空が歪んでいたとしたら――)
一瞬、突飛な発想が浮かびかけた慧悟だったが、すぐにもっと重大な事実に気がついた。
「いやでも全然時間ねぇーじゃん!」
慧悟の退勤時刻は朝の五時。残業は禁止されているため、一時間後には意地でもタイムカードを押さなくてはならない。それでまだ仕事が残っていたら、その分はタダ働きになってしまう。慌てて階段を登り、最上階へと直行する。
二十階は警備員たちのあいだで、王様のフロアと呼ばれていた。理由は単純で、社長室と最高クラスの役員室、応接室が設けられているからだ。このフロアを初めて巡回した時、慧悟はもう今は配置換えになったかつての先輩から、「絶対に部屋の物に触るな」ときつく言われたのを覚えている。ビルの中で最もたどり着くのが難しい空間だけあって、それだけ高価なものや貴重なもので溢れた場所だということだ。
背筋が伸びる気持ちで、慧悟はまず役員たちの部屋を慎重に巡回する。この部屋の主である役員たちは現役バリバリのやり手であるため、役員室には滞在しないことが多い。そのためどの部屋も綺麗に片付いていて、見回るぶんには楽な場所だった。
チェックシートに印を付けてから、慧悟はいよいよフロアの中央にある社長室の扉の前に立つ。樫の木で作られた豪勢な扉は、いつ見ても威圧的だった。慧悟とはまったく次元の違う世界の住人たちの匂いが、漂ってくるようだった。
さっきはいきなりドアを開いてえらい目にあったので、慧悟は今度はゆっくりと扉を開いた。木製の扉の取っ手には重い手応えがあり、開く時に高い音を立てたが、その向こうにはちゃんと現実世界の景色が広がっていた。
社長室の中央正面には、この会社の王が所有するアンティーク調の事務机と、ふかふかの座椅子があった。社長の机の前には、光沢のある木製のローテーブルが、一揃いの丸椅子とともにあり、いつでも役員会議が開けそうな状態になっている。
それだけでも十分に豪華な景色だが、その場にはもっと凄そうなものが沢山あった。それが、社長の椅子に向き合うように左右に分かれて設置された、背の高い収納棚である。入って右側の棚には、古びた掛け軸や、博物館にありそうな古い瓶、皿、壺など、どうあがいても高額な骨董品が所狭しと展示されていた。逆に左側の棚には、業績を称える賞状や、戦時中に国から受勲されたらしき勲章、営業許可証など、会社の歴史の権化たるプライスレスな宝物が並べられている。
先輩が「絶対に触るな」と言った理由の九割がここにあった。
あまりに危険な場所なので、慧悟は社長室に入っても展示品が盗まれたり持ち出されたりしていないか確認するくらいで、すぐに出ていくことにしていた。だから今日も当然、そうするつもりだった。しかし社長の椅子の向こうにちらりと見えた景色が、それを許さなかった。
社長室の側面は、実は一面が透明なガラス張りになっている。そこは社長の椅子の背後であり、このビルの中で最も絶景が楽しめるスポットであった。確認のために社長室の電灯を点けた際の一瞬、ガラス張りの向こうに見える薄闇の向こうをなにかが横切ったように見えたのを、慧悟の目は捉えていたのだった。
もちろん、一介のビル警備員である慧悟には、ビルの外側でなにが起ころうと関係ない。上空を飛び回る鳥たちに、いちいち目くじらを立てることもない。しかしその一瞬に、視界の端を掠めた影は、どういうわけか慧悟の興味を強く引いた。
慧悟は引き寄せられるように社長室の中央を進み、ガラス戸に手をついて外を見上げる。その向こうの星一つない暗がりのなかから、自分が見たものの姿を探す。
一分間はそうしていただろうか。目を皿のようにして外を眺めていた慧悟は、ついにさっきの影の正体を見つけ出した。
――竜だ。
そうとしか、表現のしようがなかった。慧悟は自分でも、自分の目が信じられなかった。しかもそれは目をこすっても、瞬きしても消えなかった。少し先の中空で、絵本で見たような大きな翼を持つなにかが、悠々と宙を泳いでいた。
もっとよく見ようと、ガラスとキスできそうなほど顔を近づけた時、その何かは急に進行方向を変えビルの方へとさらに近付いてきた。しかし、それがむしろ逆効果だった。もともと、内側が明るく外が暗いせいで、ガラスの壁面は鏡のようになっている。光の反射と夜の暗さのせいで、根本的に外は見えにくい。そんな状況で急に竜らしきものが近付いたせいで、見え方の具合が変わってほとんど見えなくなってしまったのだ。
思わず、慧悟はつばを飲み込む。
「これじゃ全然見えないじゃねーかぁ~」
一人頭を抱えて、体の向きを変えたり距離を取ったりしたが、もう標的は完全に見失ってしまっていた。おそらくまだ近くにいることはわかっているのに、やはりガラスの反射が邪魔で探すことができない。
(ガラスを割って外を覗けば一瞬なんだけどなぁ~)
思わずそんな邪念すら浮かんできた慧悟だったが、またしても頭に電流が走った。
社長室のガラス壁をよくよく見てみれば、当然のことながら、換気のために窓になっている部分がいくつかあった。ガラスを割らずとも、そこを内側から開いて顔を出せば、竜の一匹や二匹、簡単に見つけられるはずだ。
会心の名案に、すぐさま窓に駆け寄った慧悟だったが、夜の窓に反射した社長室の景色が目に入ってきた瞬間、窓を開閉するための金具に伸びていた手が止まった。
慧悟はもう一つ、重大なことに気が付いてしまったのである。
(……ヤバい。ここで窓を全力で開けピヨしたら、きっと大変なことになる)
そう、高層ビルの付近では、たいてい強烈な風が吹き荒れているのだ。これは高層ゆえに風を遮る壁がないことや、ビル風によって引き起こされる現象だが、とにかく地上二十階建てのビルの最上階で、窓を開ける行為はかなり危険だ。
慧悟の目の前のガラスには、背後にある棚と、そこに収められた貴重品の数々が反射して映っていた。もしいま窓を開けて、猛烈な風が正面から吹き込めば、棚が衝撃で倒れ、宝物たちも道連れにしていくかもしれない。そうなれば、慧悟の人生も自動的に終了してしまう。おそらく慧悟の生涯賃金よりも、あの妙な骨董品の掛け軸の方が値打ちがあるに違いない。
窓の数センチ手前で、慧悟は指を震わせた。もちろん、ここで窓を開けても、思いのほか風が弱くて棚はぜんぜん無事という可能性も大いにある。しかしそんな賭けができるほど、慧悟の肝は座っていなかった。
差し出していた腕を完全に下ろし、慧悟はがっくりとうなだれた。竜っぽいなにかを見かけてから、もう結構な時間が経っている。その姿を確かめることはもう不可能だろう。最初に一瞬だけ捉えた姿も、今となっては信頼できない。あの距離感で竜に見えたとしても、大きめのカラスと見間違えたという可能性のほうが高いだろう。
密かに焦がれていた非日常との遭遇。
その可能性の芽が摘まれてしまったような気がして、慧悟はなにも言えずに社長室を後にした。
彼の持つ点検用紙にはもちろん、「異常なし」にチェックが付いていた。
【5時】
巡回を終えた慧悟は、昼間警備員への引き継ぎ用紙を書き終えて、入ってきた時と同じようにタイムカードを押した。
制服を着替えて、ロッカールームを出た慧悟は、玄関口で佐藤とばったり出くわした。
「あ、慧悟くんお疲れ様。出口の自販で缶コーヒー買うけどいるかな?」
「いやいいっす。佐藤さんこそお疲れ様した~」
「あそう。でも今日はほんとに頑張ってくれたね」
疲れ切った様子の慧悟を労ってから、佐藤は慧悟の横に並んだ。
「そういえば、きみが保護した子、無事に警察に引き取られていったよ。でも凄いオーラの子だったから、あのままおとなしく捕まっているとも思えないけどね」
「そりゃ物騒っすね。なんか別れ際、あの子俺にチョー恨み言かましてたんで、復讐に来るんじゃないかとブルっちゃってますよ~」
「ワハハ! 実際、そうなると思うよ」
「ちょ、マジでやめて下さいって」
末恐ろしい佐藤の予想に、慧悟は顔をしかめて抗議する。しかし、それを見た佐藤は、意味ありげに微笑んだ。
「……でも、きっと君はまた〝避けちゃう〟んだろう?」
「はい?」
「運がいいってことだよ。だから誰が来たって大丈夫さ」
なにかを誤魔化すように言って、佐藤は急に足を早めた。老齢にも関わらず、佐藤の足取りは力強い。帰り道の路線も違うので、慧悟が別に追わないでいると、二人の距離はぐんぐんと開いた。
十メートルほど離れたところで、佐藤がふいに振り返った。
「そういえばウチのビル、土地的にはすごい龍脈の上に建ってるらしくて、この世ならざる者たちがお邪魔しやすい環境らしいんだってね」
「へぇ~」
能天気に相槌を打つ慧悟に、佐藤は朗らかな表情で尋ねた。
「どうかな、昨晩はずっと巡回だったわけだけど、今度こそお化けは見れた?」
それに対する、慧悟の答えは決まっている。
今までも、そしてきっとこれからも。
「……いいえ、マジでなんにも見えませんした。俺って、つくづくファンタジーとは無縁なんすよね」
(終)